ロシア・ペルシャ戦争 (1722年-1723年)




























ロシア・ペルシャ戦争

Lansereships.jpg
Eugene Lanceray. Fleet of Peter the Great(1909年)


















1722年 - 1723年
場所 南コーカサスと北部イラン
結果
ロシアの勝利、サンクトペテルブルク条約の締結[1]
領土の
変化

ロシアはデルベント・バクー・シルヴァン州(英語版)・ギーラーン州・マーザンダラーン州とアスタラーバードを獲得
衝突した勢力

ロシア帝国の旗 ロシア帝国
Flag of the Cossack Hetmanat.svg ウクライナ・コサック
カルトリ王国

Flag of Shah Tahmasp I.svg サファヴィー朝
指揮官

ロシアの旗 ピョートル1世
ロシアの旗 フョードル・アプラクシン
ロシアの旗 ミハエル・マチュシュキン
Flag of the Cossack Hetmanat.svg ダヌィーロ・アポーストル
V6flag.JPG ヴァフタング6世

Flag of Shah Tahmasp I.svg タフマースブ2世
戦力

ロシア陸軍22,000人
コサック兵22,000人
グルジア・アルメニア混成部隊40,000人
合計84,000人

グラーム連隊10,000人
サファヴィー朝トゥファングチ(鉄砲)隊30,000人
トプチ旅団[2]・キジルバシ連隊30,000人
合計70,000人
被害者数

4000人

不明

ロシア・ペルシャ戦争(ロシア・ペルシャせんそう、英語: Russo-Persian War)は、1722年から1723年にかけてロシアとサファヴィー朝ペルシャとの間に起きた戦争である。ロシア歴史学ではピョートル大帝のペルシャ遠征として知られている[3]。サファヴィー朝北部領域のカスピ海と南コーカサス地域でのロシアの影響力拡大を図り、該当地域を衰退するサファヴィー朝に代わりライバル国のオスマン帝国によって奪われてオスマン帝国領になることを防ごうとするロシア皇帝ピョートル1世の企てによって惹き起こされた。




目次






  • 1 遠征


  • 2 戦後


  • 3 脚注


  • 4 参考文献


  • 5 関連項目





遠征


遠征前、ピョートル1世はグルジアのカルトリ王国国王ヴァフタング6世とアルメニア教会司教との同盟を確保した。これらキリスト教を軸とした各集団の指導者たちは、ペルシャとオスマン帝国の領土拡大主義者との紛争に対してロシアの援助を求めていた。


1722年7月、約22,000人のロシア陸軍とコサック兵が、新しく創設されたフョードル・アプラクシン率いるカスピ小艦隊の船にアストラハンから乗り込み、約22,000人の騎兵とコサック兵がツァリーツィンより陸路で合流、8月23日にロシア軍は南ダゲスタンのデルベントを占領した。しかし、秋のカスピ海の嵐で、ピョートル1世はデルベントとスヴャトイ・クレストに駐屯部隊を残してアストラハンに戻ることを余儀なくされた。9月にヴァフタング6世は40,000人のグルジア・アルメニア混成部隊と一緒に進撃するロシア遠征軍に合流する為にギャンジャで宿営したが、ピョートル1世がアストラハンに向かって出発したとの知らせを聞いて、11月にトビリシに戻った。


12月にロシア陸軍と海軍は、ミハエル・マチュシュキン少将の下でラシュトを奪取し、翌1723年7月にバクー攻略の為に軍を前進させた。ロシア軍の勝利と同年春の南コーカサス地域におけるペルシャ領へのオスマン帝国の侵略によって、タフマースブ2世の政権は9月12日、デルベント・バクー・シルヴァン州(英語版)・ギーラーン州・マーザンダラーン州とアスタラーバードをロシアに割譲するサンクトペテルブルク条約を調印することを余儀なくされた[1]



戦後


ロシアはペルシャ北部を手に入れたが、戦時中であった1722年よりコーカサス・アゼルバイジャンにオスマン帝国が侵攻して、ロシアを牽制しながら支配下に組入れようとしており[4]、1724年にはフランスの仲裁でコンスタンティノープル条約を締結して、この地域の旧ペルシャ領の分割を行なっている。しかし1732年、露土戦争の直前、ロシア皇帝アンナはオスマン帝国に対するロシアとサファヴィー朝の同盟を結ぶ為に、ラシュト条約の条項の中で全ての併合したペルシャ領の返還を謳った[5]。領土放棄は1735年のギャンジャ条約で再確認されている。


この結果は、ピョートル1世の遠征を支持していたグルジアの支配層にとって災難であった。西グルジアのイメレティ王国(英語版)国王アレクサンデル5世(英語版)は、かつてより厳しい条件でオスマン帝国の宗主権を受け入れなければならなかった。東グルジアの支配者ヴァフタング6世は既に王位を追われて1724年にロシア宮廷に庇護を受けている状態ではあったが、領土を取り戻す道は厳しく、1737年にアストラハンで客死することになる。オスマン帝国は、ロシアの介入を警戒してコーカサス地方の海岸線沿いの防備を強化した[6]



脚注




  1. ^ abTreaty of St Petersburg (1723), Alexander Mikaberidze, Conflict and Conquest in the Islamic World: A Historical Encyclopedia, Vol. I, ed. Alexander Mikaberidze, (ABC-CLIO, 2011), p. 850.


  2. ^ “サファヴィー朝”. 2014年4月2日閲覧。


  3. ^ Elena Andreeva, Russia and Iran in the Great Game: Travelogues and Orientalism, (Routledge, 2007), 38.


  4. ^ 永田、P275 - P276。


  5. ^ A Global Chronology of Conflict: From the Ancient World to the Modern Middle East, Vol. II, ed. Spencer C. Tucker, (ABC-CLIO, 2010), 729.


  6. ^ Allen, W.E.D. (1950). "Two Georgian Maps of the First Half of the Eighteenth Century". Imago Mundi, Vol. 10: 99.




参考文献




  • Great Soviet Encyclopedia (ロシア語)

  • The Armenian Rebellion of the 1720s and the Threat of Genocidal Reprisal


  • Statistics of Wars, Oppressions and Atrocities of the Eighteenth Century(英語)


  • 永田雄三『西アジア史Ⅱイラン・トルコ』山川出版社、2002年8月。



関連項目



  • イランの歴史

  • アゼルバイジャンの歴史




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