鈴木重成
凡例 鈴木 重成 | |
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正16年(1588年) |
死没 | 承応2年10月15日(1653年12月4日) |
別名 | 三郎九郎 |
幕府 | 江戸幕府 天草代官 |
主君 | 徳川家康、秀忠 |
氏族 | 三河鈴木氏支流・則定鈴木家 |
父母 | 鈴木重次 |
兄弟 | 正三、重成 |
子 | 重辰、重頼、重祐 |
鈴木 重成(すずき しげなり、天正16年(1588年) - 承応2年10月15日(1653年12月4日))は、江戸時代初期の幕臣・天草代官。三河鈴木氏の支流・則定鈴木家の鈴木重次の三男。禅僧で仮名草子作者の鈴木正三は兄。三郎九郎を称する。養子に重辰、子に重頼、重祐。
目次
1 経歴
2 自刃説について
2.1 自刃説の真偽
3 鈴木重成を描いた作品
4 文献
経歴
徳川家康・秀忠に仕え、大坂の役にも従軍。200石を知行する。兄2人が別家していたため、元和6年(1620年)父・重次に家督を譲られ、もとの200石とあわせて計700石を知行した。
寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱では追討使・松平信綱に従って戦地入りし、原城攻撃に参加、一番乗りの武功を顕彰されている。戦後の寛永18年(1641年)、天領となった天草の代官に任じられる。
当時の天草は、この地を支配していた唐津藩主の寺沢広高・堅高2代にわたって為された過酷な収奪と、乱による荒廃で疲弊を極めていた。重成はこの地域への植民を促進し、寺沢氏の算出した石高を疑問視して再検地を実行した。また、踏絵を執行する傍らで兄・正三を呼び寄せて説法を行わせ仏教への改宗を勧めたり、彼の手による『破切支丹』を刊行したりと硬軟織り交ぜたキリシタン統制も行った。
承応2年(1653年)、江戸の自邸で死去。享年66。
旗本鈴木家は子の重祐が継いだ。
自刃説について
天草の経済的復興には限界があると痛感した重成は、幕府に対して年貢米の減免を建議した。再三の要請にもかかわらず、それは聞き容れられることがなかったため、承応2年(1653年)、訴状を残して江戸の自邸で自刃を遂げた、という話が伝わる。また、抗議のために江戸城の門前で切腹した、などとする話もある。
幕府代官職の抗議自殺に幕府は驚き、慌てて減免を前向きに検討し実現したとされる。この話により、天草の郡内には重成を祀った鈴木神社が建立され、また「鈴木様」と呼ばれる石塔が各地に立つなど[1]、領民から名代官として長く追慕される存在となった。
自刃説の真偽
郷土史家の鶴田文史は、2006年に著した『天草 鈴木代官の歴史検証 切腹と石半減その真実』の中で、多くの文献や史料を基に、自刃説は根拠がなく、1927年(昭和3年)に突然出現した説であること、年貢半減や減税の史料もないこと(次代の重辰の時期に、42000石が21000石に半減した)、重成の死は自刃でなく病死であることを主張した。[2]上記の書物によると、元田重雄が1928年、『みくに』(郷土新聞)の「天草郷土史談」に、「重成は死をもって石高半減を申請し、その旨を遺書して自刃せり」と書いたが、それ以前には全く史料はなく、『熊本県大百科事典』(花岡興輝)や『鈴木代官史料集』(寺沢光世、2003年)にも自刃を裏づける史料はない、とのことである。- だが鈴木神社が建立された年や新たに加えられた祭神の年は、鶴田文史の説の元となる1927年(昭和3年)よりはるかに古く信ぴょう性に欠ける。
- 鈴木神社 - 祭神 - 鈴木三公(正三、重成、重辰)[3]住所 - 熊本県天草市本町本681
- 寛文5年(1665年)重成の遺徳を慕って鈴木塚が建てられる。
- 寛延2年(1749年)社殿を新築。
- 天明8年(1788年)重辰、正三を加えて三神となる。
- 文政6年(1823年)鈴木明神と命名される。
鈴木重成を描いた作品
『雲さわぐ 天草の代官・鈴木重成』藤井素介 講談社 1995年
文献
^ 英雄たちの選択『激突!島原の乱 天草四郎vs.松平信綱』(NHKBSプレミアム、2014年9月11日放送)
^ 鶴田文史『天草 鈴木代官の歴史検証 切腹と石半減その真実』天草民報社、2006年
^ 鈴木三公を祀る鈴木神社(熊本県)
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