大阪大空襲
大阪大空襲(おおさかだいくうしゅう)は、第二次世界大戦末期にアメリカ軍が繰り返し行った、大阪市を中心とする地域への戦略爆撃ないし無差別爆撃の総称である。
1945年3月13日深夜から翌日未明(日本時間、以下同様)にかけて最初の大阪空襲が行なわれ、その後、6月1日、6月7日、6月15日、6月26日、7月10日、7月24日、8月14日に空襲が行なわれた。これらの空襲で一般市民 10,000人以上が死亡したと言われている。
目次
1 第1回大阪大空襲 - 3月13日・14日
1.1 地下鉄による避難
2 第2回大阪大空襲 - 6月1日
3 第3回大阪大空襲 - 6月7日
4 第4回大阪大空襲 - 6月15日
5 第5回大阪大空襲 - 6月26日
6 第6回大阪大空襲 - 7月10日
7 第7回大阪大空襲 - 7月24日
8 第8回大阪大空襲 - 8月14日
9 日本国に対する訴訟
10 その他
11 大阪大空襲に関連する作品
12 脚注
13 参考文献
14 関連項目
15 外部リンク
第1回大阪大空襲 - 3月13日・14日
1945年3月13日23時57分 - 14日3時25分の約3時間半にわたり行われ、B-29が274機来襲した。グアムからの第314航空団の43機が23時57分 - 14日1時にかけて大阪市上空に達した。アメリカ軍の照準点は、北区扇町、西区阿波座、港区市岡元町、浪速区塩草で、都心部を取り囲む住宅密集地を標的にしており、夜間低空爆撃として約2,000mの低空からの一般家屋をねらった夜間爆撃だった。先導機がナパーム弾(大型の焼夷弾)を港区市岡の照準点に投下し大火災発生。他の機はそれを目印に次々とクラスター焼夷弾(内蔵した38個の小型焼夷弾が空中で分散して落下する)を投下した。続いてテニアンから第313航空団の107機が14日0時10分から3時25分にかけて爆撃。浪速区塩草を照準点として投弾した。さらにサイパンから第73航空団の124機が14日0時20分から2時25分にかけて爆撃。照準点は北区扇町と西区阿波座。すでに大火災が発生している中で、北区はアメリカ軍のねらい通りには爆撃できず、他の場所に被害が広がった。中心市街地を焼き尽くしたこの空襲では、3,987名の死者と678名の行方不明者が出た。山を挟んだ奈良県や亀岡盆地側では、火炎が山の向こうに夕焼けのように見えたという[1]。
地下鉄による避難
3月13日、14日の大空襲は深夜に行われた。難波、心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。通常、この時間には地下鉄は営業しておらず、駅の扉も開いていないはずであった。しかし、このときに心斎橋駅や本町駅[2]、大国町駅に入り、電車に乗って避難したという体験者が複数存在する[3]。
この話は長く知られてこなかったが、1997年3月に朝日新聞の「声」欄に京都大学名誉教授の村松繁による心斎橋駅から電車に乗って梅田に逃れた体験談が掲載された[4]。これを受けて大阪市交通局の労働組合(大阪交通労働組合)が調査を開始した。しかし、交通局には戦争末期の市営交通に関する資料がほとんどなく、当時の証言を集めることとなった[5]。この動きを知った毎日新聞大阪社会部の記者が同年7月、記事を掲載するとともに、情報提供を呼びかけた。毎日新聞は同年10月23日に調査結果と分析を掲載した。組合は1998年3月に機関紙「大交」に2回にわたって記事を掲載した[6]。
毎日新聞によると、電車に乗った時間帯は午前3 - 4時頃と5時前後に大きく分かれる。前者は心斎橋周辺で駅に逃げ込み、「梅田の方は燃えていない」と誘導されて乗車。後者は空襲直後に駅構内に入り、「一番電車が出る」と言われて乗車したという(こちらは天王寺駅行きに乗ったという証言もある)。駅構内に入ることができた経緯については、「憲兵が中に入るよう指示した」(心斎橋駅)、「駅員を説き伏せてシャッターを開けさせた」(大国町駅)、「閉鎖されているはずのシャッターが開いていた」(本町駅)など状況は一様ではないが、駅員の判断により駅構内に避難させていたと推測された。また、大国町駅から「一番電車」と駅員に聞いて乗った証言者は「それまで電車は全く見なかった」としたため、同紙は午前5時頃の電車は始発電車、午前3~4時の電車は心斎橋駅発の臨時で、前夜の空襲警報発令時に運転を打ち切った最終電車の車両を「職員の機転で運転させた可能性が極めて高い」とした。
一方、「大交」の記事では当日に駅や列車で勤務した職員の証言は得られず、翌日の出勤だった関係者はいずれも「特別なことがあれば業務引継のとき必ず報告があるが、そうした話題は出なかった」と証言した。また、終電のあと送電は止めることになっていたが、当日心斎橋変電所に勤務していた職員が「指示があって電車を動かす電気を送り続けた」と証言したことで、少なくとも電車を動かすことが可能な状況であったことが判明した[7]。避難列車について運転手の組長だった元職員は「5時過ぎの初発か、初発の前に職員を乗せて走る『お送り電車』ではなかったでしょうか」という推測を述べている。
この避難列車については、NHKが1998年3月29日に「列島リレードキュメント」の中で「空襲の夜 地下鉄は走った」と題して放送[8]。それから9年後の2007年7月25日深夜にフジテレビがNONFIXで「千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」と題して取り上げた[9]。番組では証言や分析をふまえながら新たな検証を試み、運行に不可欠な運転手の確保については、(地下鉄構内を貯蔵場とする)非常用物資の移動のために、初電の前に業務用に電車を走らせた可能性もあるとした。また、終電後の送電については、深夜に電車が走ったと思われる電流計器の動きがあったという元職員の証言を紹介した。そのうえで証言や記録から、空襲警報解除後の交通機関に対する救援指令で運行された電車[10]、もしくは初電前の職員輸送用の電車が避難民を発見して輸送したのではないかという仮説を立てたが、決定的な証拠は得られなかった。関係者側の証言がほとんどないことについて、出演した元運転手は「人を助けるのは職務上あまりにも当然のことであり、特別のことではないから、当人達に特別な事をしたという意識がなく、そのため証言が出てこないのではないか」と語っている。
一方、1997年の調査にあたった組合内の公営交通研究所の担当者は、2009年の新聞記事で「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と述べている[11]。
なお、この地下鉄での避難はNHK連続テレビ小説『ごちそうさん』劇中(2014年3月4日放送分)にて描写された。また、『ウソかホントかわからない やりすぎ都市伝説スペシャル2015秋』 (2015年9月23日放送分)にてこの話題が取り上げられた。
第2回大阪大空襲 - 6月1日
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1945年6月1日9時28分から11時にかけての約1時間半にわたっておこなわれた。大阪港と安治川右岸の臨港地区や、城南の陸軍施設周辺を攻撃目標とし、計509機が来襲した。アメリカ軍の照準点は福島駅近辺、福島区大開町、安治川口駅近辺、港区・大阪市立運動場(現在の八幡屋公園)、大正区福町(現在の鶴町5丁目)、東区(現中央区)上町、東雲町、森之宮・玉造周辺。大阪市西部を中心に8.2平方キロメートルに被害を及ぼした。この空襲では、港区と大正区に壊滅的な被害が出た。またP51が初めて来襲し、機銃掃射をおこなっている。
第3回大阪大空襲 - 6月7日
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1945年6月7日11時9分から12時28分の約1時間20分にわたっておこなわれた。アメリカ軍の照準点は、焼夷弾は都島区高倉町、鶴橋駅付近、天王寺駅付近。また城東の大阪陸軍造兵廠をねらって大型爆弾を投下した。この空襲では、都島区を中心とした大阪市東部と兵庫県尼崎市に被害を及ぼした。
大阪陸軍造兵廠を狙った爆弾は、目標を大きく外れて市街地に落下するケースが相次いだ。この空襲では長柄橋に爆弾が直撃し、さらに機銃掃射も加えられたため、橋の下に避難していた市民約400人が犠牲になった。また柴島浄水場が破壊され、上水道供給機能が停止した。 新淀川橋梁から十三駅付近の爆撃被災により京阪神急行電鉄は新京阪線の梅田駅直通が休止、神戸線のみ夕方から運転を再開した。
また、旭区の城北公園には近くの繊維工場に四国から勤労動員で来ていた女学生を始めとして付近の多くの住民が避難していたが、機銃掃射を集中的に受け、数百人から千人ともいわれる犠牲者を出した。
第4回大阪大空襲 - 6月15日
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1945年6月15日8時44分から10時55分にかけての約2時間10分にわたっておこなわれた。アメリカ軍の照準点は阪神本線出屋敷駅付近、国鉄福知山線支線金楽寺駅付近、西淀川区・神崎大橋南詰、鶴橋駅付近、天王寺駅付近の5か所。この空襲では計511機が来襲し、大阪市および尼崎市をはじめ、堺市や布施市(現在の東大阪市)、豊中市、守口町(現在の守口市)などに被害を及ぼし、477人が死亡した。
第5回大阪大空襲 - 6月26日
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1945年6月26日、重要工業拠点への精密爆撃を狙っておこなわれた。アメリカ軍の照準点は此花区北港の住友金属(現在の新日鐵住金)製鋼所、および大阪陸軍造兵廠(砲兵工廠)という2つの軍需工場。住友金属には命中したが、砲兵工廠への爆弾はその周辺部に被害を及ぼした。
第6回大阪大空襲 - 7月10日
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1945年7月10日1時33分から3時6分の約1時間半にわたっておこなわれた。この空襲は「堺大空襲」と呼ばれ、堺市中心部に大きな被害を受けた。
中小都市爆撃作戦の一環として、サイパン島アイズレイ飛行場第73航空団の116機が、堺市中心部に約1万3000発・778.9トンの爆弾を落とした。大阪市中心部を狙った第1回空襲以来の夜間空襲で、堺市では2.64平方キロメートル・約5万5000人が被災し、死者1,370人・重軽傷者1,472人・行方不明者3人、家屋の全半焼14,797戸の被害を出した。この空襲では堺市のほか、大阪市住吉区や貝塚市でも被害を出している。
第7回大阪大空襲 - 7月24日
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1945年7月24日に住友金属工場および大阪陸軍造兵廠を狙っておこなわれた。117機が木津川飛行場および伊丹飛行場(現在の大阪国際空港)を爆撃したあと、住友金属工場および大阪陸軍造兵廠へそれぞれ向かった。しかし大阪陸軍造兵廠へ向かった飛行機は、一部の機が造兵廠への爆撃を実施したものの、大半の機は上空の視界不良・天候不良として爆撃を断念し、予備の攻撃目標とされていた三重県桑名市へ向かい桑名空襲を起こしている。
第8回大阪大空襲 - 8月14日
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1945年8月14日にB29約150機が大阪への空襲をおこなった。アメリカ軍機は大阪陸軍造兵廠を狙い、約700トンの1トン爆弾を集中的に投下した。国鉄京橋駅で夥しい犠牲が発生したことから、この空襲は、「京橋駅空襲」ないしは「京橋空襲」とも呼ばれる。
大阪陸軍造兵廠への爆撃はこれまで失敗に終わっていたが、この空襲で造兵廠は壊滅。また大坂城内にも着弾し、二番櫓・三番櫓・坤櫓・伏見櫓・京橋口多聞櫓を焼失、その他に石垣の一部が崩落するなどの被害が出た。造兵廠の北東に位置する京橋駅周辺には同日13時頃、1トン爆弾4発が落下した。
京橋駅にはちょうど、城東線(現在の大阪環状線)の上り列車・下り列車の2本が入線したところだった。居合わせた多くの乗客が、高架上の城東線の影になる地平上の片町線ホームに避難していた。そこに1発の1トン爆弾が、城東線の高架を突き破って片町線ホームに落下して爆発し、避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けた。この空襲での犠牲者は、身元の判明している者だけでも210名以上、他に身元不明の犠牲者が500 - 600名以上いる(正確な犠牲者数は不明)とされている。
1955年から毎年8月14日に京橋駅南口で慰霊祭が行われている。
日本国に対する訴訟
大阪大空襲の民間人被災者とその遺族らが2008年12月8日に、国は旧軍人・軍属には援護制度を整備しているのに対し、民間人被災者については何ら援護せず放置してきており、日本国憲法第14条法のもとの平等に違反するとして[12]、国による被害の放置は違法だとして、1人当たり1,100万円の損害賠償と謝罪などを求め、大阪地裁に集団で訴訟を起こした。第二次世界大戦中の日本への空襲を巡り被災者から訴訟が起こされるのは、2007年3月に東京地裁に起こされた東京大空襲を巡る訴訟に次ぎ2例目[13]。2011年12月7日に同地裁は、「軍人・軍属らとの補償の差は国会の裁量で講じられており、明らかに不合理とは言えない」として、原告の請求を棄却した[14]。2013年1月16日に大阪高裁の控訴判決は国民の受忍限度で棄却され、最高裁に上告[15]。2014年9月16日までに最高裁は上告を棄却、原告側の敗訴が確定した。決定は11日付[16]。これらは原告の敗訴ではあるが、大阪空襲訴訟・弁護団では、判決文中には「逃げずに火を消せ」とする防空法や「空襲は恐れずに足りず」とする情報統制によって国民が危険な状況に置かれたことなど、詳細な認定がされていると評している[17]。
その他
大阪府下では、堺市、岸和田市、豊中市、池田市、吹田市、布施市、高槻市、泉大津市などが空襲を受けた。- 周辺地域では神戸市、京都市、奈良市、和歌山市などが空襲を受けた。
大阪大空襲に関連する作品
- 『どついたれ』 - 手塚治虫の自伝的漫画。自らの体験をもとに大阪大空襲を描いた。
- 『紙の砦』 - 手塚治虫の自伝的漫画。著者自身の姿を描いた作品。上の作品と同じく大阪大空襲を描いた。
- 『ぼんち』 - 山崎豊子の長編小説。終盤あたりに大阪大空襲の描写がされている。
- 『砂の器』 - 松本清張の小説。3月13〜14日の空襲によって被害を受けた真犯人の「本籍再生」が重要なトリックになっている。
NHK連続テレビ小説
- 『ごちそうさん』 - 2013年下半期放送。劇中で大阪大空襲が起こり(2014年3月4日の第128話放送にて)、主人公め以子や市民達が、心斎橋駅から地下鉄に乗り梅田方面へ避難する場面がある。
- 『わろてんか』 - 2017年下半期放送。物語終盤あたりで大阪大空襲が起こり(2018年3月26日にて)、長年経営してきた風鳥亭が焼失する。
- 『わが町・大阪ひがし』 - 演劇。京橋の商店街を舞台とし、京橋の砲兵工場に勤める女学生とその家族を中心に話が進んでいく。
脚注
^ 東大寺長老の筒井寛英は「二月堂から見ると生駒山をシルエットに、大阪の空が真っ赤に染まっていました」と記している(『誰も知らない東大寺』小学館、2006年)。このとき東大寺は修二会(お水取り)の期間中で、「お松明」は灯火管制のため扉を閉めて
おこなわれていた。
^ 後述の毎日新聞記事によると、当時、大阪市の食糧倉庫として使用しており常時閉鎖されていた。
^ 後述の毎日新聞記事によると、難波駅から乗ったという証言は得られなかったという。
^ 村松が後に読売新聞に体験を語った記事がある[1]。
^ 資料が現存しない点について、「大交」の記事では「敗戦直後に戦争責任の追及を避けるため意図的に廃棄した」としている。
^ 公営交通研究所が1999年に刊行した『大阪大空襲と市営交通事業』に資料として収録。このほか、証言が記載された資料について、以下の大阪市立中央図書館レファレンス事例に紹介がある。
- 国会図書館レファレンス協同データベース
^ 「大交」の記事には3月13日の朝に大阪鉄道局長の佐藤栄作(後の首相)が大阪市電気局(後の交通局)局長に「今夜空襲のおそれ、要注意」と電話をかけていたという話(『続東区史』別巻(1979年)からの引用)が紹介されているが、送電指示との関連は不明である。
^ 列島リレードキュメント 空襲の夜 地下鉄は走った~大阪・大阪市 NHKアーカイブス
^ NONFIX 千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか。大空襲のあった地元の関西テレビでは2008年1月20日深夜に放送。
^ 「大交」の記事によると、午前3時30分頃にNHKラジオで「警報解除後、電車を運転するので、防空要員は復旧に当たってほしい」と3度放送があったという(「鉄道ピクトリアル」1965年8月号掲載の「大阪市路面電車戦災の記」(宮本政幸)からの引用)。
^ 「大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線」朝日新聞大阪版2009年12月26日
^ 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」
^ 大阪大空襲の被災者ら、賠償求め集団提訴4府県18人 朝日新聞 2008年12月8日
^ 空襲被災者らの請求棄却 大阪など5空襲訴訟で地裁判決 朝日新聞 2011年12月7日
^ 2013年8月17日23時NHKEテレ放送ETV特集「届かぬ訴え~空襲被害者たちの戦後~」
^ 被災者ら敗訴確定=大阪大空襲訴訟-最高裁 時事ドットコム2014年9月16日
^ この判決はスゴイ! 大阪空襲訴訟 大阪空襲訴訟弁護団2014年10月
参考文献
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2018年4月) |
- 『新修大阪市史』第七巻、大阪市史編纂所、1994年
関連項目
- 日本本土空襲
- 太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔
- 防空法
外部リンク
財団法人 大阪国際平和センター(ピースおおさか)- 大阪空襲訴訟・弁護団(裁判書類、裁判の経過など)
『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』 (秋尾沙戸子著 新潮文庫 日本エッセイスト・クラブ賞)
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