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レオポルト2世Leopold II
ローマ皇帝
在位
1790年 - 1792年
戴冠
1790年10月9日
別号
トスカーナ大公(1765年 - 1790年) ハンガリー王 ボヘミア王 ローマ王 クロアチア・スラヴォニア王 オーストリア大公
全名
Peter Leopold Joseph Anton Joachim Pius Gotthard von Habsburg-Lothringen ペーター・レオポルト・ヨーゼフ・アントン・ヨアヒム・ピウス・ゴットハルト・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
出生
1747年5月5日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーン
死去
1792年3月1日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーン
埋葬
神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ウィーン、カプツィーナー納骨堂
配偶者
マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン
子女
マリア・テレジア フランツ2世 フェルディナンド3世 カール ヨーゼフ・アントン マリア・クレメンティーネ ヨハン ライナー ルドルフ・ヨハネス
王家
ハプスブルク=ロートリンゲン家
王朝
ハプスブルク=ロートリンゲン朝
父親
フランツ1世
母親
マリア・テレジア
宗教
キリスト教カトリック教会
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レオポルト2世 (ドイツ語:Leopold II. , 1747年5月5日 - 1792年3月1日)は、神聖ローマ帝国のローマ皇帝(在位:1790年 - 1792年)、トスカーナ大公(レオポルド1世 Leopoldo I. , 在位:1765年 - 1790年)。全名はペーター・レオポルト・ヨーゼフ・アントン・ヨアヒム・ピウス・ゴットハルト・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(ドイツ語:Peter Leopold Joseph Anton Joachim Pius Gotthard von Habsburg-Lothringen )。父はローマ皇帝フランツ1世(トスカーナ大公フランチェスコ2世)、母は皇后・ボヘミア女王・ハンガリー女王マリア・テレジア。皇帝ヨーゼフ2世の弟である。
目次
1 生涯
2 子女
3 人物
4 脚註
5 参考文献
6 外部リンク
生涯
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トスカーナ大公時代
1765年に父フランツ1世が死去した際、皇帝位は長兄のヨーゼフ2世が継承した。一方、トスカーナ大公国はフランツを君主(大公)としていたが帝国の領域に含まれず、また他のハプスブルク家領とは独立して統治することになっており、ヨーゼフとは別に継嗣を立てていた。元は次兄のカール・ヨーゼフが継承する予定であったが、4年前の1761年に早世したため、代わってレオポルトが大公位を継承した。
1770年に母マリア・テレジアの摂政が終わると、レオポルトはトスカーナにおいて啓蒙的改革を行った。チェーザレ・ベッカリーアの『犯罪と刑罰』の死刑廃止論に影響を受け、1769年に死刑の執行を停止し、1786年にはヨーロッパの国として初めて、死刑そのものを完全に廃止している。
トスカーナは陸軍を持たず、海軍もメディチ家時代以来の小さい軍しかなかったが、レオポルトはそれをさらに縮小し、その余剰金を税率低減の財源とした。他には憲法の起草を命じたり(革新的すぎたため最終的には施行できなかった)、種痘を制度化したり、1774年に精神障害者を病院に入れる法を制定したりした。
1790年に兄ヨーゼフ2世が死去するが、嗣子がなかったため、レオポルトが帝位を継いだ。その際、長男フランツを帝位継承者とし、トスカーナ大公位は次男フェルディナンド3世に継がせた。
帝位継承後のレオポルトの統治期間はわずかであったが、トスカーナ大公としての在位は25年に及んだ。
帝位継承後
レオポルト2世自身は進歩的思想の持ち主であったが、兄の強引な改革によって引き起こされた混乱を収めるため、皇帝即位後は農奴制廃止令の撤回、賦役の復活などの反動政策を行った。一方で質素な生活を好み、父から受け継いだ遺産を増殖させることにも成功した。
劇作家のダ・ポンテを国外追放、作曲家のモーツァルトやサリエリを冷遇するなどしたため、基本的に音楽や演劇への理解が少ないと言われるが、一方でチマローザをトスカーナ大公時代から気に入って、ロシアからの帰還を待って楽長的な職を与え、名作『秘密の結婚』作曲の契機を与えた。
レオポルト治世のオーストリア(ハプスブルク帝国)は東西からの脅威にさらされていた。ロシアのエカチェリーナ2世はオーストリアとプロイセンに革命中のフランスと戦争をさせるよう仕向け、その間にポーランドとオスマン帝国を侵略しようとし、フランス革命が飛び火する恐れもあった。これに対し、レオポルトはイギリスとの同盟交渉でロシアとフランスを牽制し、イギリスに対しては「同盟を拒否された場合はフランスに南ネーデルラントを割譲する」と足元を見られないよう脅した。イギリスの支持が得られると知ると、今度はそれを外交カードとして使い、プロイセンにレオポルトのハンガリー王即位を同意させる。さらに墺土戦争の停戦協定が結ばれ東の国境が安定すると、軍をブラバント革命の鎮圧に投入した。
1791年も外交関係での緊張が続いた。フランスでヴァレンヌ逃亡事件が起こり、妹マリー・アントワネット夫妻を危惧したレオポルト2世は、脱出に成功した国王ルイ16世の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)を介してプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行った。これはフランス人を激憤させ、フランス革命戦争になった。一方オスマン帝国とはスヴィシュトフ条約を締結、墺土戦争を終わらせた。
在位わずか2年で死去し、帝位は長男フランツ2世が継承した。
子女
皇后マリア・ルドヴィカ(スペイン王カルロス3世の王女)との間に、両親と同じく16人の子をもうけた。
マリア・テレジア(1767年 - 1827年) - ザクセン王アントン妃
フランツ(1768年 - 1835年) - ローマ皇帝フランツ2世、オーストリア皇帝フランツ1世
フェルディナント(1769年 - 1824年) - トスカーナ大公フェルディナンド3世
マリア・アンナ(1770年 - 1809年)
カール・ルートヴィヒ・ヨーハン(1771年 - 1847年) - 伯母マリア・クリスティーナ夫婦の養子としてチェシン(テシェン)公、ネーデルラント総督を継ぐ。ナポレオンに野戦で初めて黒星を付けた将軍として武名を馳せる。
レオポルト・アレクサンダー(1772年 - 1795年) - ハンガリー副王
アルブレヒト・ヨーハン・ヨーゼフ(1773年 - 1774年)
マクシミリアン・ヨーハン・ヨーゼフ(1774年 - 1778年)
ヨーゼフ・アントン(1776年 - 1847年) - ハンガリー副王
マリア・クレメンティーネ(1777年 - 1801年) - 両シチリア王フランチェスコ1世妃
アントン・ヴィクトール(1779年 - 1835年) - ロンバルド=ヴェネト副王(1816年 - 1818年)
マリア・アマーリア(1780年 - 1798年)
ヨーハン(1782年 - 1859年) - アンナ・プロッフルと貴賤結婚
ライナー・ヨーゼフ(1783年 - 1853年) - ロンバルド=ヴェネト副王(1818年 - 1848年)
ルートヴィヒ・ヨーゼフ(1784年 - 1864年)
ルードルフ・ヨーハン・ヨーゼフ・ライナー(1788年 - 1831年) - オルミッツ司教
他に愛人との間にも何人か子がある。
人物
妻マリア・ルドヴィカは豪華なスペイン王家から嫁いだが、やがて質素なレオポルトの暮らしに順応していった。夫婦仲はおおむね円満であったが、レオポルトは途中から踊り子のリディア・ライモンディを寵愛するようになる。しかしルドヴィカはリディアにも親切で、2人の仲も穏やかなものであったという。当のレオポルトは1779年頃までは、妻に対して完全に誠を尽くしていたと主張している。
兄ヨーゼフ2世に男児がいなかったため、レオポルトに男児(後のフランツ2世)が誕生した際、母マリア・テレジアは驚喜乱舞し、ブルク劇場に駆け込み「うちのポルドル(レオポルトの愛称)に男の子が生まれたのよ!」と叫んだ。悲劇の上演中であったが、芝居は完全に中断し、歓喜の渦になったという。
脚註
参考文献
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝) に関するカテゴリがあります。
先代:
ヨーゼフ2世
神聖ローマ皇帝 オーストリア大公 ハンガリー王 ボヘミア王
1790年 - 1792年
次代:
フランツ2世
先代:
フランチェスコ2世
トスカーナ大公
1765年 - 1790年
次代:
フェルディナンド3世
神聖ローマ皇帝
カロリング朝
カール1世800-814 / ルートヴィヒ1世813-840 / ロタール1世817-855 / ルートヴィヒ2世850-875 / カール2世875-877 / カール3世881-887 / グイード1 891-894 / ランベルト1 891-898 / アルヌルフ896-899 / ルートヴィヒ3世2 901-915 / ベレンガル3 915-924
ザクセン朝
オットー1世962-973 / オットー2世967-983 / オットー3世996-1002 / ハインリヒ2世1014-1024
ザーリアー朝
コンラート2世1027-1039 / ハインリヒ3世1046-1056 / ハインリヒ4世1084-1105 / ハインリヒ5世1111-1125 / ロタール3世4 1133-1137
ホーエンシュタウフェン朝
フリードリヒ1世1155-1190 / ハインリヒ6世1191-1197 / オットー4世5 1209-1215 / フリードリヒ2世1220-1250
ルクセンブルク家
ハインリヒ7世1312-1313 / ルートヴィヒ4世6 1328-1347 / カール4世1355-1378 / ジギスムント1433-1437
ハプスブルク家
フリードリヒ3世1452-1493 / マクシミリアン1世1508-1519 / カール5世1530-1556 / フェルディナント1世1558-1564 / マクシミリアン2世1564-1576 / ルドルフ2世1576-1612 / マティアス1612-1619 / フェルディナント2世1619-1637 / フェルディナント3世1637-1657 / レオポルト1世1658-1705 / ヨーゼフ1世1705-1711 / カール6世1711-1740 / カール7世6 1742-1745
ハプスブルク=ロートリンゲン家
フランツ1世7 1745-1765 / ヨーゼフ2世1765-1790 / レオポルト2世1790-1792 / フランツ2世1792-1806
^1 ヴィドー家
^2 ボゾン家
^3 ウンロシング家
^4 ズップリンブルク家
^5 ヴェルフ家
^6 ヴィッテルスバッハ家
^7 ロートリンゲン家
ハンガリー王
アールパード朝(大公)
アールモシュ855頃-895頃 / アールパード895頃-907頃 / ジョルト907頃-947頃 / ファリチ947頃-955頃 / タクショニュ955頃-972頃 / ゲーザ972頃-997 / イシュトヴァーン997-1000
アールパード朝(王)
イシュトヴァーン1世1000-1038 / オルセオロ・ペーテル1038-1041 / アバ・シャームエル1041-1044 / オルセオロ・ペーテル(復位)1044-1046 / アンドラーシュ1世1046-1060 / ベーラ1世1060-1063 / シャラモン1063-1074 / ゲーザ1世1074-1077 / ラースロー1世1077-1095 / カールマーン1世1095-1116 / イシュトヴァーン2世1116-1131 / ベーラ2世1131-1141 / ゲーザ2世1141-1162 / イシュトヴァーン3世1162-1172 / ラースロー2世(対立王)1162-1163 / イシュトヴァーン4世(対立王)1163-1165 / ベーラ3世1172-1196 / イムレ1世1196-1204 / ラースロー3世1204-1205 / アンドラーシュ2世1205-1235 / ベーラ4世1235-1270 / イシュトヴァーン5世1270-1272 / ラースロー4世1272-1290 / アンドラーシュ3世1290-1301
プシェミスル朝
ヴェンツェル1301-1305
ヴィッテルスバッハ朝
オットー1305-1307
アンジュー朝
カーロイ1世1308-1342 / ラヨシュ1世1342-1382 / マーリア1382-1385 / カーロイ2世1385-1386 / マーリア(復位)1386-1395
ルクセンブルグ朝
ジグモンド1387-1437
ハプスブルグ朝
アルベルト1437-1439
ヤゲロー朝
ウラースロー1世1440-1444
ハプスブルグ朝
ラースロー5世1444-1457
フニャディ朝
マーチャーシュ1世1458-1490
ヤゲロー朝
ウラースロー2世1490-1516 / ラヨシュ2世1516-1526
ハプスブルグ朝
フェルディナーンド1世1526-1564 / ヤーノシュ1世(対立王)1526-1540 / ヤーノシュ2世(対立王)1540-1570 / ミクシャ1世1564-1576 / ルドルフ1576-1608 / マーチャーシュ2世1608-1619 / フェルディナーンド2世1619-1637 / フェルディナーンド3世1637-1647 / フェルディナーンド4世1647-1654 / リポート1世1655-1705 / ヨージェフ1世1705-1711 / ラーコーツィ・フェレンツ2世(対立王)1705-1711 / カーロイ3世1711-1740 / マーリア・テレージア1740-1780
ハプスブルグ=ロタリンギア朝
ヨージェフ2世1780-1790 / リポート2世1790-1792 / フェレンツ1世1792-1835 / フェルディナーンド5世1835-1848 / フェレンツ・ヨージェフ1世1848-1916 / カーロイ4世1916-1918
※1918年、ハンガリー民主共和国成立
ボヘミア君主
プシェミスル朝(ボヘミア公)
ボジヴォイ1世850/71-894/5 / スピチフニェフ1世894/5-905/15 / ヴラチスラフ1世905/15-921 / ヴァーツラフ1世921-929 / ボレスラフ1世929-967 / ボレスラフ2世967-999 / ボレスラフ3世996-1002
ピャスト朝(ボヘミア公)
ヴラジヴォイ1002-1003 / ボレスラフ4世1003-1004
プシェミスル朝(ボヘミア公)
ヤロミール1004-1012 / オルドジフ1012-1033 / ヤロミール(復位)1033-1034 / ブジェチスラフ1世1034-1055 / スピチフニェフ2世1055-1061 / ヴラチスラフ2世1061-1092(王:1085-1092) / コンラート1世1092 / ブジェチスラフ2世1092-1100 / ボジヴォイ2世1100-1107 / スヴァトプルク1107-1109 / ヴラジスラフ1世1109-1117 / ボジヴォイ2世(復位)1117-1120 / ヴラジスラフ1世(復位)1120-1125 / ソビェスラフ1世1125-1140 / ヴラジスラフ2世1140-1173(王:1158-1173) / ベドジフ1172-1173 / ソビェスラフ2世1173-1178/9 / ベドジフ(復位)1178/9-1189/92 / コンラート2世1189-1191 / ヴァーツラフ2世1191-1192 / オタカル1世1192-1193 / インジヒ・ブレチスラフ1193-1197 / ヴラジスラフ3世1197 / オタカル1世(復位)1197-1198
プシェミスル朝(ボヘミア王)
オタカル1世1198-1230 / ヴァーツラフ1世1230-1253 / オタカル2世1253-1278 / ヴァーツラフ2世1278-1305 / ヴァーツラフ3世1305-1306
メンハルド朝
インジフ・コルタンスキー1306
ハプスブルコヴェ朝
ルドルフ1世1306-1307
メンハルド朝
インジフ・コルタンスキー(復位)1307-1310
ルケンブルコヴェ朝
ヤン・ルケンブルスキー1310-1346 / カレル1世1346-1378 / ヴァーツラフ4世1378-1419 / ジクムント1419-1437
ハプスブルコヴェ朝
アルブレヒト1438-1439 / ラジスラフ・ポフロベク1453-1457
ポジェブラト朝
イジー・ス・ポジェブラト1458-1471
フニャディ朝
マティアス1世・コルヴィン(対立王)1469-1490
ヤゲロンキ朝
ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー1471-1516 / ルドヴィーク1516-1526
ハプスブルコヴェ朝
フェルディナンド1世1526-1564 / マクシミリアン1世1564-1576 / ルドルフ2世1576-1612 / マティアス2世1612-1619
ヴィッテルスバホヴェ朝
フリードリヒ1世1619-1620
ハプスブルコヴェ朝
フェルディナンド2世1620-1637 / フェルディナンド3世1637-1646 / フェルディナンド4世1646-1654 / レオポルド1世1655-1705 / ヨゼフ1世1705-1711 / カレル2世1711-1740 / マリエ・テレジエ1740-1741
ヴィッテルスバホヴェ朝
カレル3世・アルブレフト1741-1743
ハプスブルコヴェ朝
マリエ・テレジエ(復位)1743-1780
ハプスブルスコ=ロートリンスカ朝
ヨゼフ2世1780-1790 / レオポルド2世1790-1792 / フランティシェク1世1792-1835 / フェルディナンド5世1835-1848 / フランティシェク・ヨゼフ1世1848-1916 / カレル3世1916-1918
※1918年、チェコスロバキア成立
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