シリア






シリア・アラブ共和国

الجمهوريّة العربيّة السّوريّة











シリアの国旗 シリアの国章
(国旗) 国章


国の標語:なし


国歌:祖国を守る者たちよ


シリアの位置









































公用語

アラビア語

首都

ダマスカス
最大の都市

アレッポ

政府












大統領

バッシャール・アル=アサド

首相

イマード・ハミース(英語版)


面積











総計

185,180km2(86位)
水面積率
0.6%


人口











総計(2014年)

17,951,639人(55位)

人口密度
118.3人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2010年) 2兆7,918億[1]シリア・ポンド (YTL)


GDP (MER)





合計(2010年) 600億[1]ドル(67位)


GDP (PPP)











合計(2010年)
1,364億[1]ドル(68位)
1人あたり 6,375[1]ドル



建国
 - 宣言
 - 承認

フランスより
1944年1月1日
1946年4月17日

通貨

シリア・ポンド (YTL) (TRY)

時間帯

UTC +2(DST:+3)

ISO 3166-1
SY / SYR

ccTLD

.sy

国際電話番号
963



シリア・アラブ共和国(シリア・アラブきょうわこく、アラビア語: الجمهوريّة العربيّة السّوريّة‎)、通称シリアは、中東・西アジアの共和制国家。北にトルコ、東にイラク、南にヨルダン、西にレバノン、南西にイスラエルと国境を接し、北西は東地中海に面する。首都はダマスカス[2]。「シリア」という言葉は、国境を持つ国家ではなく、周辺のレバノンやパレスチナを含めた地域(歴史的シリア、大シリア、ローマ帝国のシリア属州)を指すこともある。




目次






  • 1 国名


  • 2 政治


    • 2.1 元首


    • 2.2 行政


    • 2.3 立法


    • 2.4 司法




  • 3 軍事


  • 4 国際関係


    • 4.1 シリア騒乱が国際関係に与えた影響


    • 4.2 イスラエルとの関係


    • 4.3 イラクとの関係


    • 4.4 イラン・イスラーム共和国との関係


    • 4.5 トルコ共和国との関係


    • 4.6 ソビエト連邦及びロシアとの関係


    • 4.7 朝鮮民主主義人民共和国との関係


    • 4.8 中華人民共和国との関係


    • 4.9 アメリカ合衆国との関係


    • 4.10 日本国との関係




  • 5 地方行政区分


  • 6 地理


  • 7 経済


  • 8 歴史


    • 8.1 アケメネス朝


    • 8.2 セレウコス朝


    • 8.3 ローマ帝国


    • 8.4 イスラム帝国


    • 8.5 セルジューク朝


    • 8.6 十字軍国家


    • 8.7 アイユーブ朝


    • 8.8 モンゴル帝国


    • 8.9 マムルーク朝エジプト


    • 8.10 オスマン帝国


    • 8.11 OETA


    • 8.12 独立・シリア王国


    • 8.13 フランス委任統治領シリア


    • 8.14 独立・シリア共和国


    • 8.15 アラブ連合共和国


    • 8.16 独立・シリア・アラブ共和国


    • 8.17 バアス党政権樹立


      • 8.17.1 ハーフィズ・アル=アサド政権


      • 8.17.2 バッシャール・アル=アサド政権






  • 9 国民


    • 9.1 民族


    • 9.2 言語


    • 9.3 宗教


    • 9.4 教育




  • 10 交通


    • 10.1 鉄道


    • 10.2 空港




  • 11 文化


    • 11.1 世界遺産


    • 11.2 スポーツ


    • 11.3 祝祭日




  • 12 脚注


  • 13 関連項目


  • 14 外部リンク





国名


正式名称は、アラビア語でالجمهوريّة العربيّة السّوريّة(翻字: al-Jumhūrīyah al-ʿArabīyah al-Sūrīyah)で、読みはアル=ジュムフーリーヤ・アル=アラビーヤ・アッ=スーリーヤ、通称 سوريا (Sūriyā スーリヤー)または سورية (Sūrīyah スーリーヤ)。


公式の英語表記は Syrian Arab Republic (シリアン・アラブ・リパブリック)。通称 Syria (シリア)。


日本語の表記はシリア・アラブ共和国。通称シリア


「シリア」の語源は不明だが、アッシリアの転訛とする説、ティルスの転訛とする説などがある。[3]



政治




国会議事堂



シリアは共和制、大統領制をとる国家である。1963年の3月8日革命(クーデター)以降、一貫してバアス党(アラブ社会主義復興党)が政権を担っている(バアス党政権)。現行憲法の「シリア・アラブ共和国憲法(英語版)」は1973年の制定当初、国家を社会主義・人民民主主義国家とし、バアス党を「国家を指導する政党」と定めていた。だが、2011年のシリア騒乱勃発を受けて行われた2012年の憲法改正(Syrian constitutional referendum)で、これらを定めた条文はいずれも削除されている。


シリア騒乱勃発後、バアス党政権の正統性を認めない反体制派の諸団体が現行政府の打倒を目指し国内外で活動している。欧米・中東の一部の国々は反体制派を「穏健な反体制派」とイスラム過激派とに区分し、「穏健な反体制派」のシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認している(後述)。だが、シリア政府の関係者は反体制派全体をテロリストと認識しており[4]、反体制派を敢えて二つに区分するのを無意味な事とみている[5]



元首


国家元首である大統領は、バアス党の提案を受け人民議会が1名を大統領候補とし、国民投票で承認するという選任方法を採っていた。大統領の任期は7年で、ムスリムでなければならない。再選の制限は特に無かったが、2011年以来のシリア内戦の初期に政権側から示された妥協案の一つである憲法改正により、2任期の制限が設けられた(但し、憲法改正以前に遡っての適用ではない為、現職のバッシャール・アル=アサドは実質3任期目である)。また、バアス党の専権であった大統領候補者提案権も削除され、人民議会議員35名以上の文書による支持が新たな候補者要件となった。



行政


首相と内閣に相当する閣僚評議会のメンバーは、大統領が任命する。



立法


立法府たる議会は一院制で、正式名称は「人民議会」。定数は250議席。人民議会議員は国民の直接選挙(15選挙区)で選出され、任期は4年である。定数250議席のうち、127議席は労働者と農民の代表でなければならないと規定されている。


大統領は絶対的な必要性がある場合は、人民議会の閉会中でも立法権も行使することができ、シリア軍の最高司令官も兼任する。


1973年に制定されたシリア・アラブ共和国憲法では、第8条においてバアス党が「国家を指導する政党」と規定され、バアス党によるヘゲモニー政党制が採られていたが、2011年より始まったアラブの春による一連の改革要求や反政府活動に応える形で2012年に憲法の抜本的改正が行われ、前記の規定は削除された。またこれに先立つ2011年8月に政党法および選挙法が制定・施行され、複数政党制が導入された。ただバアス党は、現在もアラブ社会主義連合党(英語版)シリア共産党(英語版)などの諸政党と協力関係にあり、与党連合「国民進歩戦線(英語版)」(NPF)を結成している(国民進歩戦線議長はバアス党書記長)。バアス党は五十年以上に亘る一党独裁により、党組織が巨大化して党員は350万人を数え、衛星政党の党員と合算すると400万人に達する。また非公認政党はクルド人勢力を中心に多数存在するが非合法指定を受けた政治組織はムスリム同胞団のみである。なお、ムスリム同胞団はバアス党政権と激しく対立しており、同国の法律によって構成員への極刑が定められている。



司法


司法制度はフランス法およびオスマン帝国法を基礎としている。イスラーム法は家族法の分野で用いられている。大統領を議長とする最高司法評議会が置かれており、裁判所判事の任命に当たる。最高司法機関は最高憲法裁判所である。




軍事





シリア空軍(英語版)のMiG-23戦闘機



シリアはアラブ世界ではエジプトに次ぐ軍事大国として知られる。シリアは徴兵制が敷かれており、男子の兵役義務がある。また敵国であるイスラエルの侵攻を防ぐために、旧東側諸国の武器を重装備しており、主に友好国であるロシアから武器を調達している。


シリア軍の総兵力は現役約32万人、予備役は50万人である。陸軍の総兵力は約21万5000人、海軍総兵力約5000人+予備役約4000人、空軍総兵力約7万人、防空軍総兵力約4万人である。
また、これらの正規軍の他にイスラエルの侵攻に備えて、ゲリラ戦を行う為に複数の民兵が組織されている。


シリアの軍事予算は国家予算の一割を占め、膨大な軍事費の為にシリアの財政を非常に圧迫している。またハマース、ヒズブッラー、PFLPなどのテロ組織、ゲリラ組織への資金援助、武器援助などを加えると軍事費は更に膨大なものとなっている。


また、タルトゥース港とフメイミム空軍基地(ラタキア)にロシア連邦軍が駐留し、同軍の地中海における拠点となっている。



国際関係





青で塗られている諸国にはシリアの外交使節が派遣されている。




深緑で塗られている諸国はシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認している。


国家の安全保障、アラブ諸国の間での影響力の増大、及びイスラエルからのゴラン高原返還を確実にすることが、バッシャール・アル=アサド大統領の外交政策の主要目的である。対外関係において、アサド政権はバアス党の伝統として「アラブの大義」「パレスチナを含むイスラエルによる全アラブ占領地の解放」を前面に押し出した主張をすることが多い。


シリアは、歴史上の多くの局面においてトルコ、イスラエル、イラク、レバノン等の地理的・文化的隣国との間で激しい緊張関係を経験してきた。また、サウジアラビアやカタールを中心とした湾岸地域のスンニ派アラブ諸国とは敵対関係にあり、これらの諸国は一貫してイスラム過激派を含むシリアの反政府勢力への支援を行ってきた。21世紀に入り、アサド政権は中東地域で対立関係にあった複数の国家との関係改善に成功した。だが、「アラブの春」とそれに続くシリア騒乱の影響から多数の国との外交関係が断絶、或いは疎遠化しており、国際社会における交流の幅が狭まっている。(詳細はシリア騒乱に対する国際的な対応(英語版)を参照のこと。)



シリア騒乱が国際関係に与えた影響


シリア・バアス党政権は、2011年のシリア騒乱勃発を理由にアラブ連盟(2011年)、及びイスラム協力機構(2012年)への加盟資格を停止させられている。また、トルコ、カナダ、フランス、イタリア、ドイツ、アメリカ合衆国、イギリス、ベルギー、スペイン、及び湾岸協力会議加盟諸国は反体制派団体の一つであるシリア国民連合を「シリアの正統な代表組織」として政府承認しており、バアス党政権との外交関係が断絶している[6]。(シリア国民連合を政府承認している国の一覧については該当ページを参照のこと。)


一方、バアス党政権は伝統的な同盟国であるイラン、及びロシアと良好な関係を維持し続けており、シリア騒乱に対する軍事的援助を両国から受けている。また、騒乱勃発後も友好的な関係を維持している国々として、中国、北朝鮮、アンゴラ、キューバ[7][8]、ベネズエラ[9]、ニカラグア[10]、ブラジル[11]、ガイアナ[12]、インド[13][14][15]、南アフリカ[16][17]、タンザニア[18]、パキスタン[19]、アルメニア,[20]、アルゼンチン、ベラルーシ、タジキスタン[21]、インドネシア[22]、フィリピン[21]ウガンダ[21]、ジンバブエ[21] 、キプロス、及びその他諸国[23]があり、アラブ連盟加盟国であるイラク、エジプト(2013年のクーデター以降)、アルジェリア[24]、クウェート[25]、スーダン[26]、レバノン、オマーン[27][28][29]、パレスチナ自治政府、及びイエメンとも友好関係を維持している。


その他、バアス党政権と反体制派のいずれも積極的に支援せず、日本のように在シリア大使館を一時的に閉鎖[30]して両国関係を疎遠にさせている国もある。(各国のシリアにおける在外公館の設置・閉鎖状況については、駐シリア外国公館の一覧(英語版)を参照のこと。)



イスラエルとの関係



シリアとイスラエルは1948年5月14日のイスラエル建国とその直後に起きた第一次中東戦争以来、ゴラン高原の領有権、ハマースやヒズボッラー等の反イスラエル武装組織への支援、イスラエルが敵国と見做すイランへの協力、シリア自体の核兵器開発疑惑などの理由から、2018年現在に至るまで敵対的な関係が続いている。


両国の最大の対立要因は1967年の第三次中東戦争においてイスラエルがシリアから奪取したゴラン高原の帰属問題で、1967年以来イスラエルはゴラン高原を実効支配し、その主権を主張しているが、シリアはゴラン高原をシリア固有の領土であると主張し、同領土の返還を要求し続けている。イスラエルを除く当事国、および国連のどちらもイスラエルの主張を認めていない。国連安全保障理事会が決議497「イスラエルの(ゴラン高原)併合は国際法に対して無効である」旨を採択し、同地がイスラエルによって不当に併合されたシリア領であるという見解が固定化した。しかし、イスラエル政府は「併合」であると認めていない。
シリアとイスラエルは現在もゴラン高原の領有権を争っているが、第四次中東戦争停戦後の1974年以来、武力行使を行っていない。


シリアはイスラエルを牽制するため、1976年以降レバノンに軍を進め以後駐留を続けたが、レバノン国内からの反対(杉の革命)と国際的圧力により、2005年3月に軍と情報機関の完全撤退を表明した。軍は4月12日までに完全撤退した。情報機関の撤退については不明である。レバノンの反シリア派は、同国で頻発する政治テロの犯人はシリアであると非難している。


また、シリアはハマースやヒズボッラー、イスラーム・ジハード等の欧米諸国やイスラエルが「テロ組織」と呼ぶ組織を支援しており、アメリカからは「テロ支援国家」に指定されている。首都ダマスカスにハマースやその他のパレスチナ・ゲリラの拠点があり、武器援助や軍事訓練拠点を提供しているとされる。


2007年9月にはイスラエル軍がシリアの核施設と思しき建造物を越境爆撃した。限定的な空爆はそれ以前から散発的に実施されており、以後もシリア内戦勃発以降も含め複数回実施されたが、2018年2月にはシリア軍がイスラエル軍機を撃墜している。


2011年3月以降のシリア内戦では、イスラエルはシリア軍の化学兵器関連の疑いのある施設やアサド政権支援の為シリア国内で活動するヒズボラやイスラム革命防衛隊に対する限定的な空爆を行っている一方、アサド政権崩壊後の混乱を警戒してか同政権の崩壊を企図した反体制武装勢力への支援については極めて慎重な姿勢を取っており、2018年7月のアサド政権軍によるゴラン高原隣接地域を含むシリア南西部の平定について「シリアの状況は内戦前に戻りつつある」として、内戦でのアサド政権の勝利がイスラエルにとっても好ましいとの見方を示した。



イラクとの関係



隣国イラクを巡っては、シリア・バアス党とイラク・バアス党の政治対立によって、イラン・イラク戦争ではイラン支持に廻り、湾岸戦争ではシリア軍が多国籍軍の一員としてイラクに侵攻するなど、対立の時代が長く続いた。しかし、イラク戦争後アメリカ軍により指名手配された旧イラク・バアス党幹部やイラク国内の混乱から逃れた人々が数多くシリアへ亡命し、受け入れた数は推定120万人を上るとされた。
シリア政府が政治亡命したイラク・バアス党員の引き渡しを拒否したことや、イラクで米軍と戦うアル=カーイダなどのテロリストがシリアを経由してイラク国内に流入したことは、米国政府からの強い非難を引き起こした。イラク治安筋によるとダマスカスとラタキアには、外国人テロリストのイラクへの密入国を仲介する者達がおり、そのほとんどがイラク・シリア国境付近における密貿易で生計を立てていた者であったという。


米陸軍士官学校ウェストポイントはイラク北部のシンジャールで見つかったアル=カーイダの文書を元に報告書を作成した。それによると、現在までにシリアからイラクに入ったテロリストは590人で、約100人のシリア人仲介者がテロリストの密入国を手助けしているという。動機は金銭目的、イスラーム原理主義を支持しているなどの理由であるという。テロリストの出身国は遠くはモロッコ、リビア、アルジェリア、イエメン、近くはサウジアラビアで、彼らは密入国の手数料として2,500ドルを支払い、国境付近に到着すると偽造パスポートを受け取り、地元民の協力とガイドでイラクへと越境している。また、外国人テロリストのほとんどがアラブ諸国出身者であり、アラブ民族主義、あるいは侵略された同胞ムスリムを助けるジハードの遂行のためにイラクへ入国したイスラム過激思想信奉者であるとされる。特に、デリゾール県などのイラク国境地域の住民はイラク北西部に住むスンナ派部族とは親戚関係にあり、ジャズィーラ方言のアラビア語(メソポタミア方言のうち、イラク北西部やシリア東部で話されるもの)を喋るなど、イラクとの関係は深く、「外国人の占領下に置かれている同胞」への同情からテロリストを支援しているとされている。




メソポタミア方言の分布


イラクでの戦闘に参加するために、同国へ潜入したイスラム過激思想信奉者のうち著名な人物は、シリア東部デリゾール県出身のアブー・ムハンマド・アル=ジャウラーニーである(ジャウラーニー氏についてはダラア県出身との説もある[31]。)当該人物は、シリア内戦における反政府武装勢力の主力たるアル=ヌスラ戦線の指導者となっている[32]。ヌスラ戦線の要員には、米軍占領期のイラクにおいて反米・反シーア派闘争に参加した者たちが多く含まれる。


シリア政府は、2003年の対イラク開戦時には越境する「アラブ人義勇兵」を放置していたが、同年4月以降までに密輸業者を取り締まるなどの対策を講じた。しかし、部族民や地元政府、治安当局者まで業者に賄賂で買収されてしまっており、効果があがっていないとされる。もっとも外国人テロリストの越境数が多かったのは、2004年のファッルージャの戦闘時で、大半がサウジ人であったという。[33]。イラク戦争後、シリア国内で統制が強化されたのは、これらの義勇兵にイスラーム過激派が含まれており、シリア・バアス党の政治思想と厳しく対立していたためでもあり、シリア国内の治安への悪影響を減ずるという意図もあった。しかし、シリアは旧イラク・バアス党政権の残党には庇護を加え、米軍を始めとする占領軍やイラク暫定政権に対する破壊活動を支援したとされる。


また、イラクでは、元大統領サッダーム・フセインの出身部族がスンニ派であることに加え、サッダーム旧政権時代の与党であったイラク・バアス党の中核支持層もスンニ派に属し、これがイラク国内で多数派の十二イマーム派を押さえる形になっていた。しかし、シリアでは対照的に、アサド大統領の出身部族はイスラームの少数宗派であるアラウィー派に属し、シリア・バアス党の中核支持層はアラウィー派のほか、キリスト教徒・ドゥルーズ派・イスマーイール派などの少数宗派であり、これらが多数派であるスンナ派を抑える形になっている(但し、スンニ派であっても世俗主義勢力の一部はバアス党と協力関係にある)。


このためシリア内戦が勃発した後、イラク国内で反米・反シーア派闘争を継続していた聖戦と解放の最高司令部および
ナクシュバンディー軍を率いる旧イラク・バアス党序列第二位のイッザト・イブラーヒーム(サッダーム・フセインの死刑執行後、イラク・バアス党の地域指導部書記長に就任)はアサド大統領の打倒を目指してシリア国内で活動するスンニ派の反体制勢力との連帯を表明した。また、イラク西部のスンニ派多数派地域における自由シリア軍支持者によって自由イラク軍というスンニ派武装集団も結成されている。これらの組織は過激派組織ISILとも協調しており、イラク政府軍と戦闘状態にある。逆に、イラク・バアス党政権の崩壊後、十二イマーム派が主体となったイラク政府は、ISILや同組織と同盟関係あるスンニ派武装集団の戦闘においてシリア政府と協力関係にある。


シリアは旧イラク・バアス党政権の残党に庇護を与えていたが、一様な支援ではなく、イラク・バアス党側においてもイッザト・イブラーヒームは、イランと同盟関係にあるシリアに対し深い不信感を抱いており、提携にも消極的であったとされる。また、イラク・バアス党はサッダーム・フセインの死によって路線対立に歯止めが利かなくなり、一部の党幹部が非主流派グループを形成し、イブラーヒームの下を離脱。シリア東部のハサカにて会議を行い元党軍事局員のムハンマド・ユーニス・アル=アフマドを新指導者に選出した。この後、ユーニスはイブラーヒームを党より追放すると宣言、これに対抗してイブラーヒームがユーニスとそれに連なる党員の追放を行い、イラク・バアス党は主流のイブラーヒーム派と傍流のユーニス派に分裂した。ユーニス派による内訌と党分裂の事態に際して、イブラーヒームは声明を発し、イラク・バアス党に対するアメリカの陰謀を支援しているとして、シリア政府を非難している[34]。イブラーヒームはシリア政府との協働に懐疑的姿勢を崩さず、敵視しており、シリア内戦勃発後には最終的にシリア政府と決別した。しかし、対照的に、ユーニスはシリア政府と良好な関係を構築した。


現イラク政府の暴力的転覆によるイラク・バアス党の政権奪取を重視している聖戦と解放の最高司令部やナクシュバンディー軍を始めとするイブラーヒーム派に対し、アル・アウダのようなユーニス派は恩赦や国外へ逃れたバアス党員の本国帰還によるイラク・バアス党の政治的再建を重視している(アル・アウダの結成は2003年であり、当初は積極的武力闘争路線であったがのちに方針を転換した)。また、イブラーヒーム派は闘争の過程でスーフィズムの紐帯を利用した他、ジハード主義者と共闘するなど宗派主義的傾向を強めた(ただし、これは軍事的手段の1つとして用いた便宜的なものであり、政治的には、世俗主義を維持していた。)が、ユーニス派は前者に比して更に世俗主義的傾向が色濃く汎アラブ主義への回帰はより強固であった。これによってユーニス派は十二イマーム派が多数を占めるイラク南部における支持獲得に成功し、上位の指導層はスンニ派が占めているとはいえ、組織の中間層にはシーア派が多く存在するなど、旧来の支持基盤であるスンニ派多数地域での構成員獲得を目指すイブラーヒーム派とは対照的である。シリア政府はユーニス派を通じてイラクへの影響力拡大を図っていたのだった。また、恩赦を呼びかけるユーニスらに対してヌーリー・マーリキーは拒否する姿勢を崩さなかったが、マーリキーの退陣後、イラク首相に就任したハイダル・アル=アバーディは、穏健派であるユーニスとの和解に対して妥協的である。


また、当初は十二イマーム派が主導する現イラク政府との戦いにおいてISILと共闘していたイブラーヒーム派だったが、支持基盤の一部はスーフィー信者であり、ISILの急速な勢力拡大に対して警戒感を強め、同盟関係は2014年末には決裂したとされる。しかし、イッザト・イブラーヒームの率いる武装組織は、イラク政府との闘争も依然継続し、翌2015年4月中旬、領袖のイッザト・イブラーヒームがイラク政府軍およびシーア派武装組織との戦闘で死亡した。イブラーヒーム派がISILとの協力を停止し(スーフィーに属さない党関係者にはISILとの協働を継続している者やISILの構成員となっている者もおり、これらの元党関係者はISILとの同盟関係が決裂したの際、反対にイブラーヒーム派の攻撃に加担した)、イブラーヒーム本人が戦死するなか、イラク政府はISILとの戦いを続けるうえで、イラク・バアス党との政治的和解を模索しているとされる。だが、当事者であるイラク・バアス党は両派に分裂したまま派閥対立がまったく収束していない。イブラーヒーム派はムハンマド・ユーニス・アル=アフマドをイラク政府との交渉から排除することを望み、ユーニス派はイラク国内の破壊および占領に関するイブラーヒーム派の責任を非難し、イブラーヒーム派の政治的復権を拒否している。[35]



イラン・イスラーム共和国との関係



イラク・バアス党政権との対立関係やシリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事から、イラン・イラク戦争ではイラクと戦争状態にあり、かつシーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した背景があり、イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で、反米・反イスラエル、国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。
シリア内戦ではイランは一貫してアサド政権を支持しており、資金や物資に留まらず革命防衛隊を援軍として送るなど直接・間接にアサド政権を支援している為、内戦勃発以降は政治面の他、経済・軍事面でも一体化を強めつつある。


近年では、イランの他、ベネズエラ、スーダン、キューバなどの反米路線の国との関係を強化している。



トルコ共和国との関係



シリアは隣国トルコ共和国のハタイ県を固有の領土であると主張している。2000年のバッシャール・アル=アサドの大統領就任後は両国の関係は改善していたが、2011年にシリア内戦が勃発すると、エルドアン政権はアサド政権打倒目的で自由シリア軍を始め反体制武装勢力を積極的に支援するなど対立関係にある。トルコの反体制派支援に対しアサド政権はシリア北部のクルド人勢力(クルド人民防衛隊/YPG)と協調し、同国北東部の自治を事実上黙認する方針を取ったため、国内にクルド人問題を抱えるトルコは2016年及び2018年にシリアのクルド人地域(ロジャヴァ)に対する越境攻撃を実施。特に2018年の越境攻撃時にはアサド政権が反体制派への勝利をほぼ確定的にし、余裕が出た戦力をYPGへの援軍として送ったためトルコ軍との直接戦闘に至り、両国の対立は激化の一途を辿っている。



ソビエト連邦及びロシアとの関係






ロシアのメドヴェージェフ大統領(当時)と会談するアサド大統領(2010年)。


ロシアは、ソ連時代の1980年にシリアとの間にソビエト・シリア友好協力条約を締結しており、ハーフィズ・アル=アサド政権時代から軍事的には同盟国である。この同盟関係はソ連崩壊後もロシア連邦が引き継ぎ、ロシアは新鋭の防空兵器や弾道ミサイル等さまざまな武器・兵器を販売するなどシリアにとって最大の武器援助国となっている。また独立国家共同体(CIS)諸国以外で唯一のロシアの軍事施設がある[36](タルトゥースの海軍補給処、ラタキア近郊のフメイミム空軍基地など)。


シリア危機に際し、2013年9月9日にプーチン政権は米国によるシリア侵攻を回避すべくロシアのセルゲイ・ラブロフ外相を通してシリアの化学兵器を国際管理下に置き、シリアの化学兵器禁止条約批准を提案した[37]。そして、9月12日にシリアのアサド大統領はさらに批准後の一ヶ月後に化学兵器情報を提供することにも同意した[38]。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する軍事介入を開始(ロシア連邦航空宇宙軍によるシリア空爆)。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾き、アレッポやデリゾールといった主要都市を巡る攻防を政府軍が制し、内戦の帰趨を決する決定的な影響を与えた。



朝鮮民主主義人民共和国との関係


朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とはハーフィズの時代からの伝統的友好国であり、軍事交流や弾道ミサイルなどの北朝鮮製兵器の買い手でもある。共同の核開発計画も行っているとされ、2007年にはイスラエル空軍が核開発施設と見られる建物を爆撃した。


シリアは北朝鮮との友好関係を考慮し、大韓民国と国交を有していない。



中華人民共和国との関係



中華人民共和国(中国)とはハーフィズの時代からの伝統的友好国であり、軍事交流[39][40]や弾道ミサイル[41]などの中国製兵器の買い手でもある。1990年代にシリアに小型の原子炉を売却した際はイスラエルやアメリカから懸念された[42]。経済的にはシリア最大の貿易相手国でシリアの貿易全体の8割を占め[43]、2つのシリア最大の産油企業の大株主であり[44]、2011年から国連のシリア非難決議でもロシアとともに拒否権を行使することも多い[45]


アサド大統領も2004年6月に訪中して中国も胡錦濤国家主席と会談を行うなど、中国との関係を重視している[46]。シリアは中露主導の上海協力機構への加盟も申請している[47]



アメリカ合衆国との関係



アメリカ合衆国はシリアが1990年の湾岸戦争で多国籍軍に参加し、1991年にアメリカ合衆国政府が主催した中東和平 マドリード会議以後、アメリカ合衆国政府が提案する中東和平プロセスを支持し、アメリカ合衆国政府が主導した国連安保理決議に基づいて2005年にレバノンから軍を撤退させたが、アメリカ合衆国政府はシリアがレバノンに軍を進駐させた1976年当時からシリアを「テロ支援国家」と認定し、2004年以後は経済制裁を実施し、2005年以後は在シリア大使を帰国させている[48]


2013年9月5日にアメリカ合衆国上院外交委員会はシリアの化学兵器使用を理由に軍事行動を承認したが、議会承認なきままアメリカ軍はシリア侵攻の攻撃態勢に入っていた[49][50][51]



日本国との関係


シリア戦争の危機に際し、安倍晋三政権は日本の同盟国である米国のシリア侵攻に対しては反対を表明はしてはいない。[52]、菅官房長官は8月29日の記者会見で、シリア政府による化学兵器を使用の根拠を問われ「様々な具体的情報があるが、関係国とのやり取りなので控える」としている[53]


2012年5月、日本政府はモハンマド・ガッサーン・アルハバシュ駐日シリア大使に国外退去勧告を行う一方、シリア政府も翌6月、鈴木敏郎駐シリア大使にペルソナ・ノン・グラータを通告するなど、相互に大使の追放処分を行った[54]



地方行政区分





シリアの県


シリアには13の県がある。



  1. ダマスカス


  2. リーフ・ディマシュク県(ダマスカス)


  3. クネイトゥラ県 (クネイトゥラ)


  4. ダルアー県(ダルアー)


  5. スワイダー県 (スワイダー)


  6. ホムス県(ホムス)


  7. タルトゥース県(タルトゥース)


  8. ラタキア県(ラタキア)


  9. ハマー県(ハマー)


  10. イドリブ県(イドリブ)


  11. アレッポ県(アレッポ)


  12. ラッカ県(ラッカ)


  13. デリゾール県(デリゾール)


  14. ハサカ県(ハサカ)


このうち、シリア内戦以降事実上政府の管轄が及んでいないクルド人自治区としてロジャヴァ・クルド人自治区がある。アレッポ県、ラッカ県、ハサカ県の一部にまたがって設立されている。シリア政府による公式な自治は認められていないが、事実上の黙認状態となっており政府軍との戦闘は起きてない。一方、ISILやトルコ政府とは交戦状態となっており、2018年現在、ハジンなどデリゾール県のユーフラテス川からイラク国境にかけての複数の地域やシリア砂漠の油田地帯はISILが占拠している。



地理




シリアの地図



東地中海に面する一部を除いて、国土は隣国と地続きであり、北部ではトルコと、東部ではイラクと、南部ではヨルダンと、西部ではイスラエルやレバノンとそれぞれ国境を接している。


国土の内、西部の地中海沿岸部には平野が広がっており、南部は肥沃な土地が広がっており、国内農業のほとんどを負担している。北部は半乾燥地帯、中部はアンチレバノン山脈が連なり、山岳地帯が大半であるが、乾燥地帯の延長上には、アラビア半島に続くシリア砂漠がある。国内最高峰はヘルモン山 (2,814m)。国土を北から南にユーフラテス川が、南から北にオロンテス川が流れている。


気候は地中海沿岸部は典型的な地中海性気候 (Cs) で、夏季は高温乾燥、冬季は温暖多雨である。内陸部に入るに従い乾燥の度合いが激しくなり(BS)、イラク国境周辺は砂漠気候 (BW) となっている。この地域では冬季には氷点下まで下がり、降雪による積雪も見られ、時に数十センチに達する大雪となることもあるなど季節毎の差が激しい。ダマスカスの年平均気温は5.8℃(1月)、26.5℃(7月)、年降水量は158.5mm。



経済



IMFの統計によると、内戦が本格化する前の2010年のGDPは600億ドル。一人当たりのGDPでは2,807ドルで、これは中東では低い水準であり、隣国のイラクやヨルダンよりも千ドル以上低い数値である。[1]


シリアの産業は、バアス党の強力な計画経済により農業、商工業、鉱業ともに偏りがなくバランスが取れた形となっており、石油資源にも恵まれているが、米国による禁輸措置もあり経済は低迷状態が続いていた。2004年時点で政府発表の国内失業率は20%を超えており、中華人民共和国の改革開放を手本として市場経済の導入を計っており、外国企業の投資受け入れやインターネット導入を進めていた。しかし2011年に勃発した内戦により経済は深刻な影響を受けており、国連の推定では2014年時点でGDPは40%縮小、国内の労働人口500万人のうち約半数が失業状態にあり、国民の3/4が貧困状態に陥っていると考えられている[55]



歴史





紀元前10世紀の建築を原型とするアレッポ城




アケメネス朝




  • アケメネス朝ペルシアが古代オリエントを統一。


セレウコス朝





  • 紀元前305年 - マケドニアのセレウコス将軍が王号を名乗る。首都はアンティオキア(現在のトルコ領アンタキヤ)。


  • 紀元前304年 - インド領からの撤退始まる。


  • 紀元前301年 - シリア地方獲得。


  • 紀元前274年 - ガリア人侵入を撃退。


  • 紀元前274年〜紀元前168年 - コイレ・シリアをめぐるセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトのシリア戦争


  • 紀元前130年 - パルティア軍に敗北。全東方領土を喪失。



ローマ帝国




  • 紀元前64年 - ローマ軍首都制圧。シリア属州として併合され、セレウコス朝滅亡。


イスラム帝国



661年、ムアーウィヤがカリフとなりウマイヤ朝創設。ダマスカスを首都と定める。750年にウマイヤ朝が倒れると次いでアッバース朝の支配下となるが、アッバース朝が衰退するにつれ、地方政権が割拠するようになる。10世紀には東ローマ帝国が一時北シリアを奪還した。



セルジューク朝



ファーティマ朝の支配下にあったシリアをセルジューク朝が攻略。シリア・セルジューク朝(1085年 - 1117年)。



十字軍国家





1135年のシリア地方



1098年、第1回十字軍がセルジューク朝の支配下にあったシリア北西部のアンティオキアを攻略(アンティオキア攻囲戦)。地中海沿岸部を中心に、アンティオキア公国を初めとする十字軍国家が成立する。アンティオキア公国は1268年にマムルーク朝に滅ぼされるまでイスラム諸勢力と併存した。



アイユーブ朝


1171年、サラーフッディーン(サラディン)がアイユーブ朝を建国。



モンゴル帝国




  • モンゴル帝国、イルハン朝。


マムルーク朝エジプト




オスマン帝国




  • 15世紀ごろ - オスマン帝国の支配下に置かれる(ダマスカス・エヤレト(英語版))。


  • アラブ反乱(1916年 - 1918年)



OETA



  • 1917年 - オスマン帝国が占領されen:Occupied Enemy Territory Administration(1917年 - 1920年)が成立。


独立・シリア王国




  • 1920年3月8日 - シリア・アラブ王国(英語版)が独立し、ファイサル1世が初代国王として即位


  • 1920年7月24日 - フランス・シリア戦争(英語版)でフランスが占領



フランス委任統治領シリア





フランス委任統治領シリア





  • 1920年8月10日 - セーヴル条約によりフランスの委任統治領(1920年-1946年)となる


  • 1920年9月1日 - ダマスカス国(英語版)ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を含む)、アレッポ国(英語版)アレキサンドレッタ地区(英語版)を含む)、大レバノンに分離・分割


  • 1920年9月2日 - アラウイ自治地区(英語版)を分離・分割


  • 1921年5月1日 - ジャバル・ドゥルーズ地区(英語版)を分離・分割


  • 1921年10月20日 - アンカラ条約(英語版)によりアレキサンドレッタ地区(英語版)が成立


  • 1936年9月 - フランス・シリア独立条約(英語版)交渉でフランスが批准を拒否。


  • 1938年9月7日 - ハタイ共和国(英語版)(1938年 - 1939年、現トルコ共和国ハタイ県)



独立・シリア共和国




  • 1946年 - シリア共和国(英語版)としてフランスより独立[56]。同年、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。


  • 1949年 - 1949年3月クーデター(英語版)によりフスニー・アル=ザイームが政権を握るが、同年8月に打倒されハーシム・アル=アターシーの挙国一致政権が成立する。


  • 1951年 - 12月にアディーブ・アル=シーシャクリーによるクーデターが発生し、軍事独裁政権が成立する。


  • 1952年 - 再度、自治権を求めるアラウィー派の反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、シーシャクリー政権は全政党を禁止する。


  • 1954年 - ドゥルーズ派による反乱が起きるが、政府により鎮圧。同年、1954年クーデター(英語版)により、シーシャクリー政権が打倒される。


  • 1957年 - ソ連との間に経済技術援助協定が締結される。



アラブ連合共和国




  • 1958年 - 2月にエジプトと連合、「アラブ連合共和国」成立(首都:カイロ)。同年3月、北イエメンが連合国家に合流。


  • 1959年 - エジプトによって全政党が解党され翼賛政党へ加入。



独立・シリア・アラブ共和国



  • 1961年 - 9月に陸軍将校団によるクーデターが発生し、エジプトとの連合が解消され、シリア・アラブ共和国として再独立


バアス党政権樹立




  • 1963年 - 3月8日革命によりバアス党が政権を獲得


  • 1964年 - ハマー動乱 (1964年)(英語版)、同年、元大統領のシーシャクリーが亡命先においてドゥルーズ派の青年に暗殺される。


  • 1966年 - 1966年クーデターが起き、バアス党の若手幹部によって古参幹部が追放され、バアス党組織はシリア派とイラク派に分裂。


  • 1967年 - 第3次中東戦争、ゴラン高原を失う



ハーフィズ・アル=アサド政権




  • 1970年 - バアス党で急進派と穏健・現実主義派が対立、ハーフィズ・アル=アサドをリーダーとした穏健・現実主義派がクーデター(矯正運動)で実権を握る


  • 1971年 - ハーフィズ・アル=アサド、大統領に選出


  • 1973年 - 第四次中東戦争


  • 1976年 - レバノンへの駐留開始(レバノン内戦)。


  • 1980年 - ソビエト・シリア友好協力条約締結


  • 1981年、ハマー虐殺 (1981年)(英語版)


  • 1982年、ハマー虐殺。


  • 2000年 - ハーフィズ・アル=アサド大統領死去。息子のバッシャール・アル=アサドが大統領就任。



バッシャール・アル=アサド政権


ダマスカスの春


一般にシリアは前大統領ハーフィズ・アル=アサド時代のイメージから大統領による個人独裁国家であるとみなされる事が多いが、現大統領バッシャール・アル=アサドの就任以降は絶大な大統領権限は行使されず、その内実は大統領や党・軍・治安機関幹部による集団指導体制であり、より厳密には個人独裁ではなくバアス党(及び衛星政党)による一党独裁である。バッシャール・アル=アサドは大統領就任当初には、民主化も含む政治改革を訴えて、腐敗官僚の一掃、政治犯釈放、欧米との関係改善などを行い、シリア国内の改革派はバッシャールの政策を「ダマスカスの春(英語版)」と呼んだ。


改革では反汚職キャンペーンなどの面で多少の成果があったものの、基本的には、改革に反対するバアス党内の守旧派や軍部の抵抗で思うように進展せず、また2003年のイラク戦争でアメリカ軍の圧倒的な軍事力で隣国の同じバアス党政権のサッダーム・フセイン体制が僅か1ヶ月足らずで崩壊させられたことを受けて、以後、一転して体制の引き締め政策が行われ、デモ活動や集会の禁止、民主活動家の逮捕・禁固刑判決、言論統制の強化、移動の自由制限など、民主化とは逆行する道を歩む。近年、レバノン問題で欧米との対決姿勢を鮮明にしてからは、この傾向がますます強くなった。理由としては、グルジアなどで、いわゆる「色の革命」といわれる民主化運動により、時の強権的政権が次々と転覆したことに脅威を覚えたからだと見られている。その後、アラブの春へと続く反政府運動を受けて、これまでの引き締め政策は転換し反政府側に融和的な政策を打ち出したものの失敗したことで結果的にはその後のシリア内戦へとつながっていった。




  • 2005年 - レバノンより、シリア軍撤退


  • 2007年 - バッシャール・アル=アサド、大統領信任投票で99%の得票率で再選、2期目就任。


  • 2008年 - 隣国レバノンとの間に正式な外交関係樹立。大使館設置で合意。


シリア内戦





戦闘で破壊された車両(アレッポ、2012年)




ほぼ3分割されたシリアの勢力図、桃色ー政府軍、灰色=ISIL、黄色=クルド人勢力、緑=その他の反政府勢力



  • 2011年 - アラブの春に触発された騒乱が発生、シリア内戦(1月26日)に発展し、継続中。

2011年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会(英語版)」(SNC)、「民主的変革のための全国調整委員会(英語版)」(NCC)の二つの全国組織が結成されている。反体制派の「自由将校団運動」(Free Officers Movement)のニックネームを持ちトルコ政府が支援している「自由シリア軍」(FSA)というイスラム過激派武装組織もつくられている。さらに、地方でも中央組織に加わっていない組織が作られている。2012年11月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側との対立が続いている。


2012年の反体制武装勢力の大攻勢により、北部の最重要都市アレッポが孤立し、首都ダマスカスの中心部でも激しい戦闘が発生して、自爆攻撃により国防相や治安機関幹部などの政府要人が殺害されるなど、戦局が悪化。兵士の集団離脱まで発生し、一時は体制崩壊間近との観測も流れた。シリア政府軍は同国西部地域が危殆に瀕する情勢に際し、ハサカ・デリゾール・ラッカ県など、同国東部地域に展開する戦力の大部分を西部へ転進させるのみならず、内戦開始後も依然として控置されていた虎の子の対イスラエル戦備をも大規模に抽出転用するなど、西部地域に兵力を集中させて防衛に尽力、2012年後半の苦境を瀬戸際で乗り切り、2013年3月初旬には反体制派支配地域に孤立していたアレッポへの補給路を啓開した。だが対照的に防備が薄弱となった東部地域はその殆どが反体制武装勢力に制圧され、アレッポへの補給路啓開と機を同じくする3月初旬、ラッカ市が反体制武装勢力に制圧され、内戦開始後初の県都陥落となった。


一方、ロシアやイランを筆頭とする同盟国は、シリア政府を支えるため軍事援助を継続した他、ヒズボラを始めとしたシーア派武装勢力による政府軍への直接支援が開始され、2013年春以降、政府軍は、西部地域における勢力基盤確立と反体制武装勢力の封じ込めを企図し、戦局を巻き返すため攻勢に転移した。同年4月上旬に始まった作戦により政府軍は首都ダマスカス周辺の反体制武装勢力支配地区を削縮し、同月中にはこれらを包囲することに成功した。そして、5月には同国中部における反体制派の補給拠点であったクサイルを奪還。さらにホムス県最西部を制圧して、ホムス県北部に盤踞する反体制武装勢力の根拠地を包囲するなど政府軍が攻勢を強めるなか、8月に何者かによって首都ダマスカス郊外で化学兵器が使用され、一時は米仏を中心にシリアへの空爆が検討されたが、シリア政府が化学兵器禁止条約に加入し、該当兵器の全廃を確約したため、空爆は回避された。


政府軍は同年3月にアレッポ市への補給路啓開に成功していたが、本兵站線は依然脆弱な状態が続いていた。そして、ダマスカス近郊における化学兵器使用事件直後の8月下旬、アレッポ県にて反体制武装勢力の攻勢が開始されアレッポ市への補給路は再び遮断されるに至った。この攻勢は翌9月中旬まで続き、サフィーラ市近郊の政府軍重要拠点も反体制武装勢力に包囲された。しかし、アレッポ市周辺における反体制武装勢力の活発な軍事行動は政府軍の苛烈な反応を惹起することになった。空爆の危機を回避した政府軍は、北部における抗戦基盤強化に向け、アレッポ市への補給路再打通を企図する攻勢を10月1日付けで発動した。2ヶ月間にわたった本攻勢によって政府軍はアレッポ市への補給路打通と政府軍重要拠点解囲を達成したのみならず、サフィーラ市攻略とアレッポ国際空港周辺の脅威排除にも成功した。続いて、2013年末頃からは、レバノン国境地帯で政府軍による大攻勢が始まり、翌2014年の4月末日までに要域をほぼ奪還した。また5月9日には停戦交渉に基づき、政権側による厳しい包囲下におかれていたホムス旧市街から反体制武装勢力が撤退した。これによってシリア政府は、反体制派によって革命の首都と呼ばれていたホムス市における統制を完全に回復した。さらに同年8月、政府軍は首都ダマスカスとダマスカス国際空港を結ぶ交通幹線を扼す要衝であり、依然反体制武装勢力の勢力下にあったムライハを力攻し、これを制圧した。


2013年の政府軍の大攻勢に対して反体制派各派は内紛によって有効な手段を講ずることができず、このことも政府軍の軍事的成功の一助となった。特に反体制派の一角を占めていたクルド人勢力とイスラーム主義勢力が鋭く対立したため、クルド人勢力は北部においてトルコやイラクのクルド人民兵などの支援をうけて支配地域を確立すると急速に中立化。ロジャヴァ・クルド人自治区を創設し、事実上の自治権を獲得すると、シリア政府もこれを黙認する姿勢をとり、クルド人勢力と政府側との対立は沈静化した。


しかし、2014年夏以降、それまでの反体制武装勢力が内紛によって衰退すると、イスラム過激派のISIL(イラクとレバントのイスラム国)が反体制運動の中心に躍り出た。サウジアラビアを中心としたスンニ派湾岸諸国の富裕層の資金が流入しているとされる豊富な資金力やそれまで体制転換を目指した国々によって反政府武装勢力に提供されてきた武器・兵器をもとに力をつけたISILによる攻勢が続き、特に東部のラッカ県・デリゾール県等では、政府軍の残余部隊や自由シリア軍およびヌスラ戦線等が駆逐され、ISILによる非常に残忍で冷酷な方法による独自の支配権が築かれた。2014年9月にはISILに対する米軍をはじめとした国際社会の有志連合による空爆も開始し、2015年には当初限定されたイラク領内だけではなく、シリア領内においても空爆を行うようになった。その結果、政府軍対反体制武装勢力という従来の内戦の様相は、西側有志連合・ISIL・政府軍・クルド民兵・アルカーイダ系武装勢力(アル=ヌスラ戦線等)・その他のイスラム主義武装集団(イスラーム戦線等)が角逐するという複雑な構造へ変化しつつあり、もはや内戦は終わりの見えない泥沼状態となっている。当初の反体制勢力であった民主化を求めていた市民のデモ隊やシリア国民連合はほとんど力を失った。2015年春にはISILはパルミラ遺跡やダマスカス近郊まで支配権を確立し、支配領土を拡張しつつある。


これに対し、シリア北部においては、アル=ヌスラ戦線等を中心とするアルカーイダ系武装勢力が反政府勢力内の世俗主義勢力との内紛に勝利したのち、政府軍への攻勢を強めた。ヌスラ戦線とその同盟勢力は、2014年8月から9月にハマー市を指向する大攻勢を実施したが、本攻勢はハマー市近郊まで迫ったものの、政府軍の縦深によって阻まれて攻勢限界に達した。これをうけて政府軍は精鋭を投入して反攻に移り、ヌスラ戦線と同盟勢力が攻勢開始後に制圧した地域はほぼ奪還した。ヌスラ戦線は本攻勢が挫折したのち、攻略目標をイドリブ県に変更し、12月にはイドリブ県中部の政府軍大拠点の覆滅に成功した。政府軍はイドリブ県において、県都イドリブ市とハマー県西北部を結ぶ交通幹線周辺を掌握し、回廊状の支配地域を形成していたが、2015年2月に、アルカーイダ系武装勢力は大攻勢を実施してイドリブ市を攻略。内戦開始後二つ目となる県都陥落となった。政府軍は、イドリブ市を回復するため精鋭部隊を投入するも、拠点を次々奪われ、最終的にイドリブ県西部の要衝まで喪失するなど2012年以来の大敗北を喫し、イドリブ県における支配地域を殆ど喪失した。アルカーイダ系武装勢力はイドリブ市を中心としてイドリブ県やアレッポ県西部一帯に勢力を扶植しており、当該地域を根拠とするイスラム首長国の建設を試みているとされる。


ただし、北部および東部とは対照的にダラア県を中心とする南部地域は、2014年中においても依然として自由シリア軍を中心とする勢力が有力であった。政府軍は県都ダラア市の北半を確保していたが、東・西・南側を反体制武装勢力に制圧され半包囲の状態にあり、首都ダマスカス方面へ延びる交通幹線周辺を掌握することによって回廊を形成し、戦線を維持していた。シリア政府軍はダラア県における状況を改善すべく、同年夏頃より、県西部諸都市の攻略へ向けた作戦を発起し、劣勢を挽回しようとしたもののこれに失敗。逆に反政府武装勢力による総反攻に直面するに至った。2014年秋ごろに開始された反政府武装勢力の攻勢は、南部地域全域に及ぶ広範なもので、南部の反政府武装勢力が総力を傾けた本攻勢により、政府軍はダラア県の西部およびヨルダン国境地帯における統制を喪失。ダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線も圧迫を受けるに至った。更に反体制武装勢力は、残る回廊部の遮断とダラア市政府支配地区の攻略に向けた行動を強めたが、回廊部および市街は政府軍の重防御地区であったため消耗戦の様相を呈し始め、回廊遮断を目前にして反体制武装勢力は攻勢限界に達し、冬前に攻勢は収束した。南部における戦線崩壊を回避した政府軍であったが、先の攻勢によって、反体制武装勢力がダラア県西北からダマスカス郊外県西南部一角にかけて突出部を形成し、これによるダマスカスとクネイトラ県を結ぶ交通幹線の圧迫が続いていた。これを放置することはヘルモン山南麓や西ゴータ地域の反体制派支配地域への打通を許すことにも繋がりかねず、さらにダマスカス南外縁の主防衛線が危機に陥る可能性も孕んでいた。状況を改善すべく政府軍による攻勢が翌2015年1月に発起された。本攻勢は、反体制武装勢力の突出部を消滅させて脅威を排除したうえで、さらにヒズボラ等との協力のもとに南下、一挙にダラア県西部北半における政府軍の主導権奪取を目論む乾坤一擲の作戦であった。だが、政府軍は突出部を消滅させ、クネイトラ方面への交通幹線に対する圧迫を解消するなど一定の成果を得たものの、それ以後は戦果低調であり、ヒズボラの支援を受けながらもダラア県西部への進攻は反政府武装勢力により拒止され、戦局の挽回には至らなかった。2014年後半に南部地域で実施された反体制武装勢力の攻勢は、政府軍を苦境に追い込んだものの、別の結果も生まれた。それは攻勢の規模の大きさゆえに反体制武装勢力自身の戦力をも激しく耗弱・疲弊させたことであった、このことは結果的に南部の反体制武装勢力内におけるアルカーイダ系武装勢力の存在感を高めるなど重大な影響を及ぼした。


先述のように、2014年後半以降、ISILやヌスラ戦線などイスラム過激派の勢力拡大傾向は次第に強まりを見せたが、政府軍は2013年から2014年にかけて自身が実施した大規模作戦や2014年後半の反体制武装勢力による大攻勢への対処などによって、戦力を著しく損耗させており、兵力不足が依然にも増して顕在化しつつあった。このような状況下で政府軍は、国内西部要地・要線の確保による持久戦を指向している。2015年3月のイドリブ市陥落後、同年5月初旬の演説においてアサド大統領自身が大敗を認めた他、7月下旬の演説においては、シリア全土に対する支配を放棄しないことが原則であると断ったうえで、全ての地域における同時勝利は不可能であることを認め、戦略上重要であり維持されるべき地域に軍部隊を集中し、一部地域を放棄せざるを得ない場合もあると述べるなど、西部地域重視の傾向は益々強まっている。
具体的には、戦略物資搬入の拠点であるラタキア・タルトゥース・バーニヤースなどの地中海沿岸諸都市および国内交通の要衝であるホムスやハマー・スワイダー・サラミーヤをはじめとする政府支持基盤の盤石な都市に加えて首都ダマスカスならびに北部最重要都市アレッポなど、西部の各主要都市の防衛と各都市間を結ぶ兵站線の保持が最も重視されており、政府軍はそのために戦力を傾注している。これらの都市群およびその隣接地区は、沿海部のアラウィー派を始め、キリスト教徒、ドゥルーズ派、イスマーイール派など、シリア・バアス党とその衛星政党の支持基盤である少数宗派の集住地である他、スンニ派世俗層も多い地域である。
また、政府軍の方針に策応したヒズボラは、レバノン・シリア国境に広がる山岳地帯を拠点に両国を跨ぐ形で活動し、ホムス・ダマスカス間の交通幹線に対する脅威となっていたISILとヌスラ戦線に対し、大規模作戦を発動して両勢力を減殺、交通幹線に対する脅威を排除した。北部ならびに東部においてISILやアルカーイダ系武装勢力が着実に地歩を固めつつあるのに対して、政府軍はレバノン国境地帯に残存する未奪還地域の統制回復に向けた行動を活発化させ、2015年秋までに所期の目的を達した。また、北部のロジャヴァ・クルド人自治区に対してはトルコ軍がPKK(クルディスタン労働者党)の過激派が潜んでいるとしてテロリスト制圧目的に軍事進攻するなど、入り乱れた模様となっている。さらに、同年9月30日よりロシア軍はシリア政府の要請を受けてシリアへの本格的な軍事介入を開始[57]。ロシア軍の航空支援やイラン革命防衛隊の地上支援を受けた政府軍は2015年秋以降、アレッポ市郊外やラタキア県北部における攻勢を強化しており、アレッポ市郊外では2013年以来、反体制武装勢力やISILによって包囲をうけてきた航空基地や小都市の解囲作戦に成功し、反体制武装勢力の補給路を一部遮断した。政府軍はさらに、県都イドリブや孤立状態にある政府支配地区が所在し、反体制武装勢力の補給拠点が存在するイドリブ県北部を指向しており、当該地域の東西にあたるアレッポ県およびラタキア県から接近を試みている。政府軍の攻勢に対し、ISILはアレッポ市とサラミーヤ市とを結ぶ交通幹線への攻撃を強め一時的にこれを遮断した。


ロシア軍の空爆に対し、米国やフランス、トルコをはじめとしたNATO諸国、サウジアラビアやカタールなどのスンニ派湾岸諸国は、ロシア軍の空爆対象はISILやアルカーイダ系武装勢力などのイスラム過激派のみならず、西側有志連合が支援する反政府武装勢力も含まれているとして、ロシアを強く非難しているが、一方では親欧米のエジプトや従来はアサド政権と敵対していたイスラエル、キリスト教の総本山であるバチカン市国がイスラム過激派をアサド政権以上の脅威とみなし、ロシア軍の空爆を支持又は黙認している。さらに、英仏もISILに対する空爆を本格化させているなど、シリアを舞台に各国が思惑が異なる中で勢力図争いを行っており泥沼の紛争状態が続いている。冷酷で残忍なISIL(イラクとレバントのイスラム国)支配拡張と終わりの見えない内戦は大量のシリア難民を生み国際問題となっている。2015年7月には全人口2200万人のうち国外への難民は400万人に達している[58]


さらに、2017年10月のラッカ陥落以降ISの攻勢は終焉を迎えたものの、紛争は複雑な構成となっており、2016年12月のアレッポでの戦いを制したアサド政権がロシア軍、イラン軍、ヒズボラ等の支援により一部地域を除いて国土の大半を掌握、イランとロシア、ヒズボラに支えられたシリア政府軍、英米仏を中心としたNATO軍とサウジアラビアやその同盟国(有志連合)に支えられるアルカーイダを含んだ反政府イスラム過激派、そして、イドリブのイスラム過激派の反政府武装勢力を支援してシリア北部のアフリーンに侵攻しクルド人勢力を叩くトルコ軍、アサド政権へは中立的な立場を取り、米露双方から支援を受けIS壊滅に大きく貢献し、トルコ軍や反政府軍とも戦うクルド人勢力、さらに欧米と同盟国として共同歩調を取りつつもアサド政権を支援するイランやヒズボラへ越境攻撃するイスラエル軍の5つの勢力によるプロパガンダや偽造工作等の情報戦を含んだ熾烈な争いとなっている。2018年2月には7年にわたり反政府イスラム過激派の大規模な拠点であったダマスカス近郊の東グータ地区を政権軍が掌握[59]。結果的に、この事がアサド政権による7年に渡る戦争の勝利が濃厚となった。しかし、その直後にシリア政府軍による化学兵器による攻撃があったと東グータを支配する反政府イスラム過激派(ホワイト・ヘルメット)が主張したことで、英米仏によるアサド政権打倒を目指す軍事攻撃を呼び込むことでいまだに紛争の解決は遠のき、迷宮化しており、シリアを舞台とした米露の軍事対決となれば第三次世界大戦を誘発しかねない危機となっている。



国民




伝統的な衣装に身を包んだダマスカスの市民



人口2200万人のうち、2015年時点では約400万人が難民として国外へ流出している。シリア難民の最多流出国はトルコ(213万人)、次いでヨルダン(140万人)、レバノン(119万人)となっている。



民族


住民は、アラブ人が90%で、クルド人が8%ほど、その他にアルメニア人、ギリシャ人などがいる。アラブ人の中にはシリア語を母語とする部族もいるため民族性も多様化している。少数民族としてネストリウス派(アッシリア人)、北コーカサス系民族、南トルコ系民族もいる。



言語



言語は現代標準アラビア語が公用語である。その他にもアラビア語の方言(レバント方言(英語版)、イラク方言、ナジュド方言、北メソポタミア・アラビア語(英語版))、シリア語(典礼言語として)、クルド語、アルメニア語、アゼルバイジャン語、現代アラム語(英語版)(アッシリア現代アラム語、現代西アラム語)が使われる。さらにフランス委任統治領時代の影響でフランス語も使われているが、隣国レバノンと異なり一部エリート層の使用に限られるなど通用度は高くない。



宗教



























  スンナ派アラブ人 (60%)


  スンナ派クルド人 (8%)


  アラウィー派アラブ人 (13%)


  キリスト教徒アラブ人 (12%)


  ドゥルーズ派アラブ人 (3%)


  イスマーイール派アラブ人 (2%)


  十二イマーム派アラブ人 (1%)


  その他 (1%)
























宗教構成(シリア)

イスラム教諸派
  
87%
キリスト教諸派
  
12%


宗教は、イスラム教スンナ派が約70%。他のイスラム教の宗派(アラウィー派、ドゥルーズ派、イスマーイール派、十二イマーム派などが併せて約20%、これらの少数宗派は全てシーア派と看做す場合もあるが、アラウィー派とドゥルーズ派をシーア派に含めない場合もある。


系統不明瞭なアラウィー派が現在、シーア派の一派として扱われるのは、1973年にシリアの大統領ハーフィズ・アル=アサドの働きかけにより、レバノンの十二イマーム派のイマームであったムーサー・アッ=サドル(英語版)が、アラウィー派をシーア派の一派と看做すファトワーを発したことによる。そして、ドゥルーズ派はイスマーイール派から分派した宗派である。しかし、アラウィー派とドゥルーズ派の教義はグノーシス主義や神秘主義の強い影響を受けており、イスラーム教とさえ看做されない場合もあるなど、スンニ派や十二イマーム派からの厳しい異端視に晒されてきた。また、イスマーイール派もオスマン帝国時代に弾圧を受けた。


キリスト教(非カルケドン派のシリア正教会、東方正教会のアンティオキア総主教庁、東方典礼カトリックのマロン典礼カトリック教会など)は約10%である。


その他には、アレヴィー派やヤズィード派などの少数宗派があり、アレヴィー派はトルコマン人によって、ヤズィード派はクルド人によって信仰されているが、併せて約1パーセントほどである。シリア国内の人口比で約8%を占めるクルド人のほとんどはスンニ派を信仰しており、ヤズィード派を信仰するものはごく一部である。


元来、都市部に住む富裕層にはスンニ派が多く、これらの名望家層はオスマン帝国時代から政治エリートとして大きな影響力を誇っていたが、第一次世界大戦後、新たな支配者としてシリアを委任統治したフランスは、スンニ派有力者たちの影響力を押さえ、統治を円滑化するために、少数宗派を優遇し、スンニ派以外の諸宗派に政治や軍事への門戸を開いた。
また、同じスンニ派であっても都市部の有力者達は相互に姻戚関係で結びつき、その特権意識から農村部に住む人々や貧困層を「大衆」と呼んで蔑むなど、大きな格差が存在していた。
都市部に住むスンニ派エリート層によって政治から排除されてきた人々は、シリア独立後、バアス党や共産党などの左派政党の政治運動へ支持・共鳴を示した。左派政治組織の支持拡大に対して、保守的な人々はムスリム同胞団との結びつきを強めた。



教育






アラブ諸国の中では高水準の教育制度がなされてきた。



交通



鉄道


シリア国鉄が運行されており、路線総延長は2,423 kmに及び、アラブ諸国の中では数少ない鉄道網が整備されている国である。ダマスカス鉄道駅からトルコのイスタンブールへの直通列車も運行されていた。しかしながら2012年以降は内戦で運行停止状態となっている。



空港


ダマスカス国際空港、アレッポ国際空港、バーセル・アル=アサド国際空港(ラタキア空港)などの国際空港があり、シリア・アラブ航空によって運航されている。



文化


古代より文明が栄えた土地のため、また各文明の交流地点のため高度な文化が発達した。国内の各地にアッシリア帝国時代の遺跡が点在する。また西洋風の町並み・服装が浸透している。


また、反米・反イスラエル国家であるが、首都ダマスカスにはケンタッキーフライドチキンの店舗が存在する[60]



世界遺産




パルミラ遺跡



シリア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する[61][62]



  • 古都ダマスクス

  • パルミラの遺跡

  • 古代都市ボスラ

  • 古都アレッポ


  • クラック・デ・シュヴァリエとカラット・サラーフ・アッディーン

  • シリア北部の古代村落群



スポーツ


オリンピックのシリア選手団は1948年ロンドンオリンピックから参加した。以後、中東戦争なども起こり、参加と不参加が続いたが、1980年モスクワオリンピック以降は参加を続けている。ただし、冬季オリンピックへの参加はまだない。



祝祭日























































































日付
日本語表記
現地語表記
備考

1月1日

元日
عيد راس السنة الميلادية


3月8日
3月8日革命記念日
ثورة الثامن من اذار

バアス党による権力掌握を記念する

3月21日
母の日
عيد الأم


4月17日

独立記念日
عيد الجلاء

フランス軍のシリア完全撤退の日を祝う


グレゴリオ暦のイースター
عيد الفصح غريغوري
新暦のイースター。移動祝日


ユリウス暦のイースター
عيد الفصح اليوليوسي
移動祝日

5月1日

メーデー
عيد العمال


5月6日
殉国者の日
عيد الشهداء

1916年、オスマン帝国のアフメト・ジェマル・パシャが
シリア民族主義者多数を処刑した記念日

10月6日
10月解放戦争記念日
حرب تشرين التحريرية

第四次中東戦争の開戦記念日

12月25日

クリスマス
عيد الميلاد المجيد



犠牲祭
عيد الأضحى
移動祝日


断食明け大祭
عيد الفطر
移動祝日


預言者生誕祭
المولد النبوي
移動祝日


脚注


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  1. ^ abcde“World Economic Outlook Database, October 2015”. IMF (2015年10月). 2016年2月17日閲覧。


  2. ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月28日閲覧。


  3. ^ 牧英夫編著 『世界地名の語源』 自由国民社 1980年12月20日発行 12ページ


  4. ^ 何のために米国はシリア北部で軍事基地を建設? 専門家の見解(スプートニク通信2017年08月04日配信記事)


  5. ^ シリア大統領、「穏健」反体制派というのは作り話(スプートニク通信2016年10月07日配信記事)


  6. ^ Zvi Barel. (8 February 2012). Assad takes a page out of Russia's book in his war against rebels Haaretz. Retrieved 9 February 2014.


  7. ^ “Anniversary of Establishing Syrian-Cuban Diplomatic Relations Celebrated”. Syria Times (2016年8月15日). 2017年2月1日閲覧。


  8. ^ “Presidential Affairs Minister Offers Condolences to Cuban President over Passing of Fidel Castro”. Syria Times (2016年11月30日). 2017年2月1日閲覧。


  9. ^ “Presidents Assad and Maduro Phone Call”. Syria Times (2017年1月30日). 2017年2月1日閲覧。


  10. ^ Letter from President Bashar Assad to Nicaraguan President Daniel Ortega SYRIA 360°. 25 November 2012. Retrieved 1 February 2017.


  11. ^ “Brazil.. Dialogue is Only Way out of the Crisis in Syria”. Syrian TV (2013年4月6日). 2015年7月1日閲覧。


  12. ^ “الوكالة العربية السورية للأنباء - Syrian Arab News Agency”. Sana.sy. 2014年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月21日閲覧。


  13. ^ “India forming international will to combat terrorism imperative”. Syria Times (2013年11月22日). 2014年2月9日閲覧。


  14. ^ “Syrian TV - India stresses need for international will against terrorism”. Syrian TV -India stresses need for international will against terrorism. 2015年2月21日閲覧。


  15. ^ “Ahead with Efforts to Combat Terrorism and for a Political Solution to Crisis”. Syria Times (2016年1月12日). 2016年1月12日閲覧。


  16. ^ “Al-Moallem briefs the visiting South African delegation on escalating terror threats and countries’ involvement | Syrian Arab News Agency”. Sana.sy (2015年6月25日). 2015年10月9日閲覧。


  17. ^ “President al-Assad warns of the "international problem" of terrorism, refers to BRICS role to unify anti-terror efforts | Syrian Arab News Agency”. Sana.sy (2015年6月27日). 2015年10月9日閲覧。


  18. ^ “Tanzania Supports Syria in Fighting Terrorism”. Syrian TV (2013年4月29日). 2015年10月17日閲覧。


  19. ^ “President al-Assad Sends Letter to President of Pakistan Delivered by Mikdad”. Syrian TV (2013年4月29日). 2015年10月17日閲覧。


  20. ^ “Armenian President: Syria will defeat terrorism | Syrian Arab News Agency”. Sana.sy (2015年4月23日). 2015年10月9日閲覧。

  21. ^ abcd“Representatives of seven countries to supervise Syria elections”. Irna.ir. 2015年2月21日閲覧。


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  23. ^ “"True Friends of Syria" condemn terrorism in the Arab nation - laInfo.es”. Lainfo.es. 2015年2月21日閲覧。


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  25. ^ “PressTV-Syria embassy in Kuwait resumes services”. Presstv.ir. 2015年2月21日閲覧。


  26. ^ “Syria approves credentials of new Sudanese ambassador”. SUDAN TRIBUNE. 2017年9月18日閲覧。


  27. ^ “Omani Embassy in Damascus Celebrates National-Day”. Syria Times (2014年11月20日). 2014年11月21日閲覧。


  28. ^ “Syrian and Omani FMs agree it’s time for concerted efforts to end crisis in Syria”. SANA (2015年8月6日). 2015年8月8日閲覧。


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  31. ^ http://syriaarabspring.info/?p=30190


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  34. ^ http://www.jamestown.org/fileadmin/JamestownContent/TM_007_3.pdf


  35. ^ http://www.al-monitor.com/pulse/politics/2015/11/baath-party-iraq-amendments-shiites.html


  36. ^ 安蒜泰助『今のロシアがわかる本』三笠書房 知的生きかた文庫、2008年4月10日発行(147ページ) ISBN 978-4-8379-7668-4


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  54. ^ シリア政府、日本大使を「好ましくない人物」に指定 日本経済新聞(2012年6月7日)2018年1月21日閲覧


  55. ^ “シリア国民の3分の2は極貧、内戦4年目で経済縮小が加速=報告”. ロイター (2014年5月29日). 2016年2月17日閲覧。


  56. ^ “Report of the Commission Entrusted by the Council with the Study of the Frontier between Syria and Iraq”. World Digital Library (1932年). 2013年7月8日閲覧。


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  58. ^ “シリア難民、400万人を突破”. 国際連合難民高等弁務官事務所. (2015年7月9日). http://www.unhcr.or.jp/html/2015/07/pr-150709.html 2015年9月5日閲覧。 


  59. ^ “シリア反体制派、撤退開始か 首都近郊陥落へ”. 日本経済新聞. (2018年4月2日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO28904820S8A400C1FF1000/ 2018年4月14日閲覧。 


  60. ^ http://commons.wikimedia.org/wiki/File:KFC-Damascus.JPG


  61. ^ http://whc.unesco.org/ja/list/?iso=sy&search=& 世界遺産センター-シリア


  62. ^ http://www.unesco.or.jp/isan/list/list_3/ 世界遺産一覧-五十音順国別リスト(サ行)[リンク切れ]




関連項目



  • シリアの世界遺産

  • シリア関係記事の一覧

  • シリアの政党

  • ハーフィズ・アル=アサド

  • オデッサ・ファイル

  • ISIL



外部リンク






日本政府


  • 日本外務省 - シリア (日本語)

その他


  • JCCME - シリア

  • 日本シリア親善協会

  • シリアの建築

  • シリア・アラブの春 顛末記:最新シリア情勢












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