マリー・アントワネット






























































マリー・アントワネット
Marie Antoinette

フランス王妃

Vigée-Lebrun Marie Antoinette 1783.jpg
マリー・アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年)

在位
1774年5月10日 – 1792年9月21日
全名
Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ
Maria Antonia Josepha Johanna
マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ
出生
(1755-11-02) 1755年11月2日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア帝国の旗 オーストリア大公国、ホーフブルク宮殿
死去
(1793-10-16) 1793年10月16日(37歳没)
Flag of France (1790–1794).svg フランス共和国、パリ、革命広場
埋葬
1815年1月21日
Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg フランス王国、サン=ドニ、サン=ドニ大聖堂
結婚
1770年5月16日
配偶者
ルイ16世
子女

家名
ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親
フランツ1世
母親
マリア・テレジア
サイン
Marie-AntoinetteSignature.png
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マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アブスブール=ロレーヌ・ドートリシュ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃[1]。マリア・テレジアの娘であり[1]、「美貌(びぼう)、純情な反面、軽率、わがまま」だったとされており[2]、乱費や民衆蔑視によって国民から反発された[1]。ベルサイユの宮廷生活を享楽し、その浪費等から「赤字夫人」「オーストリア女」と呼ばれた[2]。アントワネットは様々な改革に常に反対し、また青年貴族たち(特にH.フェルセン)との情愛に溺れたことで「軽率,浪費家」だったと現在では評価されている[3]。1785年の王妃をめぐる、無実の詐欺事件「首飾り事件」も、結果的に国民の反感へと繋がった[2]


1789年のフランス革命に反対し、宮廷の反革命勢力を形成したアントワネットは、立憲君主制派(ミラボーやラファイエット等)へ接近することさえも拒んだ[2]。君主制維持を目的として武力干渉を諸外国に要請し[1]、特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待した[3]。しかしヴァレンヌ逃亡に失敗[3]、反革命の中心人物として処刑された[1]。フランス革命を代表とする資本主義革命(ブルジョア革命)は、封建的な残留物(身分制や領主制)を一掃し、




  • 資本主義の発展


  • 資本主義憲法の確立(典型例としてフランス憲法)


を成し遂げた[4][5]





目次






  • 1 生涯


    • 1.1 幼少期・結婚まで


    • 1.2 宮廷生活


      • 1.2.1 デュ・バリー夫人との対立


      • 1.2.2 結婚生活


      • 1.2.3 フランス王妃として




    • 1.3 フランス革命


    • 1.4 革命裁判


    • 1.5 ギロチン処刑


    • 1.6 死後




  • 2 研究上の評価


    • 2.1 「悲劇のヒロイン」と君主主義


    • 2.2 個人性・使命感


    • 2.3 君主主義・神政主義・反民主主義




  • 3 「パンがなければ…」の発言


  • 4 人物・言行


    • 4.1 幼少期


    • 4.2 宮廷生活・舞踏会・劇


    • 4.3 プチ・トリアノン宮


    • 4.4 首飾り事件


    • 4.5 財政問題・革命前夜


    • 4.6 革命中


      • 4.6.1 「過激派」批判・反民主主義


      • 4.6.2 君主主義・反革命・フェルセン


      • 4.6.3 ヴァレンヌ逃亡事件


      • 4.6.4 憲法・立憲君主制




    • 4.7 音楽


    • 4.8 入浴・香水


    • 4.9 家具


    • 4.10 ファッション・リーダー


    • 4.11 容姿




  • 5 子女


  • 6 女官・侍女


  • 7 参考文献


  • 8 関連書籍


  • 9 マリー・アントワネットを扱った作品


    • 9.1 小説


    • 9.2 映画


    • 9.3 舞台作品


    • 9.4 ラジオドラマ


    • 9.5 漫画


    • 9.6 アニメーション


    • 9.7 ゲーム




  • 10 関連項目


  • 11 脚注


    • 11.1 注釈


    • 11.2 出典




  • 12 外部リンク





生涯







幼少期・結婚まで




少女時代のアントーニア


1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身に付けたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。


当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。


1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵(英語版、フランス語版)が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。


1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。



宮廷生活



デュ・バリー夫人との対立




婚姻の儀式の様子


結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母・マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[6][7]




1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)


ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます! ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下を御待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とする中で、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。


2人の対決は1772年1月1日に、新年の挨拶に訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。



結婚生活




王と王妃の結婚を祝うメダル


マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、極めて良かったと言われる[要出典]。鍵遊びをよく一緒にしたらしい[要出典]。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(フランス語版)(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区(フランス語版))でも送ったが、子供が生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子供マリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。




乗馬服のアントワネット。(1771年、ヨセフ・クランツィンガー画)


母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って戒めていたが、効果は無かった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子供が生まれた事をきっかけに訪れた心境の変化からピタリと止めている。


但し、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させることなどもしていた。母親としては良い母親であったようで[要出典]、元々ポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、そこに家畜用の庭を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。



フランス王妃として




王妃となったアントワネット
(1775年)




1778年




1781年




麦藁帽子にモスリンの「田舎風の装い」の王妃(1783年)


1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。


こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷では専らの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。


彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかった[要出典]という。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった[要出典]


1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。



フランス革命




「首飾り事件」の元となったダイヤの首飾り。金500㎏相当の価値があった




脱出時の王妃(1791年) 逃亡の慌ただしさの中で描かれ、顔以外は彩色されず未完成である




幽閉中の王妃


1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好で国外に亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。


1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。


1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。


タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。



革命裁判




ギロチン台へひきたてられるアントワネット


1793年1月、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。7月3日、王位継承者のルイ17世と引き離される。タンプル塔の階下に移され、ルイ17世は後継人となったジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派から虐待を受けた。


マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー監獄に移送され、その後裁判が行われた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所はジャック・ルネ・エベールやアナクサゴラス・ショーメット等にルイ17世の非公開尋問を行い「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。しかし、アントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ[要出典]




処刑前の王妃の様子のスケッチ


しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、10月15日に彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。


処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった[8]。この遺書は看守から後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書は革命後に再び発見され、革命下を唯一生き延びた第一子のマリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。



ギロチン処刑




王妃マリー・アントワネットのギロチン処刑


遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès [9]」だとされている。


通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が当時流れたとの説もある。


12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。その後群衆は昼飯の時間帯であった事もあり一斉に退散し、広場は閑散とした。
数名の憲兵が暫く断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた。
[10]



死後


遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[注釈 1]に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[注釈 2]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世と共に改葬された。



研究上の評価




サン=ドニ大聖堂の慰霊碑


『世界大百科事典』において、「悲劇的」な王妃ではあるが、「嫁して夫を軽んじ、王妃でありながら国民を裏切った」とされている[11]


現代の歴史研究では、特権階級への崇敬のためにマリー・アントワネットを「神々しい聖女」に祭り上げることもなければ、革命期の三文文士たちのように「堕落しきった色情狂」と貶めることもない[12]。革命から時代が離れたため、マリー・アントワネットは利害関係なしに、歴史上の人物として扱われている[12]



「悲劇のヒロイン」と君主主義


アントワネットは革命に遭遇しなければ、「悲劇」の王妃になることはなかった[13]。しかし、「悲劇」的最期が不可避だったわけでもない[13]


もともと資本主義革命(フランス革命)が開始された理由は、君主制打倒のためではなかった[13]。革命当初のスローガンは「国民、国王、国法!」であり、時代の雰囲気は、人民と君主が憲法(国法)の下で協力すれば、世の中を改革できるというものだった[13]。一部に流血が発生しても、革命家たちは君主主義者だった[13]。革命開始から数年経過しても、君主主義や国王びいきは、ロベスピエールにさえ相変わらず当てはまっていた[13]。「しかし、ルイ十六世もマリー・アントワネットも、好機を活かすことができなかった」[14]



個人性・使命感


アントワネットは非常に個性が強かった[14]。当時、君主主義・封建主義の社会で「期待される王妃像」は、君主の後ろにそっと寄り添うような女性だった[14]。しかし彼女は、最高に「高貴」な出自・身分について揺るぎない矜持を持っていたと同時に、「近代的女性」としての面もあった[14]。この王妃は、普通の女の子として生きたいという願望を持っていたが、そのように振る舞うことで様々な摩擦が生じ、徐々に評判は悪くなった[14]


アントワネットは、王妃としての義務を果たさなければならぬと強く思ってはいた[14]。その思いは、王家の威信が危機に瀕するほど、王家の立場が悪くなるほど、一層表現された[15]。(生前の彼女はよく、遊び好きで浪費家な王妃だと非難されていたが、そのような単なるエゴイストであるなら、わざわざ革命と対決するという面倒事をした理由を説明できない[14]。)彼女は革命から逃避するよりも、対決することを選んだ[16]。その「健気」な姿が共感を誘いもしたが、それは必ずしも正確な状況判断に基づいてはいなかった[16]



君主主義・神政主義・反民主主義




王妃の二枚の肖像。1778年(左)、1779年(右)


アントワネットが王妃になったのは18歳だったが、いかにも王妃らしい女性だった[17]。フランス革命前の時代では、国家は王家の「私有財産」のようなものであり、君主が好きにして良かった[17]。アントワネットは、そのような時代に生まれ育った[17]。したがって、君主権(≒反民主主義的な権力)が「神聖にして侵すべからず」である、という思いは彼女にとって「自然」だった[17]


そのため、君主権に「一般の国民」が異議を唱えることに関して、忌まわしいとアントワネットは思っていた[18]。彼女にとって、国は特権階級の所有物であり、主権システムは「人民主権」ではなく「君主主権」でなければならず、他の人間や革命家が口を差し挟むこと自体が許せなかった[19]。アントワネットからしてみれば、革命前の君主制が「正しきもの」であり、何としてでも革命を潰して、元の君主制へ回帰しようとした[19]


一方、アントワネットは過去や君主制を懐古するだけの愚者ではなかった[19]。彼女の考えでは、立憲君主制(≒ブルジョア革命で成立した君主制)は長続きしない[19]。実際、革命後にナポレオン時代を経てフランス復古王政が発生したのであるから、その点では彼女の考えは当たっていた[19]。とはいえ、復古した王政は16年しか保たなかった[19]


その他





マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りは、むしろ革命が始まってからの方が大きかったと言われている。フランスの情報を実家であるオーストリア帝室などに流し、革命に対する手立てが取れない夫ルイ16世に代わって反革命の立場を取ったことが裏切り行為ととられた(外敵通牒)。



「パンがなければ…」の発言





1788年の肖像画


マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)。原文は、仏: “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン)でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたと言われている。




1791年の肖像画


しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している[20]。ルソーの『告白[21]』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。


アルフォンス・カー(フランス語版)は、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。実際はこれは彼女を妬んだ他の貴族達の作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父である神聖ローマ皇帝フランツ1世が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になった、ともされる。



人物・言行



幼少期


幼いマリー・アントワネットの文学・歴史・フランス語・フランス風習等の教育には、ヴェルモン神父が派遣されてきた[22]。この三十三歳の神父は博士号を取得し、図書館司書でもあった[22]


神父はアントワネットの信頼を勝ち得たが、学科の勉強はあまり成果が上がらず、五分以上集中させることもできなかった[22]。彼女は家庭教師を手懐けて勉強を回避する術を心得ていたので、学科ではなく、楽しいおしゃべりへと仕向けるのだった[23]。ヴェルモン神父は、駐仏オーストリア大使メルシ・アルジャントへ次のような手紙を宛てている[24]


少しの怠け心と多くの軽薄さのために、私の教育は困難なものになっています。最初の六週間、私は文学の基本を教えることから始めました。答えがわかっている考えを紹介している間は、私の言うことをよく理解します。ほとんどすべての場合正しい判断をしますが、ひとつの主題を深めることに慣れさせることはできませんでした[24]

ヴェルモン神父はアントワネットに宿題を課すことや、まとまった講義をすることは早々に諦め、脈絡のない会話をするしかなかった[24]。フランス語については確実に進歩していったが、知識や教養は非常に心もとなかった[25]。マリア・テレジアはアントワネットの性格を、次のように把握していた[26]


私は、あの子の性格に多くの軽薄さ、熱意の不足、自分の意思を押し通そうとする頑なさを認めました。しかも、誰かがあの子に意見をしようとすると、それを巧みにかいくぐる術を身につけているのです[26]


宮廷生活・舞踏会・劇


アントワネットの教育がいかに不完全であるかをよく知っていた母親マリア・テレジアは、このままでは娘は「破滅」するかもしれないとさえ心配していた[27]。マリア・テレジアは娘に、フランスで生活するにあたっての基本的心構えから始まり、ファッション、ヘアスタイル、読書指導、さらには普段の生活態度に至るまで、



ギャンブルはやめなさい


歯をちゃんと磨きなさい

等々と、細い注意を伝えていた[28]。しかしアントワネットは、


フランスではみんなこんなふうです

と言い訳することが多かった[29]


アントワネットは、ルイ十五世の死から四日後には、王妃になれた幸運を無邪気に喜び、母親へ次の通り書いた[30]



神様は私を名門の大公女として生まれさせてくださったのですが、ヨーロッパでもっとも素晴らしい王家のためにあなたの末娘である私を選んだ神の配慮に賛嘆せざるを得ません[30]

これに対してマリア・テレジアは、王妃の勤めについての自覚が足りない娘の行く末を危惧していた[30]。マリア・テレジアの語ったところでは、いずれ娘は「完璧に偉大な存在になるか、非常に不幸になるか」である[30]。そして


娘の美しき日々は終わったと私は思っています。

と語った[30]


祖父であるルイ十五世だけには逆らえなかったアントワネットだが、祖父という「重し」が取れると、これから宮廷を取り仕切るのは王妃たる自分であると思うようになり、宮廷をもっと住みよい場所にしようとした[31]


宮廷では、アントワネット主催で定期的に舞踏会が開かれるようになった[31]。パリからプロの劇団を招いて宮廷で上演することは以前から週二回行われていたが、アントワネットはそれを週三回に増やした[31]。しかし劇好きな彼女にとっては、これでもまだ不足であり、しかも宮廷ではオペラは上演できなかった[31]。そのため舞踏会、劇、オペラ等のため頻繁にパリへ出かけた[31]。夫であるルイ十六世が同伴していたなら問題は無かったが、夫はこうした遊びを好まず、アントワネットも若い貴公子たちと行くことをずっと楽しんでいた[32]。しかも彼女はお忍びで頻繁にパリへ遊びに行き、帰りはよく明け方になっていたため、人々から相当の顰蹙を買った[32]


他にアントワネットは、競馬や賭博にも熱中しており、掛け金が大きかったので借金することもあった[32]


王妃は「いちばん美しい女性」であらねばならぬという思いがある彼女は、流行の最先端を行こうともした[32]。デザイナーのローズ・ベルタンと相談し、次々に新しいファッションを打ち出した[32]。パリの上流婦人たちは必死に王妃のファッションを追っていたが、


このままでは破産する!

と投げ出す人物もいた[32]



プチ・トリアノン宮


アントワネットにとってプチ・トリアノンは自由な空間であるだけではなく、もっと「自然」である必要があった[33]。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた[33]。アントワネットにとって


自然は清潔でいい香りがするもの

ということが、当然の前提とされていた[34]


トリアノンの一連の工事事業には、土木・造園・建築関係業者に加え、一流の芸術家や優秀な工芸職人が大量動員された[35]。その庭園の注意書きには、「国王の命により」ではなく、「王妃の命により」と書かれることになった[35]


トリアノンはアントワネットにとって、「理想の世界」または「夢を実現させた世界」だった[36]。そんな「トリアノンの女王」であることは、彼女の評判をさらに下げた[36]。かかった費用が大きかった上に、人々は彼女が「ヴェルサイユ宮廷の王妃」であるべきだと思っていたからだった[36]



首飾り事件


首飾り事件では、ロアン枢機卿に無罪判決が出たため、世間の疑惑はアントワネットに向けられた[37]。彼女がロアンを利用し、首飾りを手に入れたのではないかと疑われた[37]。彼女は激怒し、泣きくれ、フランス全体について



公正な判事たちを見つけることができなかった

と非難し、急にフランス嫌いになった[37]。首飾り事件は図らずして、絶対君主制の凋落の一端を世間に晒した[38]



財政問題・革命前夜


フランス革命の本格的始まりは1789年7月14日、バスティーユ牢獄の陥落であるとされる[38]。しかし革命的雰囲気が醸成されたのはそれより前のことで、1787年2月に開催された名士会がきっかけだった[38]。名士会は財政問題に対処するため、ルイ十六世によって召集された[38]


国家財政が危機的状態にあることは、ルイ十六世即位の当初から政府内では意識されていたが、ほとんどの人々はそうではなかった[39]。アントワネットもその一人で、後に


財政状態がそんなに悪いことに、どうして私が気づくことができたでしょうか? 私が五万リーヴル要求すると、一〇万リーヴル持ってくる、というふうだったのですもの。

と語っている。こうしたヴェルサイユ宮廷の人々は、今までの世の中がいつまでも続くと思っており、既得権益をさらに増大させようとしていた[39]


1787年頃、アントワネットはかつての時代と異なり国全体について考え、倹約もするようになったが、その頃には「赤字夫人」と呼ばれるようになっていた[40]。パリでの評判があまりに悪くなっていたので、警視総監は不測の事態を恐れ、彼女に「パリにはお出でにならないように」と警告した[40]



革命中


パリで武装蜂起したブルジョア(=市民・資本家)によってバスティーユ陥落が起こり、ルイ十六世はパリとの和解の道を選んだ[41]。マリー・アントワネットは、夫にもしものことがあったら国会に避難しようと思い、国会で読み上げる声明書を作成し、



天において結ばれたものが地上でばらばらにされるのを許してはなりません

等と朗読を練習した[42]


1790年5月頃のアントワネットは、ルイ十六世を「唯一の指導者」と呼んだりしながら、希望的観測を持ってもいた[43]


この不幸な人々に信頼感を持たせなければなりません。私たちに対して不信感を持つように、そして、それが持続するように、ずいぶんと工作がなされてきたのですもの!

人々を私たちのほうに引き戻すには、忍耐の限りを尽くし、私たちの意図の純粋さを知らしめるしかありません。


人々は遅かれ早かれ、自分たち自身の幸福のために、唯一の指導者とともにあることがどんなに大切かを知ることでしょう[43]




「過激派」批判・反民主主義


アントワネットはパリの人々の他に、亡命貴族の動向も気にしていた[44]。早々に亡命し、外国を拠点とした貴族たちは、武力で革命を潰そうとしていた[45]。彼らはアントワネットを「民主主義者」と見なしていた[46]。彼らのような反革命家にとって、民主主義とは罵りの言葉である[46]。アントワネットとしてはやむを得ず革命に協調的態度を取っていたが、反革命家から見れば、彼女は「革命に与している」のだった[46]


一方アントワネットは、少しでも進歩的な人物であるなら誰でも「過激派」と呼んでいた[46]。例えば、王家のために様々な尽力をしたラ・ファイエット侯爵を、彼女は「革命家」として嫌っていた[46]。(確かに、ラ・ファイエットは啓蒙主義から影響され、「フランスに自由を打ち立てる」ために革命に参入したが、彼はあくまでも君主制を当然の前提としていた[46]。ラ・ファイエットは革命前から、「両世界の英雄」として有名だった人物である(「両世界」とは、新世界(アメリカ)と旧世界(ヨーロッパ)のこと)[46]。革命前にヴェルサイユ宮殿の舞踏会で、アントワネットは彼とダンスしたこともあった[46]。)


亡命貴族たちは革命に対して種々の挑発を行っていた[46]。こうした行動を、アントワネットは非常に迷惑がった[46]。彼女が亡命貴族たちと連携しているのではないかと革命家から疑われ、パリでの王家の評判が悪くなるからだった[46]



君主主義・反革命・フェルセン


アントワネットとルイ十六世はミラボーを頼るほうが現実的だったが、二人はこれまで通りフェルセンやブルトゥイユを一番頼りになる「味方」として信頼し続けた[47]。ミラボーは、革命に依拠した上での君主権強化を考えていたが、フェルセンたちにとって君主権強化とは、革命を否定した上で成り立つものだった[47]


バスティーユ陥落以降、アントワネットが「友人」と信じていた人々は次々に去っていったが、フェルセンは残った[47]。国王一家がパリへ移されてからは、アントワネットにとってフェルセンの政治的重要性が増し、二人は毎日のように会うようになった[47]。「恋」する女にとって、愛しい男の意見に従おうとするのは珍しくない[48]。アントワネットは、彼の政治的意見を最重要視するようになったが、それは君主制にとって良い結果をもたらさなかった[48]



ヴァレンヌ逃亡事件


1791年5月6日付の手紙で、アントワネットはメルシーへこう語った[49]


身を滅ぼすにしても、それは栄光をともなうものでなければなりません。私たちの義務、名誉、宗教のためにできることはすべてした上でのことでなければなりません[50]

アントワネットについてラ・ファイエットは



危険の中にあっても、危険を回避することよりもむしろ美しくあることを考える

と語っており、これは彼女の本質を突いている[51]。アントワネットは敗北を認めず、仮に敗れるとしても「美しく敗れる」ことを目指していた[51]


アントワネットは政治的教育・訓練を一切受けたことが無かった[51]。彼女は政治的状況を冷静に分析して方針を出す、ということはできなかった[51]。彼女の方針はもっぱら、



  • 革命に対する憎悪・恐怖

  • 君主権は「神聖にして侵すべからず」という固定観念


から導き出されていた[51]。王家のためを思って彼女が打ち出した方針は、多くの場合、王家にとってマイナスの結果に終わった[51]。その最たる例が、このヴァレンヌ逃亡事件とされている[51]。アントワネットは、自分たちが成功するだろうという期待感や信条の中で動いていた[52]


君主が従僕に変装してまでも逃亡しようとしたことに、人々は憤慨した[53]。「国王は外国の軍隊に頼って革命をつぶそうとしている」という噂が、一気に信憑性を増すことになった[53]。この逃亡事件をきっかけに、君主制廃止の声がフランス全土から沸き起こった[53]。それまでの君主は、空気と同じように「自然」であり、不可欠であるはずだった[54]。しかし、君主が居なくなった5日間、人々は変わらず生活できており、日は昇って沈んだ[55]。君主が居なくなっても国は亡くなりはせず、別に困りはしないということを、君主自らが証明してしまった[53]


アントワネットは、ピルニッツ宣言によってヨーロッパ諸国が軍事力を誇示し、フランス人を震え上がらせることを望んだが、この宣言は火に油を注いだ[56]。革命が潰されて身分制度的差別や領主への年貢が復活することを、一般のフランス人は極度に恐れていた[56]。ゆえに大多数のフランス人は、何としてでも革命を守ろうとした[56]


アントワネットは、軍事的に革命を屈服させ、君主権を再確立したいという思いの他に、自分へ数々の無礼を働いた「不逞の輩」(民衆の活動家や革命家)を処罰したいという思いもあった[57]。「国王のもとに結集する良きフランス人」によってフランスは平和になる、と彼女は夢想していた[57]



憲法・立憲君主制


君主は神から国を統治する権限を委任されたとする「王権神授説」は、革命によって否定された[58]。ヴァレンヌから帰った当初は君主制廃止が議論されていたが、一応混乱は収束され、立憲王政が成立した[58]。アントワネットは、近代的な憲法を受け入れるふりをしたが、本当は彼女にとって憲法とは


唾棄すべき作品

実行不可能な馬鹿馬鹿しいことの連鎖

であり、君主国に「不幸」や「滅亡」をもたらすものでしかなかった[59]。彼女の見るところでは、革命前の絶対君主制が正しく、「人民主権」は絶対に容認できなかった[60]。人民が君主の上にあるような「人民主権」は誤りであり、君主が人民の上にあることが正しい秩序である、というのが彼女の考えだった[61]



音楽





スピネットを弾くマリー・アントワネット




ハープを奏でる王妃(1777年)


上記の通りウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。


後年、ルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。


なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。


2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をマリー・アントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇『ベルサイユのばら』で使用された。


このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[62]も出版された。



入浴・香水


マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼い頃から彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだ後も彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。


入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、バラやスミレの花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族達の間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。



家具


家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー、黒檀、紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。珊瑚や銀も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱えルイ16世様式の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。これらは現在もルーブル美術館に展示されている。



ファッション・リーダー


当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[63]。アントワネットも王妃になってまもなく、ローズ・ベルタン(英語版)という新進ファッション・デザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。


何より女性達の視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた“庭ヘアー”や船の模型を載せた“船盛りヘアー”など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。


即位後最初の数年間を過ぎてからは、簡素なデザインのものを好むようになった[64]


この頃ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。



容姿


身長は154cm[65]
裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった[66]


顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、『ハプスブルク家の下唇』と言われる特徴があった。しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。


教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度とみたことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人は、「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている[67]


身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている[68]



子女




マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女、ルイ王太子(ルイ17世)




  • マリー・テレーズ・シャルロット - アングレーム公爵夫人(1778年12月19日 - 1851年10月19日)


  • ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ - 王太子(1781年10月22日 - 1789年6月4日)


  • ルイ・シャルル - ノルマンディー公爵、王太子、ルイ17世(1785年3月27日 - 1795年6月8日)


  • ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス(1786年7月29日 - 1787年6月19日)


4人の子供のうち3人は夭逝。長女マリー・テレーズは結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。マリー・テレーズは結婚13年目の1813年1月に懐妊したが、流産。その後は妊娠することがなく子供を残していないため、直系の子孫はいない。



女官・侍女




  • ノアイユ伯爵夫人(フランス語版)
    • 侍女長ないし女官長。ノアイユ家。1775年、ランバル公妃が女官の新たな筆頭職に就いたのと入れ替わりで辞職。1794年6月27日、夫共々パリでギロチン刑に処された。



  • カンパン夫人(フランス語版)
    • 1786年に部屋付き第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やポリニャック公爵夫人らとは別の役職)。父は外交官ないし高級官僚。帝政下に開いた学校にてナポレオン・ボナパルトの子女を教育した事を理由に、王世復古後はマリー・テレーズから絶縁される。その後マリー・アントワネットの回想録を出版した[69]


  • ルイーズ・ケットペ・ド・ラボルド ("Louise Marguerite Émilie Henriette Quetpée de Laborde"
    • カンパン夫人と同じ部屋付き第一侍女。ジャルジャイュ伯爵フランソワ・レーニエ(フランス語版)将軍は再婚相手。



  • トゥルゼール公爵夫人(フランス語版)
    • 1789年のフランス革命勃発以降、スイス方面に亡命を余儀なくされたポリニャック公爵夫人に代わり国王子女の養育係に任命された。ヴァレンヌ事件では国王一家と同行し逮捕。常に王室に忠実であり、帝政時代初期まで数回投獄されている[70]



  • ポリーヌ・ド・トゥルゼール(英語版)
    • トゥルゼール公爵夫人の娘。母と共にテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。結婚後はベアルン伯爵夫人。マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり[71]、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。




参考文献



  • (アリソン 1855)Sir Archibald Alison (1855). Histoire de l'Europe depuis le commencement de la Révolution française en 1789 jusqu'à nos jours, V. F. Parent. 

  • 安達正勝 『マリー・アントワネット:フランス革命と対決した王妃』 中央公論新社、2014年。ISBN 978-4121022868。

  • (カストロ 1972a)カストロ, アンドレ 『マリ=アントワネット』1、村上光彦訳、みすず書房、1972年4月。ISBN 978-4-622-00507-0。

  • (カストロ 1972b)カストロ, アンドレ 『マリ=アントワネット』2、村上光彦訳、みすず書房、1972年6月。ISBN 978-4-622-00508-7。

  • (佐伯 2010)『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』 中央アート出版社、2010年6月。ISBN 978-4-8136-0586-7。

  • (藤本 2006)藤本ひとみ 『王妃マリー・アントワネット 青春の光と影』 角川書店、2006年10月。ISBN 978-4-04-873734-0。

  • (藤本 2010)藤本ひとみ 『マリー・アントワネット物語 中 恋する姫君』 講談社〈講談社青い鳥文庫 284-2 歴史発見!ドラマシリーズ〉、2010年11月。ISBN 978-4-06-285171-8。

  • (堀ノ内 & 千明 1992)堀ノ内雅一(シナリオ)、千明初美(漫画) 『マリー・アントアネット 革命に散った悲劇の王妃』 集英社〈学習漫画 世界の伝記 集英社版 20〉、1992年3月。ISBN 978-4-08-240020-0。



関連書籍


日本語で発行された書籍のみを記す。



シュテファン・ツヴァイクによる評伝


  • 「マリー・アントアネット」(シュテファン・ツワイク/高橋禎二、秋山英夫共訳、青磁社、上・下、1948年11月、NCID BN12899211)

    • のち、三笠書房で刊行(三笠書房〈世界文學選書〉、上・下、1950年-1951年、NCID BN12662096)

    • のち、岩波書店で文庫化(岩波書店〈岩波文庫〉、上・中・下、1952年-1953年、NCID BN0045547X)

    • のち改版、(『マリー・アントワネット』、秋山英夫改訳版、岩波文庫、上・下、1980年6月、NCID BN01521004)



  • 「マリー・アントワネット 或る月並な女人の肖像」(ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、1958年-1959年、NCID BN11369369)
    • のち、角川文庫で再版(『マリー・アントワネット』ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫 名著コレクション〉、上・下、1984年、ISBN 978-4-04-208205-7、978-4-04-208206-4)


  • 新訳版「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク/中野京子訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、2007年1月)

  • 「マリー・アントワネット」(藤本淳雄、森川俊夫訳、『ツヴァイク全集 11・12』、みすず書房、全2巻、1962年、NCID BN01029932)

    • のち、新装版(『ツヴァイク全集 13・14』、みすず書房、全2巻、1974年、NCID BN01940277)

    • のち、改訂版(『ツヴァイク伝記文学コレクション 3・4』、みすず書房、全2巻、1998年9月、NCID BA37769305)



  • 「マリー・アントワネット」(関楠生訳、河出書房新社〈第3集 世界文学全集 第15巻 ツワイク〉、1965年5月、NCID BN07302116)
    • のち、河出文庫で改訂再刊(河出書房新社〈河出文庫〉、上・下、1989年6月 、新装版2006年11月、NCID BA80965908)



伝記・評伝


  • 「マリー・アントワネット」(フランク・W.ケニョン(英語版)/岡田真吉訳、潮書房、1956年10月、NCID BN1543575X)

  • 「マリー・アントワネット」(アレクサンドル・デュマ/木村毅、大倉燁子訳、小山書店新社、1957年10月)

  • 「物語マリー・アントワネット」(窪田般彌(窪田般弥)、白水社、1985年1月/白水社〈白水Uブックス 1007〉、1991年6月)。新書判

  • 「デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日」(飯塚信雄、文化出版局、1985年3月)

  • 「マリー・アントワネットの生涯」(藤本ひとみ、中央公論社、1998年7月/中央公論新社〈中公文庫〉、2001年6月)

  • 「マリー・アントワネット」(ジョーン・ハスリップ(英語版)/櫻井郁恵訳、近代文芸社、1999年6月)

  • 「王妃マリー・アントワネット」(エヴリーヌ・ルヴェ(英語版)/塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2001年11月)

  • 「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」(パウル・クリストフ編/藤川芳朗訳、岩波書店、2002年9月)

  • 「マリー・アントワネットとヴェルサイユ-華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2003年8月)

  • 「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」(ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)

  • 「マリー・アントワネット」Marie Antoinette: The Journey(アントニア・フレイザー/野中邦子訳、ハヤカワ文庫、上・下、2006年12月)

  • 「マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2008年1月)

  • 「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて」(藤本ひとみ、角川書店、2008年6月)

  • 「マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流」(堀江宏樹、春日出版、2008年8月)

  • 「マリー・アントワネットの「首飾り事件」」(アンタール・セルプ(英語版)/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)

  • 「王妃マリー・アントワネット」(新人物往来社編〈ビジュアル選書〉、2010年4月)

  • 「王妃マリー・アントワネット 美の肖像」(南川三治郎写真、世界文化社、2011年3月)

  • 「マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡」(中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)
    • のち、文藝春秋で文庫化(文藝春秋〈文春文庫〉、2014年8月、ISBN 978-4-16-790165-3)


  • 「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」(石井美樹子、河出書房新社、2014年6月、ISBN 978-4-309-22612-5)

  • 「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」(安達正勝、中央公論新社〈中公新書〉、2014年9月、ISBN 978-4-12-102286-8)

  • 「マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯」(エレーヌ・ドラレクス、アレクサンドル・マラル(フランス語版)、ニコラ・ミロヴァノヴィチ/岩澤雅利訳、原書房、2015年3月、ISBN 978-4-562-05141-0)



マリー・アントワネットを扱った作品



小説



  • 「SOSタイム・パトロール」- 光瀬龍著、朝日ソノラマ、1972年。ジュブナイル小説)

  • 「王妃マリー・アントワネット」 - 遠藤周作著、朝日新聞社、1979年-1980年。のち新潮文庫)

  • 王妃に別れをつげて(フランス語版)」 - シャンタル・トマ(フランス語版)著、白水社、2012年11月13日刊行。翻訳:飛幡祐規 *2002年フェミナ賞受賞 (映画化題『マリー・アントワネットに別れをつげて』)

  • 「マリー・アントワネット物語」 - 藤本ひとみ著、K2商会絵、青い鳥文庫 歴史発見!ドラマシリーズ、2010年。上「夢みる姫君」、中「恋する姫君」、下「戦う姫君」の全3巻。ジュブナイル小説)



映画



  • 『マリー・アントアネットの生涯』 - W・S・ヴァン・ダイク監督、ノーマ・シアラー主演のマリー・アントワネットを主人公にした原作シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット(英語版)』の映画化。

  • 『マリー・アントワネット』 - ジャン・ドラノワ監督、ミシェル・モルガン主演のフランス映画。

  • 『愛と欲望の果てに』(1)<6回シリーズ> ―フランス革命200周年記念映画― 「マリー・アントワネット」』(NHK-BS放映) Les Jupons de la Révolution: Marie-Antoinette[1] - フランスのテレビ映画。キャロリーヌ・ユペール監督。主演エマニュエル・ベアール。VHS発売題『愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命』より「マリー・アントワネット」


  • L'Autrichienne ウテ・レンパーがオーストリア女の最後を演じた、フランス映画。

  • 『ジェファソン・イン・パリ』 - ジェームズ・アイヴォリー監督。1785年から1789年までトマス・ジェファソンの駐フランス公使時期を描くことで、マリー・アントワネット(シャルロット・ド・トゥルケーム(フランス語版))が断頭台に送られる前後も描いた(アントニオ・サッキーニ作曲のオペラ《ダルダニュス》の再現や、舞台、会食、謁見なども)。

  • 『マリー・アントワネット (映画)』 - ソフィア・コッポラ監督、キルスティン・ダンスト主演のマリー・アントワネットを主人公に、80年代の音楽なども混ぜて創作した青春映画。

  • 『王妃マリー・アントワネット』 - 2006年に放映された、フランス・カナダ合作のテレビ映画作品。カリーヌ・ヴァナッス主演。

  • 『マリー・アントワネットに別れをつげて』 - ブノワ・ジャコ監督、レア・セドゥ主演、2012年のフランス歴史映画。革命発生時のマリー・アントワネット(ダイアン・クルーガー)を朗読係の目から描く。



舞台作品



  • ベルサイユのばら (宝塚歌劇)

  • ミュージカル『マリー・アントワネット』 - 原作:遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』

  • ミュージカル『1789 -バスティーユの恋人たち-』

  • 舞台劇『首のない王妃・マリーアントアネットのその後』 - 博品館劇場2011年9月舞台、武田光太郎主演。

  • オペラ『ヴェルサイユの幽霊(英語版)』 - ジョン・コリリアーノ作曲



ラジオドラマ


  • 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。(声:ReeSya)、脚本・杉崎智介


漫画




  • 池田理代子『ベルサイユのばら』 - ルイ15世末期からフランス革命前後までのベルサイユ宮殿を舞台とした漫画。


  • 森園みるく『欲望の聖女 令嬢テレジア』 - フランス革命初期からロベスピエール処刑までを舞台とした漫画。他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。


  • にしうら染『踊る! アントワネットさま』 - マリー・アントワネットの親友となった女流画家を主人公に、2人の友情を描いた作品。


  • 惣領冬実『マリー・アントワネット』 - 「週刊モーニング」(講談社)で連載された漫画。史上初のヴェルサイユ宮殿による監修。


  • 高橋美由紀『エル』 - 海をまもる者エルの使命と名を受け継ぎ、人間の母親との間に生を受けた主人公エルと彼を助ける龍の魂を宿したエルの母親の一族の末裔の少女エリアンヌが平和の犠牲にしたオーストリア皇女にしてフランス最後の王妃マリー・アントワネットが「モスリン」と名乗り、そう呼ばれたエピソードがコミックス第6巻に収録されている。

  • 原作:池田悦子 / 作画:あしべゆうほ『悪魔の花嫁』 - コミックス10巻に収録された「ギロチンが招いた女」で、アントワネットと彼女によく似た娼婦が神のお告げの言い伝えのある洞窟で出会い、その後、2人の運命が入れ替わって娼婦はフェルセンの良心と引き換えに王妃として死ぬ代償として彼に抱かれ、ギロチンで処刑される。そのため、アントワネットは名もない幽霊となってさ迷う。



アニメーション


  • 『ラ・セーヌの星』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。


ゲーム



  • 『Fate/Grand Order』 - サーヴァントとして登場。

  • 『ワールドチェイン』- レブナントとして登場。

  • 『グリムノーツ』- 英雄として登場。



関連項目








  • マリア・ルイーザ (パルマ女公) - 兄レオポルト2世の孫で、相手は皇帝ナポレオン・ボナパルトと、やはりフランスへ嫁いだ。


  • ロラン夫人 - ジロンド派の黒幕的存在。同時代に生きたアントワネットとは対照的な"女王"だった。

  • 首飾り事件


  • プチ・トリアノン

    • ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ(フランス語版) - プチ・トリアノンにある"王妃の村里"。



  • トリアノンの幽霊 - マリー・アントワネットの亡霊を小トリアノン宮殿で目撃したとされる事件

  • ホープダイヤモンド


  • ウビガン - 香水


  • 森永製菓 - 同社のマリービスケットは、アントワネットが宮殿で初めて高級ビスケットを作らせ、自分の名マリーと名付けて常に愛用したという伝から創業者が命名[72]



脚注



注釈





  1. ^ 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院とはかなり離れている。贖罪教会は旧敷地の一部に立ち、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである。


  2. ^ 1794年3月25日に墓地は閉鎖されていた。




出典


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  1. ^ abcde『大辞林 第三版』「マリーアントワネット」

  2. ^ abcd『日本大百科全書(ニッポニカ)』「マリ・アントアネット」

  3. ^ abc『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「マリ・アントアネット」


  4. ^ 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「ブルジョア革命」


  5. ^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「ブルジョア憲法」


  6. ^ 藤本 2006, p. 126「はみ出し者」- p. 159「元旦のできこと」


  7. ^ 藤本 2010 [要ページ番号]


  8. ^ マリー・アントワネットの遺言書


  9. ^ アリソン 1855, p. 157.


  10. ^ 作:シュテファン・ツヴァイク訳:高橋禎二、秋山英夫『マリー・アントワネット (下)』岩波文庫、1980年改訳第1刷発行、344, 345頁より引用 ISBN 4-00-324372-2


  11. ^ 『世界大百科事典』(2014年改定新版第6刷)189ページ。

  12. ^ ab安達正勝 2014, p. ii.

  13. ^ abcdef安達正勝 2014, p. v.

  14. ^ abcdefg安達正勝 2014, p. vi.


  15. ^ 安達正勝 2014, pp. vi-vii.

  16. ^ ab安達正勝 2014, p. vii.

  17. ^ abcd安達正勝 2014, p. 247.


  18. ^ 安達正勝 2014, pp. 247-248.

  19. ^ abcdef安達正勝 2014, p. 248.


  20. ^ 堀ノ内 & 千明 1992 p.89およびp.135


  21. ^ Wikisource reference Jean-Jacques Rousseau. Les Confessions (Rousseau). - ウィキソース. 

  22. ^ abc安達正勝 2014, p. 8.


  23. ^ 安達正勝 2014, pp. 8-9.

  24. ^ abc安達正勝 2014, p. 9.


  25. ^ 安達正勝 2014, pp. 9-10.

  26. ^ ab安達正勝 2014, p. 10.


  27. ^ 安達正勝 2014, p. 30.


  28. ^ 安達正勝 2014, pp. 30-31.


  29. ^ 安達正勝 2014, p. 31.

  30. ^ abcde安達正勝 2014, p. 58.

  31. ^ abcde安達正勝 2014, p. 63.

  32. ^ abcdef安達正勝 2014, p. 64.

  33. ^ ab安達正勝 2014, p. 72.


  34. ^ 安達正勝 2014, p. 73.

  35. ^ ab安達正勝 2014, p. 74.

  36. ^ abc安達正勝 2014, p. 78.

  37. ^ abc安達正勝 2014, p. 83.

  38. ^ abcd安達正勝 2014, p. 88.

  39. ^ ab安達正勝 2014, p. 89.

  40. ^ ab安達正勝 2014, p. 95.


  41. ^ 安達正勝 2014, pp. 108-109.


  42. ^ 安達正勝 2014, p. 109.

  43. ^ ab安達正勝 2014, p. 131.


  44. ^ 安達正勝 2014, p. 136.


  45. ^ 安達正勝 2014, pp. 136-137.

  46. ^ abcdefghijk安達正勝 2014, p. 137.

  47. ^ abcd安達正勝 2014, p. 143.

  48. ^ ab安達正勝 2014, pp. 143-144.


  49. ^ 安達正勝 2014, p. 150.


  50. ^ 安達正勝 2014, pp. 150-151.

  51. ^ abcdefg安達正勝 2014, p. 151.


  52. ^ 安達正勝 2014, p. 152.

  53. ^ abcd安達正勝 2014, p. 161.


  54. ^ 安達正勝 2014, pp. 161-162.


  55. ^ 安達正勝 2014, p. 162.

  56. ^ abc安達正勝 2014, p. 172.

  57. ^ ab安達正勝 2014, p. 173.

  58. ^ ab安達正勝 2014, p. 174.


  59. ^ 安達正勝 2014, p. 175.


  60. ^ 安達正勝 2014, pp. 175-176.


  61. ^ 安達正勝 2014, p. 176.


  62. ^ 佐伯 2010 [要ページ番号]


  63. ^ 『ビジュアル百科 世界史1200人 1冊で丸わかり』145頁。


  64. ^ カストロ 1972a, p. 211.


  65. ^ マリー・アントワネット 154cm? 山梨の歴史研究家 肖像画から身長解析『読売新聞』2010年8月18日29面


  66. ^ カストロ 1972b, p. 298.


  67. ^ カストロ 1972b, pp. 5, 185-187.


  68. ^ カストロ 1972b, p. 186.


  69. ^ 『マリー・テレーズ』恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命 スーザン・ネーゲル著 2009年 近代文学社 P268


  70. ^ ネーゲル P122,124,171


  71. ^ ネーゲル p106,138,333


  72. ^ 同志社英学校と森永西洋菓子製造所─創始者たちの帰国より死に至るまで森永長壹郎、同志社大学『新島研究』103号、2012-02-28




外部リンク




  • マリー・アントワネット - インターネット・ムービー・データベース(英語)

  • Biography

  • Smithsonian







先代:

マリー・レクザンスカ


フランス王妃

1774年 - 1792年
ナバラ王妃
1774年 - 1791年


次代:

(マリー・ジョゼフィーヌ)
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(皇后)











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