鷺洲町


















































さぎすちょう
鷺洲町
廃止日
1925年4月1日
廃止理由
編入合併
西成郡・東成郡計17町27村→大阪市
(大阪市第二次市域拡張)
現在の自治体
大阪市
廃止時点のデータ

日本の旗 日本
地方
近畿地方
都道府県
大阪府

西成郡
総人口
40,904
(国勢調査、1920年)
隣接自治体
大阪市、神津町、中津町、稗島町、歌島村
鷺洲町役場
所在地
大阪府西成郡鷺洲町大字海老江
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鷺洲町(さぎすちょう)は、かつて大阪府西成郡にあった町。現在の大阪市北区、福島区、淀川区、西淀川区のそれぞれ一部にあたる。




目次






  • 1 地理


    • 1.1 交通




  • 2 歴史


  • 3 教育


  • 4 参考文献


  • 5 脚注





地理


大阪市街地の北西に位置した。淀川の運んだ土砂による砂州で形成されたと考えられている。地形は全体的に平坦となっていた。古来から「鷺洲(さぎしま)」とよばれていたと伝えられていることが、町名の由来となっている。


地域は浦江(うらえ)・大仁(だいに)・海老江(えびえ)・塚本(つかもと)の4つの大字からなっていた。


浦江はおおむね、現在の北区大淀の西部と福島区鷺洲にあたる。古来からこの地は大江郷浦江岬と呼ばれ、その後浦江となったと伝えられる。


大仁はおおむね、現在の北区大淀の東部にあたる。儒学を伝えた王仁ゆかりの地だったことから、王仁が転化して地名となったといわれる。


海老江はおおむね、現在の福島区海老江と西淀川区花川にあたる。古来海中にあり、海老洲(えびす)と呼ばれていたことが地名の由来だとされる。なお、現在の花川のあたりは海老江新家(鼻川新家)とも呼ばれた。


塚本はおおむね、現在の淀川区塚本と西淀川区柏里にあたる。『和名抄』に「槻本郷」とあることから地名がとられたといわれる。「槻本」は「つきのもと」あるいは「つかのもと」と読ませたのではないかと指摘されている。


このほか町域に伝わっていた地名として、柏里・花川があった[1]。神功皇后の三韓征伐の伝説に関連して、この地に立ち寄った神功皇后に対して柏の葉にのせた餅を献上したことからこの地が「柏里」とよばれるようになり、また対岸に鼻のように突き出したような地形だったから皇后がこの地を「鼻川」(のち漢字を変更して花川)と名付けたとする伝承が残る。


明治時代の新淀川の開削により、塚本と海老江新家は新淀川の北岸に分断される形になっている。



交通


東海道本線の線路は町内の浦江・塚本を通過したが、町内には駅は設置されなかった。現在の塚本駅の場所は旧鷺洲町域にあたるが、駅の開業は大阪市編入後の1934年である。


阪神本線は1905年に開業し、町の南端から西端を大阪市との境界を縫うように走っていた。町内に淀川駅が設置された。また野田駅(野田阪神)は町と大阪市との境界付近(大阪市側)に立地していた。


阪神北大阪線は1914年に開業した。野田阪神を起点として海老江を北へ進み、淀川の南側で東に向きを変えて浦江・大仁と町域を進んだのち、中津・天六に至る路線となっていた。また阪神国道線は野田阪神を起点として、海老江の西寄りを北西方向に貫き、西成大橋(現在の淀川大橋)を通って歌島村野里方面へ至った。



歴史


古代には難波八十島と呼ばれた地域の一角で、淀川などの流す土砂が堆積して陸地が形成されたと考えられる。中世には鷺島荘と呼ばれる荘園が形成された。


江戸時代までに地域には、摂津国西成郡浦江村・大仁村・海老江村・塚本村が成立した。江戸幕府の直轄地となり、浦江村・大仁村は谷町代官所、塚本村・海老江村は鈴木町代官所の管轄となった。


1889年の町村制施行により、浦江村・大仁村・海老江村・塚本村が合併して西成郡鷺洲村となった。村役場は海老江(現在の福島区海老江5丁目)に置かれた。


明治時代中期までは農村だったが、大阪市街地の発展により、大阪市に隣接する地理条件のあるこの地でも人口が急増し宅地化が進んだ。


鷺洲村は1911年2月1日に町制を施行し、鷺洲町となった。大正時代には、新淀川南岸の地域は住宅密集地となっていた。その一方で淀川北岸については、編入直前も農村の風景が広がっていた。


1925年の大阪市の第二次市域拡張により、大阪市に編入された。旧鷺洲町域は全域が西淀川区に属し、旧町の大字をそのまま西淀川区の町名として採用した。旧町役場は西淀川区役所に転用された。


その後1943年の行政区分増区・境界変更により、旧町域は西淀川区・福島区・大淀区[2]・東淀川区[3]の4行政区へ分割・変更されている。



教育


町内には以下の小学校が設置された。



  • 鷺洲第一尋常高等小学校(現・大阪市立鷺洲小学校)

  • 鷺洲第二尋常小学校(1946年廃校)

  • 鷺洲第三尋常小学校(現・大阪市立海老江西小学校)

  • 鷺洲第四尋常小学校(現・大阪市立大淀小学校)

  • 鷺洲第五尋常小学校(現・大阪市立柏里小学校)


明治時代初期の学制発布に伴い、地域に小学校が設置された。


1874年、海老江村・浦江村・大仁村と上福島村の連合で、西成郡第三小学区第三番小学校(上福島小学校、のち神子田小学校。現在の大阪市立上福島小学校)が設置された。また同年には、塚本村と成小路村(町村制により中津村)の連合で西成郡第三小学区第五番小学校(成小路小学校)が設置された。


1877年には、海老江村の西成郡第三小学区第九番小学校(海老江小学校)と塚本村の西成郡第三小学区第十一番小学校(塚本小学校)が独立した。海老江小学校は大仁・浦江の両村と学校組合を設置して鷺洲小学校となったが、1887年に神子田小学校へ統合された。


また塚本小学校は1885年、光立寺村(のち中津村)の西成郡第三小学区第七番小学校(光立寺小学校、現在の大阪市立中津小学校)と統合し廃校となっている。


1889年の町村制発足当時の鷺洲村では、隣接する上福島村・下福島村と学校連合を設置し、神子田小学校を運営していた。しかし上福島村・下福島村は1897年の大阪市第一次市域拡張により大阪市に編入された。鷺洲村の児童は引き続き神子田小学校に通学していたが、村独自の小学校を設置することになり、1897年に鷺洲尋常小学校(1912年鷺洲第一尋常高等小学校に改称)が開校した。


大正時代に入ると地域の児童数の増加により、鷺洲第二尋常小学校(1912年)、鷺洲第三尋常小学校(1914年)、鷺洲第四尋常小学校(1918年)が次々と開校している。


また新淀川の開削により北岸に隔てられた塚本・海老江新家については、1910年に塚本に鷺洲校の分教場を設け、地域在住の低学年児童が通学した。分教場は1914年の鷺洲第三校の開校に伴って同校分教場へ移管されたのち、1924年に鷺洲第五尋常小学校として独立開校した。



参考文献



  • 西成郡鷺洲町役場 『鷺洲町史』、1925年。NDLJP:1019724。

  • 大阪都市協会 『大淀区史』 大淀区コミュニティ協会・大淀区史編集委員会、1988年。

  • 大阪都市協会 『福島区史』 福島区制施行五十周年記念事業実行委員会、1993年。

  • 大阪都市協会 『西淀川区史』、1996年。



脚注


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  1. ^ いずれも現在は西淀川区の町名として採用されている。


  2. ^ 1989年合区で北区。


  3. ^ 1974年分区で淀川区。









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