城郭都市
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城郭都市(じょうかくとし)[1][2]とは、城壁[3]で周囲を囲み堅固に防御した都市を指す
。土塁、堀なども防御施設として用いられる。
目次
1 概説
1.1 ヨーロッパ
1.2 日本
1.2.1 総構え
1.2.2 御土居
1.3 中国
2 城郭都市の例
2.1 アフリカ
2.2 欧州
2.3 中東
2.4 南アジア
2.5 中央アジア
2.6 東アジア
2.7 北米
3 脚注
4 関連項目
概説
城郭都市の歴史は古く、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国文明や、古代ギリシアの各地に誕生している。
城郭都市の起源は環濠集落と考えられ、新石器時代に農耕が誕生するとともに世界各地で普遍的に見られた。農耕の発達が始まり集落に富が蓄積されるようになると、これを奪おうとする外敵の脅威に対して防御するため、周囲に堀をうがち土を盛り上げて土塁とした。やがて防御力強化のためより堀を深くし、水を溜め、土塁には柵を設けた。さらに版築、煉瓦や石を積んで壁を作り、壁はより高く、堅固、巨大となり、都市になっていった。これらの城郭都市は古くから都市文明が興隆し、部族、民族間の争いが頻発していた地域において著しい発展を遂げた。
ヨーロッパ
ヨーロッパの都市は、ローマ帝国の軍隊の宿営地を起源としているものが多い。ヨーロッパというのはローマ帝国の市民から見れば、「ガリア」と呼ばれる場所で、「辺境の地」、まともな文明が無い野蛮な者たちが住む場所という位置付けであった。ローマ帝国は領域を広げるにあたってローマ軍を派遣し現地の者たちと戦争を行い、そのほとんどの闘いで現地の者たちを打ち破っていったわけである。ローマ帝国は土木技術に優れており、帝国軍が進軍した場所に、ラテン語でcastra カストラという、「軍事拠点 兼 宿営施設」を構築した。ローマ軍のカストラは、ローマ軍がいなくなった後も残され、現地の者たちがそのまま使い、やがて街となっていったわけである。そういった理由で、ヨーロッパの都市名には"castra"から派生した言葉が残っているものも多い。例えば、Lancaster(ランカスター)のcasterもそうである[4][5]。
ヨーロッパでは、近隣の都市同士の戦いも相当のものがありそれも城郭都市が建設された大きな理由のひとつであるが、もうひとつにヨーロッパは、「ユーラシア大陸」というヨーロッパとアジアの大陸をあわせた巨大な大陸の一部であり、いつでも地続きで外敵が入ってくる可能性にさらされている土地であるので、基本的に外敵に対する対策は欠かせないというところがある[6]。
ヨーロッパの城郭都市・城壁都市では、城壁には城門が構えられ、堀がうがたれて跳ね橋などが設けられている場合もあった。城門の外側にもう1重城壁が設けられるなど防備は厳重を極めた。城壁の上には一定間隔で望楼が設置され、壁に開けられた銃眼によって敵を射撃した。城郭都市の内部には、丘陵に領主の城館が建てられるなどして城塞(シタデル)を形成し、周辺には家臣団の他、一般住民も居住した。大きなものでは郭内に耕地があるものもあり、井戸がいくつもあって長期の籠城に耐えられるようになっていた[7]。
大陸の主要大都市にはほとんどの場合高い城壁が備えられていることが一般的であり、パリの城壁は市域拡大に併せて放射状に拡張されたし、2度のウィーン包囲に耐えたウィーンは深い堀と総延長4kmに及ぶ城壁に塔と堡塁を備えていた。イスラム文化圏の中心都市であったバグダードも7つの城門を持つ直径2.35kmの円形の城壁で囲まれていたし、東ローマ帝国の帝都コンスタンティノープルは高さ10数メートルの3重の城壁で守られていた。
近世に至り大砲が発達したことで、高い城壁は防御の面で重要性を低下させ、実戦に耐えうるために城壁は低くなり、大砲の死角を無くすため、星形に稜堡を配する稜堡式城壁 (star fort) が主流となっていく。しかしそういった城壁も市域の拡張や航空機出現による戦術の転換のため、20世紀中には次々と取り壊されていった。残された城壁は壁上が整備され、線路が敷設されたり、高速道路になっているものがある。
日本
日本には本格的な都市が出現する以前の弥生時代に、既に互いに割拠、抗争するクニの防衛拠点として環濠集落が発達していたが、これは統一国家の形成へと向かう中で姿を消した。やがて中央集権的な律令国家が建設されていく中で、中国の都城制の概念が輸入され、国都としての平安京や平城京などは城門や望楼を設け、囲郭都市の体をなしていた。だが、これらの都城は戦時の防衛に耐えられる城壁などは築かれなかった。
中世になると博多や堺では都市の周囲を土塁と堀で囲み(環濠都市)、また各地で土塁と堀で囲まれた集落も出現するようになる(環濠集落)。一向宗の寺院も堀や土塁で防御された(寺内町)。その中で最大なのが大坂城の元となった石山本願寺である。
総構え
鎌倉幕府の本拠地である鎌倉は、馬蹄型の盆地である特性を生かし、西・北・東の三方は山で囲まれ、それを切通しなどを用いて防御施設とし、残る南側も海で守られており、いわば都市全体が自然の地形を活かして要塞化していた。「鎌倉城」と呼ばれることもある。幕府崩壊時には新田義貞の討幕軍の攻撃を一時的に凌ぎ、稲村ヶ崎への迂回突破まで防いだ。
戦国時代になり、城が戦国大名の領国経営における支配中枢拠点としての重要性を増してくると、小田原城などに見られるように城下町の周囲に自然の河川や堀、土塁を配した「総構え」という外郭構造が取られる城郭が現れた。
主な総構えの城には、
江戸城(徳川家康が構想した城で、渦巻状に堀を巡らしており、外堀の内側に徳川家に近しい旗本などが住む武家の街(武家屋敷群)を配置している。)- 大坂城
- 名古屋城
- 姫路城
- 郡山城 (大和国)
- 広島城
- 彦根城
- 福岡城
- 長浜城 (近江国)
- 甲府城
- 金沢城
- 犬山城
- 伏見城
- 米沢城
- 長岡城
- 松江城
- 高知城
などがある。
御土居
豊臣秀吉は京都の町を全長22.5kmに及ぶ長大な土塁と堀で囲んだ(御土居)。
中国
中国では「城」[8][9]の本来の語義は都市を囲む防塁・城壁自体を指していたが、後に城壁で囲まれた内部をも含むようになった。特に城壁のみを指す場合は「城牆(じょうしょう)」という。城壁の内側(内城)を「城」、城壁の外側(外城)「郭」といい区別した。
宮崎市定は中国の都城の発展段階モデルを次のように説明している[10]。最も原初の段階では、小高い丘に支配者の城塞が築かれ、その周辺に人民が散居する山城式が成立した。次に集落の回りを壁で囲った城主郭従式が現れ、そこから、内側の城の城壁を強化し城壁が二重構造となる内城外郭式と、内城の城壁がはっきりしない城従郭主式へと並行的に変化し、城従郭主式から城壁が外郭だけになる城壁式が生まれた。文献資料上では、内城外郭式は春秋時代に多く、城壁式は戦国時代以後、あるいは秦・漢代以後に多くなる[10]。
城郭都市の例
アフリカ
- エジプト
- Buhen
欧州
ルッカ(イタリア)
ルーゴ(スペイン)
アビラ(スペイン)
アヴィニョン(フランス)
カルカソンヌ(フランス)
エーグモルト(フランス)
ニュルンベルク旧市街(ドイツ)
ルクセンブルク市(ルクセンブルク大公国)
ドゥブロヴニク(クロアチア)
サンマリノの歴史地区とティターノ山(サンマリノ)
中東
アレッポ(シリア)
エルサレム旧市街 - 世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群」
メディナ旧市街(サウジアラビア)
シバーム(イエメン)
南アジア
- インド
- ジャイサルメール
デリー旧市街- ゴールコンダ
- グワーリヤル
中央アジア
バクー(アゼルバイジャン)グワーリヤル
東アジア
- 中国
平遥(中国)
西安(中国)
- 韓国
華城(韓国)
- 日本
→ #日本
北米
ケベック旧市街(カナダ)
脚注
^ 城壁都市(じょうへきとし)、囲郭都市(いかくとし)とも呼ばれる。フランス語でville fortifiée、Cité fortifiée、ville avec rempart、英語ではwalled city、fortified city、ドイツ語でbefestigte Stadt 。
^ 城塞都市(じょうさいとし)と呼ぶ場合もある。ただしこの場合の城塞はcitadelの意味ではない。
^ 城壁は仏:fr:muraille、rempart、英:city wall、独:Stadtmauer という。
^ なお、ラテン語で「tra」、フランス語で「tre」と記述されているものを英語に移入する場合は、「ter」とするのが典型的なパターンである。なお、イギリスはというのはノルマン人(=フランス西岸の民族)が支配し王となっていた歴史があるので、英語はフランス語起源の語彙が非常に多い。
^ Manchester(マンチェスター ) の「chester」もそうである。また、ローマ軍のそれでなくとも、「とりで」「城塞」「堡」はドイツ語"Burg"といい、そうしたものが都市名に残っている例もある。エディンバラの語尾もそうである。イギリス・ドイツ・ロシアの都市名に名残を残している。(→地名接尾辞#-burg)、(例:漢堡 {ハンブルク})。
^ 東ヨーロッパの境界あたりを移動していた遊牧民・狩猟民なども攻め入ってくる可能性があり、実際ヨーロッパはそうしたことを歴史上何度も経験しており、ヨーロッパ人にとっては常に心配の種で、おまけに13世紀には遥か彼方のモンゴルのチンギス・ハンやその子らの軍が地球を半周ほどもして怒涛の勢いでヨーロッパに迫った出来事があり、攻め入った村々の住民を大人だけでなく幼児・赤子まで情け容赦なく皆殺しにしてしまう この東アジアの民族の到来にヨーロッパの人々は心底震えあがり、その恐怖は彼らの心・文化に深く刻み込まれた。
^ ヨーロッパの城郭都市では、門限が定められていて、その時刻になると門扉が閉じられ、翌朝までは入ることができないとりきめになっていることが一般的であった。うっかり知り合いだからと扉を開けて、それが悪人にそそのかされたりして手先となった人で、悪人たちが複数名飛び込んできたりすると、もう都市を守ることができなくなってしまうからである。商人など離れた都市に仕事で出向く生活をする者、日中に外に遊びにゆく者たちもいたが、門限には注意を払う必要があり、遅刻してしまうと内側に入れてもらうことはできず、遅刻してしまった者は、門扉の近くの城壁ぎわなどでたき火などをしつつ、(それなりの金額のお金を持っている商人などは特に心細い想いをしながら)夜をすごす必要があった。17世紀や18世紀の作家が書いた文章などには、そうした状況の描写などが盛り込まれているものも結構あり、どうやら遅刻する者は日常的にいたようで、遅刻した者同士が夜通し語りあうことでひょんな縁が生まれる様子が描かれているものもある。
^ 日本の「城」を意味する用語(英:castle、仏:château、独:Burg / Schloss など)は封建領主の居館を兼ねた軍事施設のことである。
^ 日本では、「城」という言葉は、城塞(citadel)に近い建築(城館)を指すことが多い。しかし、防衛施設の堀や柵や土塁を指して「城」と呼ぶ例もある。
- ^ ab布野修司 traverse編集委員会(編)「作品としての都市:都市組織と建築」『建築学のすすめ』昭和堂 2015 ISBN 9784812215135 pp.197-198.
関連項目
- 城塞
- 要塞
- 攻城戦
- 城下町
- 都市
- 城
- 境内都市
- ゲーテッドコミュニティ