大道村 (大阪府)
だいどうむら 大道村 | |
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廃止日 | 1925年4月1日 |
廃止理由 | 新設合併 西成郡・東成郡計17町27村→大阪市 (大阪市第二次市域拡張) |
現在の自治体 | 大阪市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
郡 | 西成郡 |
総人口 | 1,468人 (国勢調査、1920年) |
隣接自治体 | 西成郡中島村・新庄村・豊里村 三島郡吹田町 北河内郡庭窪村・守口町 |
大道村役場 | |
所在地 | 大阪府西成郡大道村大字北大道 |
ウィキプロジェクト |
大道村(だいどうむら)は、かつて大阪府西成郡に存在した村。現在の大阪市東淀川区の東部にあたる。
目次
1 歴史
1.1 沿革
2 脚注
3 関連項目
歴史
三宝寺跡伝承地の発掘では縄文土器が発見されている[1][2]。
『日本書紀』の応神朝22年(291年)3月5日の条に「天皇幸難波、居於大隅宮、登高台而遠望 (すめたみこと なにわ みゆきし おおすみのみやにおいて たかきやに のぼりて えんぼうす)」との記載がある。現在の大隅神社の場所が、応神天皇の離宮である「大隅宮」の建てられていた大隅島であったとされる[3]。
『続日本紀』の安閑朝2年(532年)9月13日の条に、「勅して牛を難波大隅並びに媛島松原に放たしむ」と記されている この難波大隅と媛島松原は、霊亀2年(716年)に「大隅媛島の二牧を罷む」という記述が続日本紀にもある。平安時代に入っても、この付近では乳牛を放牧してその牛乳を朝廷に献上しており、 のちには「乳牛の牧」という荘園になった[4]。
中世以降、乳牛牧荘大道村とも呼ばれていた[5]。現在の大桐5丁目には、乳牛牧跡の石碑がある[6]。
大道村の範囲は広く、今の大桐、大道南、瑞光、大隅、井高野、小松をも含んでいた。なお、この地には、三宝寺、辻堂、東頭、別所、今在家、逆巻、濱、井高野、島頭などと呼ばれる地域(字地)もあった[7]。
小松は、大道新家、北大道村大字小松や中嶋(中島)村大字小松などと時代によって違っている[8][9]。1868年(明治元年)に大道新家村から小松村に正式に改称され、町村制施行に際しては江口村と合併して中島村が発足している。
阪巻村は現在淀川の川底にある[10]。
昔、淀川を京に向け逆上る船は、大宮神社の森を目標にして西風を利用して逆航し、当時の大宮神社付近で帆を一担おろし、舵を北に取って帆を逆に巻き揚げ北進し、辻堂の浜にかかって舵を東に帆を元にもどして、江口・鳥飼へと東進し、川を逆上って行ったと言われている。この大宮神社があった付近が阪巻村である。大宮神社は移動して、現在大道南3丁目2-2にある[11]。
明治時代初期に作成された『旧高旧領取調帳』(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)[12]によると
- 摂津国 西成郡 南大道村:仙石松渓知行所 大阪府
- 摂津国 西成郡 西大道村:仙石松渓知行所 大阪府
- 摂津国 西成郡 北大道村:土井大炊頭(古河藩)領分 古河県
となっている。 なお、南大道村=大道村(大道村大字南大道)、西大道村=三宝寺村(大道村大字三宝寺)、北大道村=辻堂村(大道村大字辻堂)だと考えられている[要出典]。
沿革
1643年(寛永20年) 西成郡大道村が北大道村、西大道村、南大道村に分村。
- 大道新家村はこの時の成立とも、1672年(寛文12年)の成立とも言われる。
1889年(明治22年)4月1日 町村制の施行により、西成郡北大道村、西大道村、南大道村が合併して西成郡大道村(町村制)が発足。大字北大道に村役場を設置。
1925年(大正14年)4月1日 大阪市第2次市域拡張により、新設の東淀川区の一部となる。
脚注
^ 三宝寺跡伝承地(東淀川区)出土の縄文土器と寺院関係遺物 - 大阪歴史博物館
^ 三宝寺跡伝承地D地点発掘調査報告
^ 大隅神社 - 大阪市東淀川区
^ 東淀川区のなりたち
^ 井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
^ 乳牛牧跡(ちゅうしまきあと・ちちうしのまきあと) - 大阪市東淀川区
^ 井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
^ 井上正雄『大阪府全志』巻之3、大阪府全志発行所、1922年[要ページ番号]
^ 西岡秀爾「摂津中 嶋三宝寺とその周辺 (PDF) 」『印度学仏教学研究』第55巻2号、日本印度仏教学会、2007年
^ 逆巻地蔵 - 大阪市東淀川区
^ 大宮 - 大阪市東淀川区
^ 旧高旧領取調帳
関連項目
- 大阪府の廃止市町村一覧