セント・オールバンズの戦い (1461年)
































セント・オールバンズの戦い

戦争:薔薇戦争

年月日:1461年2月17日

場所:イングランド、ハートフォードシャーのセント・オールバンズ
北緯51度45分18秒西経0度20分9.6秒

結果:ランカスター派の勝利
交戦勢力

ヨーク家

ランカスター家
指導者・指揮官

ウォリック伯
モンターギュ男爵(捕虜)
ボンヴィル男爵 処刑
サー・トーマス・キリエル 処刑
ほかブルゴーニュ傭兵500

マーガレット王妃
サマセット公
エクセター公
ノーサンバランド伯
シュルーズベリー伯
デヴォン伯
クリフォード男爵
ルーシュ男爵
フェラーズ男爵 
アンドリュー・トラロップ
ほかスコットランド兵
戦力
10,000以下
15,000以下
損害
4,000
2,000

薔薇戦争



  • 第一次セント・オールバンズ

  • ブロア・ヒース

  • ラドフォード橋

  • ノーサンプトン

  • ウェイクフィールド

  • モーティマーズ・クロス

  • 第二次セント・オールバンズ

  • フェリブリッジ

  • タウトン

  • ヘッジレイ・ムーア

  • ヘクサム

  • エッジコート・ムーア

  • ルーズコート・フィールド

  • バーネット

  • テュークスベリー

  • ボズワース

  • ストーク・フィールド








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セント・オールバンズの戦い (1461年) の座標 TL147073

セント・オールバンズの戦い (1461年)
(座標: TL147073)場所


(第2次)セント・オールバンズの戦い(Second Battle of St Albans)は、薔薇戦争中の1461年2月17日、セント・オールバンズの街の近くで行われた戦闘。




目次






  • 1 戦闘の背景


  • 2 戦闘の様子


  • 3 戦闘の結果


  • 4 参考文献





戦闘の背景


ヨーク公リチャードは1460年12月のウェイクフィールドの戦いで戦死し、後を継いだ18歳になる息子のマーチ伯エドワード(後のエドワード4世)は、その直前に西で行われたモーティマーズ・クロスの戦いに参加していて忙しかった。となるとマーガレット王妃率いるランカスター派にとってとるべき道は明確である。ランカスター派はロンドンを強襲するため、南進を開始した。



戦闘の様子


ランカスター派の進軍は、ウォリック伯リチャード・ネヴィル指揮下のヨーク派軍によってセント・オールバンズの近くで妨げられた。ウォリック伯は防衛のための軍備・陣容を整えていたが、ランカスター派の思わぬ方向からの出現に驚き、打ち負かされた。弟のモンターギュ男爵ジョン・ネヴィルは捕虜となり、ウォリック伯は辛うじて戦場から離脱、マーチ伯との合流を図り西へ退却した。


この戦いは従来と違い下級兵士の犠牲が多く、戦死した貴族はランカスター派のフェラーズ男爵ジョン・グレイ(英語版)(エリザベス・ウッドヴィルの最初の夫)のみであった。



戦闘の結果


この戦勝によって、ヨーク派に捕らわれていた国王ヘンリー6世(戦場から遠ざけられ、木の下で笑いながら歌っていたとされる)はランカスター派に連れ戻された。ヘンリー6世の護衛役だったボンヴィル男爵ウィリアム・ボンヴィルとトーマス・キリエルは、翌日の2月18日にマーガレットと話し合ったエドワード王太子の命令で処刑された。


だが、ロンドンへの進軍は強行されなかった。ランカスター派による略奪行為の噂のためロンドン市民が城門を閉ざし、マーガレットが躊躇したからである。マーチ伯がモーティマーズ・クロスの戦いで勝利したニュースもその原因となり、ランカスター派はヨーク派の襲撃を避け北へ撤退した。


代わってマーチ伯とウォリック伯が3月2日にロンドンに入り、マーチ伯がイングランド王エドワード4世として宣告された。



参考文献



  • トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。







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