引退
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引退(いんたい)は、官職や地位などから退いたり、スポーツ選手などが選手としての身分を離れたりすることである。プロスポーツ選手の他、スポーツを行っている学生・生徒らが最終学年となって高校・大学受験・就職活動などで試合出場の機会が無くなり、所属するクラブや部活動から離れることも引退と呼ばれる。
プロスポーツの場合、あらかじめ引退が予告されることがあり、その場合、引退試合とされることがある。大相撲の引退においては取組としての引退試合はなく、引退決定後の断髪式が有名である。
軍隊の場合は「退役」と呼ぶ。
目次
1 スポーツ
1.1 プロ野球
1.1.1 任意引退
1.1.2 自由契約
1.1.3 失格選手
1.1.4 支配下選手登録抹消
1.2 大相撲
1.3 サッカー
1.4 プロバスケットボール
1.5 プロボクシング
1.5.1 引退届
1.5.2 37歳定年制
1.5.3 引退勧告
1.5.4 ライセンス剥奪
1.6 競馬
1.7 プロレス
1.8 フィギュアスケート
1.9 プロゴルフ
2 政治
3 将棋
4 囲碁
5 芸能界
6 芸術家
7 その他の引退
8 慣用句
9 脚注
9.1 注釈
9.2 出典
10 関連項目
スポーツ
プロ野球
プロ野球選手が引退する際、その手続きには次のような種類がある。ただし、引退のためではなく、移籍、傷病の治療などを前提にこれらの措置が執られる場合がある。
任意引退
日本プロフェッショナル野球協約(以下、野球協約)の規定により契約期間中または保留期間(契約更改のための期間)中、選手の希望により[1]行う引退のことを言う。
現在の任意引退の場合、日本のみならずNPBと契約協定を結んでいる海外のプロ野球組織(MLB、KBO、CPBL、CBL)に所属することが出来なくなるが、野茂英雄がメジャーリーグに移籍した際には、まだ他国のプロ球団については規定がなかったため、日本において任意引退選手となって移籍している(国内他球団に自由移籍させないための措置)。この他に練習生制度がありかつ支配下登録選手が60人までしか認められなかった時期には、長期間の故障の治療期間や、外国人枠を超過した際に出場の見込みがなくなった外国人選手を登録外扱いで残留させる場合や、マイナーリーグに野球留学をする際に任意引退選手公示されることは珍しくなかった。日本ハムの河野博文は、ケガによる一時的な任意引退選手公示を戦力外通告だと勘違いし失踪して騒動となったが、この騒動も一因となって、練習生制度廃止[2]および支配下登録選手70人につながった。
任意引退した選手が現役に復することも可能であるが、原則として任意引退は選手の希望によるものであるため、プロ野球界に復帰する場合には最終所属球団に復帰しなければならず、他球団に復帰する場合には最終所属球団の許可が必要である。
また、実質的な戦力外通告など、必ずしも本人が望まない引退であっても、翌年にチームスタッフ(コーチ、バッティング投手、ブルペン捕手、スカウト、スコアラーなど)として契約することが決まっている場合などでは、他球団と交渉させないために任意引退選手公示する場合がある。そのような場合でなくても、それなりの実績を残した選手で本人が他球団での現役続行を望まない場合などは、チームへの貢献者に対する球団側の配慮として(「クビ」というニュアンスの強い自由契約ではなく)任意引退にする場合もある。
なお、1999年の規約変更によりプロ野球選手であった者がアマチュア野球の選手・指導者に転身するためには最終所属球団からの自由契約となる必要があるため、任意引退後に改めて自由契約公示がなされる場合がある。そのような選手には1979年の外木場義郎(2004年に広島東洋カープから自由契約公示)、1985年の定岡正二(2006年に読売ジャイアンツから自由契約公示)、2005年の初芝清(2006年に千葉ロッテマリーンズから自由契約公示)などがいる。さらに2009年の野球協約改正により、任意引退公示の年の12月2日より3年間経過した場合は自由契約扱いとなることとなった(2008年以前の任意引退選手には適用されない)[3]。
自由契約
野球協約の規定により、球団との契約を解除されたり、球団が保有権を失った選手のことを「どの球団とも自由に契約できる選手」という意味で自由契約選手という。この自由契約選手になることそのものが即座に引退に直結するものではなく、いずれの球団であっても自由に契約を結べる選手であるということに過ぎない。しかし、いずれの球団とも契約を結べなかった場合には、実質的に引退となり、自由契約公示後に選手側が契約をあきらめて引退を発表することもある。ただし任意引退公示に切り替わるわけではない(黒木知宏や田口壮など)。なお、ひとたび契約締結できずに翌シーズンに入り、実質的に引退となった場合であっても、いずれかの球団と契約を結ぶことで現役に復することもある(栗山聡は、2003年シーズン終了後に中日ドラゴンズから自由契約公示された後、2004年シーズン途中にオリックスで復帰した)。
一番多い形態としては保留選手名簿に記載されないことによる自由契約である。日本プロ野球においてはシーズン終了後に球団が次年度も引き続き契約する意思のある選手のリストである保留選手名簿をコミッショナーに提出し、12月2日にコミッショナーはこれを公示するが、この名簿から外れた場合、自動的に自由契約選手となる。なお、各球団はこの保留選手名簿の提出、コミッショナー公示に先立って当該選手に対して次年度は契約を結ばないことを告げる戦力外通告を行っている。これは日本プロ野球選手会との協定によるもので、保留選手名簿の公示される12月2日以前にトライアウト、入団テストなどが行われることが通例であるため、公示までに契約を結ばないことを明らかにすることで当該選手が翌年も他球団に所属できる可能性を残すためである。
契約更改の際に減額制限を超えた年俸が提示された場合、選手側からその契約を拒否することが可能でそのような場合でも自由契約となる。
また、自由契約選手公示を行うことはシーズン中であっても可能であるが、その場合にはトレード禁止期間であってもこの自由契約選手公示を行うことで実質的にトレードが行えるようにならないよう、自由契約選手公示に先立ってウエイバー公示[4]される。この公示後の7日間、下位球団から順に当該選手の契約譲渡を受ける権利を有することになり、どの球団も契約する意思を示さなかった場合に限って自由契約選手となる。
なお、英語においては自由契約選手もフリーエージェント(Free Agent)と表記されるが、これはいわゆるフリーエージェント制度によるものとは別個のものである(選手が「自分の意志で」自由契約を宣言できるのがフリーエージェント制度)。
失格選手
失格選手とは、野球協約により日本野球機構(NPB)の構成員たる資格[5][6]を失った選手を言う。失格選手には有期、無期、及び永久の三つがあるが、このうち永久失格選手は原則として処分が永久のもので、無期失格選手となった場合も資格を失っているため、必然的に退団を余儀なくされ、長期間のブランクになるため事実上の引退となる。
永久失格となる要件としては、所属球団を故意に敗れさせる敗退行為(八百長)などが挙げられており、これにより引退した例としては1969年から1971年の間に起こった黒い霧事件によって永久失格となった6人の選手(下記参照)がある。永久失格は一般には「永久追放」といわれることが多い。
なお、2005年までは永久追放された場合には現役に復する余地がなかったが、2005年(平成17年)の野球協約改正により、処分より15年が経過し、改悛の情が認められる者については処分を未来に向けて解除する条項が新設された。このため現在では失格選手となった場合であっても現役に復する余地はあるが、この規定自体、黒い霧事件で永久失格となった池永正明について当時の所属球団西鉄ライオンズや後継となった西武ライオンズ、福岡ソフトバンクホークスのOBやファンから名誉回復運動が起こっていたことに対応したもので、これにより現役に復した選手はいない(現実問題として、15年のブランクを経て現役復帰できる実力を維持しているケースはありえず、事実上池永ら当該事件関係者が再びプロ野球に関与出来るようにするための条項である)。もし今後新たに処分を受ける選手が現れた場合、その解除に向けたアピールをする手段は極めて限られる。
また、無期失格の選手も2005年の改正により、5年の経過後に永久と同様当人の申し出があればコミッショナーの判断により失格を解除できる。ただし無期の場合は後に期限が設けられる余地がありこれによらずとも復帰できる。ただし解除された実績は無い。
無期または永久の失格処分を受けた選手は任意引退同様NPBだけでなく、NPBと契約協定を結んでいる海外のプロ野球組織とも契約を結べない。また処分時の所属球団が保有権を有しているため、国内独立リーグのBCリーグ、四国アイランドリーグplus、日本野球連盟が管轄する社会人・クラブチームといったアマチュアへの新規登録、日本学生野球協会によるプロ経験者を対象とした学生野球資格回復制度研修会の受講も事実上できなくなる[7]。さらに、新聞社専属の野球評論家、放送局専属の野球解説者についても、失格選手となった者は採用しないという紳士協定がある。NPB管轄外のマスターズリーグでの活動は可能であるが、2010年(平成22年)以降リーグとしての活動が事実上休止状態となっている。
- 過去に適用された選手
選手名 | 理由 | 処分内容 | 備考 |
---|---|---|---|
永易将之 | 八百長への関与 | 永久追放 | |
池永正明 | 永久追放 | 35年後に解除、球界復帰 | |
与田順欣 | 永久追放 | ||
益田昭雄 | 永久追放 | ||
小川健太郎 | 永久追放 | ||
森安敏明 | 永久追放 | ||
高山忠克 | 失踪 | 無期限失格 | |
バール・スノー | 無断帰国 | 無期限失格 | |
小林浩二 | 不祥事(犯罪) | 無期限失格 | |
福田聡志 | 野球賭博への関与 | 無期限失格 | |
笠原将生 | 無期限失格 | ||
松本竜也 | 無期限失格 | ||
高木京介 | 1年間の有期失格 | 1年後に規定通り解除、前所属の巨人と育成契約。2018年3月に支配下選手として復帰。 |
類似の概念に資格停止選手がある。
支配下選手登録抹消
支配下登録にある選手がそのまま死去した場合、支配下登録を抹消する。これは当該選手がすでに死去しているための措置であり、引退とはやや趣旨の違うものである(相撲やプロレスと異なり「各球団の支配下登録選手名簿」が存在するため、それから抹消する手続きが必要となるもの)。
大相撲
大相撲においては、現役力士として取組に挑むことを辞めても、引き続き角界に身を置く場合を「引退」と表現し、現役を退き角界に残らない場合や、親方が停年前に角界から離れる場合を「廃業(はいぎょう)」と呼んでいた。
公式には1996年(平成8年)11月17日以降、その後の去就に関わらず現役を退くことを「引退」、親方を停年前に辞めることを「退職」と表現するように改めた。そのきっかけは、同年10月に現役中だった旭道山和泰が突如衆議院議員立候補を決意、当時の境川日本相撲協会理事長に廃業届を提出した時の「廃業」の語感・イメージが悪かったからとされる。なお、このほかにプロ野球の失格選手に相当するものとして「解雇」「除名」がある。解雇は理事会の決定によって可能で、近年では琴光喜啓司・若ノ鵬寿則らの例があるが、除名は2014年までは全年寄・力士代表・立行司の四分の三以上の賛成、それ以後は外部有識者と正副理事職に就いていない親方の中から選ばれた代表者で構成する評議員会の特別決議が必要で戦後適用された例がない。戦前までは脱退や素行不良などを理由に除名されるケースも珍しくなかったが、当時は一定期間を経て除名処分が解除されて現役復帰を果たすことができる[8]など現行制度と比べて格段と穏当な処分であり、戦前までの除名は公式の懲戒処分として記録されていない。
幕内を30場所以上務めた力士に対しては引退相撲が行われる。力士の後援会などが主催し、ふれ太鼓、相撲甚句、髪結い実演、横綱土俵入り等、1日に渡って盛大な催しとなる。その内最も有名なものが断髪式で、力士の大銀杏を交替で多数の関係者・親族・知人などが少しずつ鋏で切り取り、最後に師匠が止め鋏を入れて完全に切り取る儀式である。また横綱の場合は断髪前に最後の横綱土俵入りを行う。また、現役時代の好敵手や息子を相手にして実際に相撲を取ることもある。なお、プロ野球に見られるような「引退を公表した上で『引退試合』と銘打った公式戦に出場」ということは大相撲では滅多にない[9]。これは「死に体になった人間が出るのは相手に失礼」ということからであり、大鵬や小錦などの例が有名である。琴ノ若や潮丸のように師匠の定年をもって引退して部屋の後継者になることが確定している場合でも、実際に引退表明するまでは決して「師匠の定年で引退」とは公言しないのが普通である。
行司でも定年退職すると引退相撲が行われることがある。特に立行司は軍配を次の立行司に継承させる儀式を行うために開催することが多い。
なお、大相撲の場合は他のスポーツ競技と異なり、引退届を提出すると二度と現役に復帰することはできない[10]。これは1951年末に増位山大志郎が現役復帰を希望した際に「引退相撲を終えているのに筋が通らない」と力士会で否決され、現役復帰が認められなかった事例によって証明されている。但し、逆を述べると、引退届が提出されていない間は(極端な例として、スカシ行為に及び音信不通になっても)現役力士を続行する権利は残り、一度は関係者に引退の意思を示したものの、引退届が提出される前に撤回し現役を続行した例も多々存在する。
関取及び元関取が引退した場合は、即日発表され、その日に取組が組まれていた場合は不戦敗となるが、その日から先は休場と扱われず、星取表も記録されない。対して最高位が幕下以下の力士の場合は、場所前や場所途中に引退した場合であってもその時点では公式発表されず、その時点以降は星取表も休場扱いとなった上で、番付編成会議後にまとめて発表される。
サッカー
サッカーの場合、引退と定義する一つのケースとして日本サッカー協会(JFA)への選手登録を取り消した場合が挙げられる。これは野球や相撲、ボクシングと違いプロとアマチュアの垣根が低いためであり、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)以外の国内クラブでの活躍により再びプロ選手となることもよくあるからである。
選手が引退をするケースには、本人の意思により契約を更新しない場合と、所属クラブから11月末までに来季契約をしないという通知(いわゆる「0円提示」)が出される場合がある。前者はプロ野球における「任意引退」、後者は「自由契約」に類似するが、保有権は生じない。
選手によってはその後、日本サッカー協会による「移籍リスト」に掲載されてトライアウトなどにより自由に所属先を探すことになるが、リストの有効期限内に引退となるケースも多い。また、協会への登録は残したまま所属不定のために事実上「引退」となるケースもあり、翌年のトライアウトには「所属なし」の選手として参加することも多く見られる。
プロバスケットボール
2016年に発足したB.LEAGUEでは「自由交渉選手リスト」と呼ばれるリストが存在する。この自由交渉選手リスト入りすることはいずれのクラブと選手契約を結んでいない状態を意味するが、引退する場合もこのリストに入ることが必要になる。リスト入り後にいずれのクラブと選手契約を結ばない意思を表明して引退となる。
かつて存在した日本バスケットボールリーグ(JBL)及び日本バスケットボールリーグ2部機構(JBL2)には「引退選手リスト」が存在し、同リストに登録された時点で引退とされていた。また、これとは別に存在し「移籍選手リスト」に登録されて移籍先が決まらなかった場合に引退とされていた。ただし引退選手リストに登録されても実業団やクラブチームなどでのプレー、海外移籍など現役を続ける場合もあった。なお、引退選手リストに登録された場合、最終所属を除いたJBL及びJBL2のチームに1年間は選手登録できないことになっていた。
プロボクシング
日本のプロボクサーの場合、日本ボクシングコミッション(JBC)によるボクサーライセンスが失効された時点で引退とされる。ただしあくまで国内でのライセンス失効(国内引退)であり、海外で資格を得れば当該国で選手活動を行うことができる。そのため、JBCライセンスを失効しても海外で現役を続行する選手も少なくない(山口賢一、井岡一翔、高野人母美など)。
日本のプロボクサーがライセンス失効となるケースは以下の通り。
引退届
選手自らの意思で引退する場合に適用。大半のボクサーはこれに該当する。所属ジムに引退の意思を告げた後に、JBCが定める「引退届」をジム経由でJBC事務局に提出し、それが受理されてライセンス失効となる。成績不振や傷病などを理由にクラブオーナーあるいはマネージャーから引退を勧告されることもあるが、この場合も引退届提出が原則となる。ただし、ほんの一部ではあるが、引退届を提出せず期限を待って自動的に失効となった選手も存在する。また、このルールで一度ライセンス失効になった場合でも、JBCがライセンス再付与を認めれば現役復帰が可能となり、再度プロテストで合格して現役復帰した選手も存在する。
37歳定年制
1980年代に規定された。原則的に37歳の誕生日で自動的にライセンスが失効される。世界王座経験者では辰吉丈一郎(国内引退)、内藤大助、富樫直美がこれを適用した。
- 2001年のルール一部改正により、現役のチャンピオンは王座から陥落するまで、また、トーナメント戦に出場している者はそのトーナメントで優勝・敗退するまでライセンスの失効は猶予される(最初に適用された選手は寺地永)。
- 2003年のルール一部改正により、WBA、WBC(2013年からはIBF、WBOも加わる。以下主要団体)認定の世界王者、OPBF認定の東洋太平洋王者、WBO認定のアジア太平洋(WBO-AP)王者(2017年より)、あるいは日本王者となったキャリアを持つ者、主要団体認定の世界タイトル挑戦経験者、そして現役の世界ランカー(主要団体の15位以内)及び日本ランカー(2016年より[11])に限り、37歳を過ぎても試合に出場することができる。JBC非公認王座(マイナー団体の世界王座、OPBF・WBO-AP以外の地域王座など)は適用外(JBC公認ユース世界王座は不明)。ただし、この特例の申請はその選手の最終試合から3年以内とし、コミッションドクターによる特別診断をパスすることが条件となる(特例を適用された選手には西澤ヨシノリ、リック吉村、嶋田雄大、湯場忠志、石田順裕、内山高志らがいる)。
- 2008年に女子の公認を始めた際に同年に限りプロテスト受験資格年齢を条件付で撤廃したため、猪崎かずみ、池山直ら37歳を超えてデビューした選手も存在する。また、2011年からは年齢不問でボクサーライセンス取得の権利が得られる「プロトライアルマッチ」が開始されており、つのだのりこらが37歳を超えてデビューしている。
- この年齢規定は日本国内の選手のみならず、海外から試合のため来日する選手にも同様に適用される。2018年に亀田興毅と対戦のため来日したポンサクレック・ウォンジョンカム(当時40歳)がJBCの年齢規定に抵触したため、公式戦としては行えずエキシビション扱いになった[12]。
引退勧告
脳内出血を患った選手や、網膜剥離を起こして完治せず再発の可能性が高い、あるいは失明のリスクがある選手など[13]、健康上重大な問題が発覚し、競技の継続が困難になった場合、JBCから引退勧告を受けることになる。コミッションドクターの検査結果を踏まえて勧告を出すことが多い。また、ライセンス更新時の健康診断で同様の異常が見つかった場合、ライセンスの更新がなされない。世界王座経験者では平仲明信、鬼塚勝也、竹原慎二、山口圭司、山中竜也がこれを適用した。
- 2013年3月までは網膜剥離の完治者であっても、厳重な医療診断の上で、世界戦または世界戦に準じる試合のみ出場が可能とされていた(辰吉丈一郎がこの特例を受けた)。
ライセンス剥奪
プロ野球における失格選手に相当する。JBCルールに違反し、日本国法律に抵触し、その他ライセンスを交付される資格に欠けると裁定された場合、JBCライセンス剥奪、あるいは更新時の場合は更新を認めないことになる。この場合は、ボクサーのみならずトレーナー・オーナー・プロモーター・マネージャー・セコンドなどJBCから給付されるすべてのライセンスが対象となる。
- これに該当する要件としては社会的に許されざる悪質な不祥事や不正行為・契約違反がある。不正行為としては八百長やドーピングなど。契約違反の一種として、JBCが認めていない選手権や他の格闘技の試合出場等に伴う処分もある(西島洋介山などが該当)。
- 剥奪には至らない要件に対する処分として無期限ライセンス停止がある。ピューマ渡久地の場合は後に処分解除され復帰を果たしたが、多くの場合は保住直孝や大串尋人のように処分解除とならず引退を余儀なくされる。
競馬
競馬の場合、日本では競走馬登録の抹消を届け出た時点で引退となる。仮に競走中の事故で死亡した場合でも、登録抹消を届けるまでは事務的には現役馬である。ただし、日本には日本中央競馬会(中央競馬)と地方競馬全国協会(地方競馬)という2つの組織があり、一方の登録を抹消して他方に転籍することはある。中央競馬では、未勝利であることが出走条件の競走が3歳11月頃の開催の段階で無くなるが、未勝利のまま上級クラスの競走に出走することは可能であり、また障害競走への転向や、地方競馬への転籍をすることもある。地方競馬では、勝利は得ずとも上位入線によって獲得した賞金額によってクラスが上がる。よって、いずれも勝利を得られないことによる自動的な引退は制度的には存在せず、また年齢による制限もない。
引退式については、
GIを勝利した馬
牡馬・騸馬で重賞を5勝した馬
牝馬・障害競走で重賞を4勝した馬- 以上いずれかの条件を満たした馬と合同で引退式を行う場合(モンテプリンスとシービークロスとの引退式が有名)
など、競馬発展に多大な功績を残した馬で希望すれば競馬開催日に行うことができる。ただし、引退式に掛かる経費は馬主の負担となる。また、重賞を1勝でもすればJRAにより公式サイトなどで競走馬登録を抹消した旨と今後について告知がなされる[14]。ただしJRAで競走馬登録を抹消した競走馬が海外で再デビューする例もある(シャドウゲイトやキングストレイルがその例)。
騎手の場合、騎手免許取消願が受理された時点で引退となる。騎手には定年制は設けられておらず、引退は体力の限界を判断した場合、成績低迷により騎手としての収入が少なく、生活の維持のためには比較的収入が安定する調教助手や調教師への転向が必要と判断した場合など、自らに委ねられる。
中央競馬の調教師には定年制が導入されており、70歳を過ぎた最初の2月末をもって調教師免許が自動的に失効となり、調教師としての資格を返上することになる(そのため内藤繁春元調教師は定年のない騎手に転向[15]しようと考え、騎手免許試験を受験したが、合格できなかった)。また実績に乏しい調教師は定年が間近になってくると、管理する馬が集まらなくなる傾向にあり、また、優勝劣敗の厳しい勝負の世界であるがゆえに、管理馬の成績不振を直接の原因として厩舎経営に行き詰まるなどして、そのため定年前に自ら調教師免許を返上して厩舎を解散、引退する調教師も少なくない。
地方競馬の調教師については、主催者により千差万別である(定年制の有無など、競馬場・競馬組合毎に規定が定められている)。
なお、競馬法に違反する事件・行為などにより、資格を管理する組織(日本中央競馬会・地方競馬全国協会)から騎手・調教師などの免許の取り消し(剥奪)の処分がなされ、資格を喪失する形で強制的に引退(あるいは管理団体からの解雇)となった場合には、引退という言葉が用いられることは少ない。特に競馬マスコミなどでは『競馬界追放』などの表現がなされ、これが引退を事実上意味するものとなる(田原成貴の逮捕と、河野通文の暴力団交際による調教師免許剥奪時にこの表現が使用されていた)。
プロレス
プロレスラーの引退は、事実上の引退でない場合が多い。エースであるレスラーなどは興行上休むことが許されないために、怪我などをしても無理を押して出場し続けることも多く、体調上の問題から引退を宣言する場合も多いが、引退後体調がよくなると復帰を宣言する場合が多々ある(プロレス以外でもテニスの伊達公子やボクシングのジョージ・フォアマン、F1のミハエル・シューマッハのように引退後復帰した例はあるが、プロレスに比べると非常に少ない)。そのために大仁田厚など複数回の引退宣言を行った選手もいる。引退時の興行は観客の入りもよく、ご祝儀的なことでもあるため、その後の復帰などについては批判も多い。体調不良で引退→体調回復で復帰という流れは、日本のプロレス界ではテリー・ファンクが作ったといわれている。テリー・ファンクが復帰した際には「引退試合」で涙したファンを中心に大きな批判が起こり、人気は大幅にダウンした。小林邦昭は引退する際に「絶対に復帰しない」ことを明言したが、1試合限定復帰(後述)をしている。また、川田利明は「俺がプロレス辞める時は『引退』ではなく『休業』ということにしてくれ。」とコメントしている。アントニオ猪木は日刊スポーツのインタビューで「俺がコスチューム着てリングに立てば、東京ドームを満員にする自信はある。でも、それをやったらおしまい。」と自身の現役復帰を否定した[16]。
このような背景もありレスラーが傷病により一時的にリングを離れる場合、比較的軽いものだったとしても「引退危機」と報じられるケースが多々ある。しかし近年は長期離脱となった場合でも引退を否定した上で復帰をした選手も少なくなく、ハヤブサは試合中の事故で重い後遺症が残り、復帰が事実上困難な状態だったが最期まで引退を否定していた。また、体力に自信のあるベテランレスラーなら、「生涯現役」すなわち「引退しない」と宣言するケースや、本人死亡後の追悼セレモニーを「引退試合」とした例もある。
一方、これもプロレスラーにありがちな事情であるが、明確な「引退宣言」がなされていないものの長期間に渡り選手としてリングに上がることがなく、事実上の引退状態となっている選手も存在する。極端なケースとして小畑千代は国際プロレス女子部が解散した1976年を最後に選手としてリングから退いているが、2014年3月現在も「引退表明をした憶えは無く、生涯現役を貫く」と頑なに引退を認めていない。
かつての全日本女子プロレスでは「25歳定年制」が布かれていたが、他団体やフリーで現役続行あるいは復帰するケースが多く、後に定年制も有名無実化された。定年制無実化のきっかけとなったのは、ブル中野とされている。中野は25歳を過ぎても現役を続けていたが、正式な引退表明が無いまま29歳の時に怪我でリングを去った。その後44歳の誕生日に引退セレモニーを行っている。
一方、JWP女子プロレスでは2011年末に米山香織がセレモニー中に「引退撤回」という前代未聞の行為を起こしたため、このような事態が二度と起こらぬよう引退のためのスキームを整備、これに反した場合の罰則を検討している。
なお、日本で引退興行を大々的にやった最初のレスラーは吉村道明だが、引退後の吉村は復帰どころか、プロレス界とのかかわりもほとんど持たなかった。
また、プロレス特有の事情として、ストーリーラインの都合上で「1試合限定復帰」というアングルが組まれることがある。有名な例では坂口征二やバディ・ロジャースなど。
フィギュアスケート
フィギュアスケート選手の引退も特殊なケースと見られる。オリンピックを筆頭とするISU管轄の競技会はアマチュア選手に限定しているため、プロスケーターに転向することはすなわち競技生活から身を引くことである。そのため、プロ転向した場合も「引退」と表現されるが、プロ参加可能なISU非公認の競技会も存在する。
プロゴルフ
プロゴルファーの引退もまた特殊で、選手としての競技生活から退く「ツアー引退」はあっても指導専門のプロになる、あるいは初めから指導者になるためにプロテストを受験するケースもあるので「プロ引退」は基本的に存在しない。
いわゆる「プロゴルファー」は統括機関が定めるプロライセンスを持った者を指すが、このライセンスにはトーナメント出場資格を持つ「ツアープロ」とレッスンのみ行う「ティーチングプロ」が存在するからである(他競技でもサッカーやボクシングなど指導者資格を設けている競技は存在するが、プロとはみなされない)。
そのため、「ツアープロ」資格を喪失した際にトーナメントから退くことになるが、「ティーチングプロ」として活動する場合は「プロゴルファー」の肩書きを失うことはない。
政治
政界における引退とは政治家が政界から身を引くことを言う。身の引き方は任期による退任、自発的辞任、解任、落選を問わないが、一般的に引退を宣言以降、自分自身が当選するための選挙活動、政治活動はしないとされる。当然ながら、法的には引退には全く根拠のないものであり、引退を撤回して、再度政治家を目指してもなんら差支えない。例外的なケースではあるが、藤井裕久のように、衆議院議員選挙で落選して引退表明した後に比例復活での繰り上げ当選により政界復帰することもある(藤井はその後党税制調査会長、財務大臣にまで就任している)。
なお、国政から地方もしくはその逆で首長、議員に転身する場合は引退とは言わない。また、選挙で落選しただけで次回選挙へ立候補意欲がある人物の場合、資金管理団体が存続する場合も引退とは呼ばない。山崎拓や深谷隆司は落選の3年後の2012年に引退を表明したが、これは「復帰を目指して立候補する意欲がなくなった」ことによる引退表明である。
政治家が引退する理由には高齢により後進に道を譲るものが多いが、自らの不祥事を認めた場合(例:堀江メール問題における永田寿康)や自分が所属する党や派閥に対して不満があったり、意見が食い違ったりした場合に責任を取って引退する議員もいる(例:「郵政解散」での中村正三郎)。また、極稀なケースとして、近藤剛のように政治家以外の重要な役職に就任し、政治家との兼任が難しい場合(近藤の場合は日本道路公団総裁に就任するため、参議院議員を辞職)もある。竹中平蔵のように自分を政界に勧誘した人間(竹中の場合は小泉純一郎)の退陣に伴って議員を引退する例もあるが、この場合は「投票した選挙民への背信ではないか?」と批判されることもある。
ただし、引退後に長老、評論家、研究者などとして活動し、政界に一定の影響力を残すこともある(吉田茂、中曽根康弘など)。また、政党の中には引退した人物に後進の政治家の選挙活動の支援を依頼したり、政党内の政策研究組織への参加を許可しているケースもある。顧問・最高顧問などの肩書きを与える例も多い。橋下徹は弁護士資格を持っていることもあり、引退後に自らが創設者である日本維新の会の法律顧問に就任して政治上の論評や首相との面会などを行っている。
そのため、中曽根は定年制導入による衆議院選不出馬会見で「引退はしない」と公言しているが、これは「国会議員を引退しない」という意味ではなく、「国会議員引退後の政治活動は引退しない」あるいは「資金管理団体・近代政治研究会を解散しない」という意味である。また自民党の河本派では、派閥会長の河本敏夫が議員を引退した後も、後継難から河本が派を代表し続け、「旧河本派」と称していた。
また、日本共産党は、党の役職と国会議員であることが必ずしも両立しているわけではないので、野坂参三・宮本顕治・不破哲三の歴代党議長は、議員引退後もしばらくは党議長の役職に任ぜられていた。
アメリカ合衆国大統領の場合、大統領が議員を兼任できないこともあって、大統領退任は即政界引退となるのが一般的である。大統領退任後に返り咲いたのは19世紀のグローバー・クリーブランドが唯一の例であり、大統領選挙に出た大統領経験者もセオドア・ルーズベルト以来久しく絶えている。ジミー・カーターのように政界に顔を出し続ける例もあるが、大統領や議員に立候補するわけではなく長老・有識者としてのものである。
なお、以上に述べたのはアメリカ及び戦後の日本の政界の話であって、「第一線を退いた人物が功労経験を買われて就くポスト」が存在する場合には、そういうポストに就いた人間にとっては、たとえ政党や議会の第一線を退いたとしても引退という言葉は成り立ちにくい(例として戦前の日本の元老・重臣・枢密顧問官、イタリアの大統領経験者の終身上院議員、1980年代の中国の中央顧問委員会など)。日本では若槻礼次郎は、第2次若槻内閣が崩壊し民政党の党首を退いた時点で今なら政界引退であるが、実際にはその後も終戦まで重臣として政治に関わり続けた。幣原喜重郎のように、第2次若槻内閣の総辞職で外相の地位を退いて以来10年以上、貴族院議員を唯一のポストとして引退同然の生活を送っていた人間が、終戦直後の人材難で突如復活して首相となった例もある。中国では、かつての「八大元老」のように、ポスト上からは引退したはずの大物政治家がその個人的権威によって事実上政界を支配していたことがあった。
将棋
将棋界では、1994年にフリークラス規定がされて導入以降、順位戦C級2組からの陥落に伴うフリークラス編入[17]、あるいはフリークラス宣言後、規定上の在籍可能年数だけフリークラスに在籍してからの引退が主流となっている。逆に言えば順位戦に在籍する限り現役を続けることが出来、現役高齢記録の上位2名(2017年に引退した加藤一二三の77歳5か月19日・1996年に引退した丸田祐三の77歳0か月1日)は一流棋士がC級2組から陥落して強制引退となるまで指し続けた末の記録である。かつてはC級2組から陥落した棋士は、奨励会三段に編入して奨励会員に混じって指す時期があり、それを恥として引退する棋士が多かったが、失明が原因で陥落した西本馨は引退まで10年以上指し続けた。
一流棋士の中には上述の加藤や丸田のように制度上可能な限り現役を続けるケースもあるが、以下の実例のように、制度上の引退に追い込まれる前に自らの意思で引退を表明する傾向がある。
木村義雄は二度目の名人位失冠の際に、47歳5か月の若さで「良き後継者を得た」との名文句を残して引退表明した。
二上達也は58歳でB級1組在位中、しかもB級1組への残留が充分に見込める成績を維持した状態で引退した。
内藤國雄は丸田祐三の当時の現役最年長記録を更新できる状況だったにもかかわらず、自らの意思で2015年に75歳で現役を引退した。- フリークラス規定導入以後は、中原誠・米長邦雄・森内俊之のように順位戦A級から降級直後もしくはB級1組に数期在籍してからフリークラス宣言を行うケースが多い。
引退が決定した時点で勝ち残っている各棋戦の対局は、全て敗北するまで出場するのが決まりで、消化しない場合には「不戦敗」の扱いとなるため、場合によってはその残りの対局で勝ち進んでしまい、米長邦雄のように引退表明後1年近く現役を続行した例もある。いくら勝ってもいずれ引退には違いないのだが、将棋界では「勝っても負けても同じ対局でも全力を出す」というのが不文律となっている(いわゆる「米長哲学」)。
引退すると、永世称号資格を保有している棋士は永世称号を名乗ることができる規定であるが[注釈 1]、実際には、木村義雄が引退と同時に十四世名人を襲位した例以外には、引退してから初めて永世称号を名乗った例は一つもない。
以前は規定による引退は年度末である3月31日付となっていたが、2010年にC級2組から陥落し年齢制限による引退が確定していた有吉道夫が引退確定前に対局が組まれていたNHK杯戦で予選を突破し新年度の本戦に出場することが決定したのをきっかけに、最終対局日付での引退に規定が変更された(なお、有吉は棋王戦でも勝ち残っていたため、引退はNHK杯戦放送(5月23日)後の5月24日であった)。
引退後の棋士は「退役棋士」または「引退棋士」と呼ばれる。退役棋士と現役棋士の違いは「公式戦対局の権利を失うこと」のみであり、退役棋士も将棋連盟正会員の身分を保持する。退役棋士が将棋連盟を退会して、棋士の身分を完全に放棄することも可能であるが、その例は非常に少ない(2018年4月1日現在、棋士番号制度以降の棋士277人中では永作芳也一人)。
一方で奨励会を退会した奨励会員は、奨励会員であった時の段位を失い、日本将棋連盟と無関係となる[注釈 2]。
退会した奨励会員は一定期間アマチュア棋戦に参戦することはできない。
囲碁
日本の囲碁界の事情は将棋界に近いが、将棋の順位戦に相当する強制引退制度が囲碁にはないため、プロ棋士の退き際は完全に本人の価値観にゆだねられる。ゲームの性質上加齢によるマイナスが少ないこともあって、97歳で死ぬまで現役だった杉内雅男をはじめ、坂田栄男、藤沢秀行、梶原武雄、橋本宇太郎など70代になっても打ち続けた一流棋士は数多く存在する。2009年に引退した窪内秀知は当時89歳であった。
将棋同様、引退した棋士も日本棋院・関西棋院の所属からは離れないようになっている。
芸能界
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年4月) |
芸能界における引退は主に6つのパターンが存在する。それは、
- 結婚・出産(特に女性)や円満解散を理由に引退を事前に公表し(いわゆる「寿(ことぶき)引退」)、引退記念コンサートなどイベントを開催する者 - ザ・ピーナッツ、キャンディーズ、山口百恵、安室奈美恵などの例が有名。高井麻巳子や堀北真希のようにイベントをせず、そのまま引退する場合もある。
- テレビや映画・舞台・音楽活動などの第一線で活躍している中、自身の器量の限界や精神的不安定もしくは病気などを理由に、公式に「引退表明」して引退する者 - 上岡龍太郎、飯島愛、大内登、成宮寛貴、中元日芽香、小川麗奈など
- 学業専念や一般的な職業(特に芸能関係以外の一般的な企業や団体)への就職や転職(つまり芸能人がサラリーマンやOL、公務員、店員・工場労働者などの一般的な「現場労働者」などに転身すること)、所属事務所に残留してもスタッフやプロデューサーなど裏方仕事に転業するなど将来的な別方針(特に、子役やアイドルや若手中堅(時にはベテランも)クラスの歌手や俳優や女優やタレント)を理由に引退する者 - 森且行、光井愛佳、鈴木香音、尾形春水、村上愛、小川紗季、前田憂佳、カケフくん、大橋のぞみ、嗣永桃子、橋本奈々未、有安杏果、滝沢秀明、市來玲奈、齋藤ちはる、紺野あさ美、森脇和成など。
- スキャンダルや他のタレントとの確執、所属事務所からの独立を巡るトラブルや所属事務所のスタッフによる不祥事、テレビ局のスタッフとのトラブルなどで、各方面から圧力をかけられて仕事を失い、いわば「干される」形で引退に追い込まれる者 - ダン池田、倉田まり子、喜多嶋舞、江角マキコなど
- 事件沙汰による逮捕や、スキャンダルや規律違反と言った不祥事、所属事務所による契約上のトラブルなどを理由に、所属事務所からの契約解除及び自主的な引退 - 加勢大周、赤坂晃、山本圭壱、高畑裕太、島田紳助、横山やすし、田代まさし、山口達也、萩原舞、吉澤ひとみ、大和里菜、新井浩文など。
- 不人気(人気薄)で売れないため収入が無い状態により、所属事務所との契約切れや自主的な退所で、人知れずひっそりと引退する者 - 多数
の6つである。
1.2.3.の場合は、引退前にそれまでの歩みを振り返る特別番組が放送されることが多い(ただし2.3.の場合は一部例外あり)。
引退を発表しても世間から余り注目されない多くの芸能人は6.の道を余儀なくされる。公式ファンクラブが存在するなど一定のファンがついている芸能人に関してはファンクラブ会報誌で引退を告知したりすることがある。最近ではインターネットが広く浸透していることにより、公式HPやブログで引退を告知するだけという場合もある。
1.のパターンの場合には、公式ファンクラブが存在する場合などに、引退の公式発表の数カ月前から関連グッズが在庫処分を目的とした投げ売り状態になるなど、何らかの予兆が見られる場合もある。引退した後年、スペシャル特番時期になると一時代のスターとしてメインで放送される場合があり、さらには写真集やCDとかで再発売されるケースがある。結婚後(女性に限って)に、芸能界引退を公表せずに芸能活動を全く無い状態が続いているとマスコミからは引退扱いされてしまうケースがある(例:伊東美咲・榎本加奈子・根本はるみなど)[18]。
2.や3.の形で引退した場合は、正式引退した数年後にスペシャル特番などでなつかしの人物として現在の姿が取り上げられ、本人がテレビ出演することもある。また、他方面で活躍している場合は現役当時の姿や現在の姿がCMで採用されることがある。
4.や6.の形を取る場合は芸能界引退を正式に公表していない場合でも、マスコミからは雑誌などで芸能界引退扱いしてしまう場合がある。
5.の形を取る場合は、所属事務所からの一方的な発表がされるにとどまり、不祥事を起こした本人自らのコメントが聞けない場合も多い。一部のメンバーの不祥事・逮捕に伴うグループ解散の場合は、他のメンバーがコメントを出す場合がある。
芸能界を引退後、復帰するパターンは多い。1.の場合グループ解散後に単独や別グループで活動を再開(前述のキャンディーズは3人とも復帰し、特に田中好子は2011年に55歳で病死するまで活動を続けた)。夫の死別・離婚によるための芸能活動を再開(例:麻丘めぐみ・森昌子・石野真子・藤田憲子など)。結婚引退してから数十年の歳月を得て、子育てを終えた後に芸能活動を再開(例:小林麻美・河合その子など)。
2.の場合は病気の治癒(例:ハウス加賀谷・松本莉緒)、別の職業の形で元居た所属事務所と再契約を結ぶか、別の事務所に移籍して新たに契約を結ぶ(例:中元日芽香)。
3.の場合は学業が一段落(例・三浦大知)や長年勤めていた職場を還暦後に退職した後に、芸能活動を再開(例・瞳みのる[19][20])。現在勤めている会社に管理職クラスまでに出世し空いた時間ができたために芸能活動を再開(例:直江喜一[21])。公職を退いた後に芸能活動を再開(例:東国原英夫・橋下徹・横光克彦)
4.の場合、それまでと異なる事務所に移籍して復帰する(例:鈴木亜美)、周囲の取り成しにより前所属事務所と和解して復帰する(例:大平サブロー)といった事例がある。
5.の場合、逮捕引退後からかなりの歳月が経過されると再び芸能活動再開され、上記の山本圭壱や赤坂晃と言った人物が挙げられる。なお、将来の復帰を前提とした活動休止は通常引退とされないが、復帰の意思が事前に公表されなかった場合は引退と報じられる場合もある。
1.2.3の場合は「芸能界を去った」と認知され、4.5.6の場合は、世間からは「芸能界から消えた」あるいは「芸能界から追い出された」(または「芸能界をクビになった・芸能界をリストラされた」)と認知され忘れられた状態となる。過去の映像を流せるかどうかは、事務所との関係によって異なる。ただし、5の場合は流れる可能性は皆無と言ってもよい(本人が死去した場合に追悼特番で流されることもあるが、最悪の場合は死去後も永久に流されない)。事務所との関係などによっては、事務所側が「最初からいなかった」扱いにすることもある(森且行など)。
芸術家
作家、音楽家などの芸術家の場合も、死去するまで活動[22]せずに生前に体力や創作意欲の衰えなどで引退することがある。指揮者のように単独では活動できない職業では、前記芸能界の場合のように人気が無くなっての引退もある(本人のつもりはどうあれ呼んでくれるオーケストラがなくなれば引退せざるを得ない)。必ずしも全面的に活動をやめるわけでない場合もあり、指揮者ではカルロ・マリア・ジュリーニは引退表明後に学生オーケストラを指揮したことがあり、ブルーノ・ワルターは引退後にステレオ録音が登場したため、スタジオでの録音活動を再開している。ラファエル・クーベリックのように引退後に現役復帰した例もある(「体調不良及び作曲活動のため」として引退したが、祖国チェコスロバキアで社会主義政権が崩壊するという予想外の事態になり、現役復帰してチェコ・フィルハーモニーとの活動を再開した)。1969年に引退表明した作家の海音寺潮五郎の場合は新聞・雑誌の連載ものからの引退表明で、余命を考えて(8年後に死去)仕事を絞る意味からの引退であった。また、音楽家ではグレン・グールドのように「コンサートのみ引退、レコーディング活動は継続」という例もある。
なお、個人で活動できる芸術家の場合、上記のスポーツ関係者や芸能人と異なって不祥事が引退につながらないこともある。陶芸家の加藤唐九郎は「自分で焼いた壺を永仁年間のものとして重要文化財指定まで受けた」という永仁の壺事件を起こしたが、陶芸家を引退させられるようなことはなく、かえって「重要文化財を焼ける男」として名声が高まった。
その他の引退
サッカー、ラグビーなどの団体競技ではナショナルチームへ今後参加しない意思を表明する「代表引退」が存在する。この場合、クラブチームでの活動は継続される。あくまでも選手が公に意思表示をするだけのものであるため、代表引退後の代表再復帰に関しては特に制約はない。また、「第一線から退く」という意味で「引退」と表現することもあり、プロやトップレベルの実業団などから「引退」しても地域レベルのアマチュアやいわゆるマスターズクラスなどで選手活動を継続するケースは適宜見られる。個人競技においても「国際大会からの引退」など、特定の活動からのみ退く引退も存在する。たとえばマラソン選手が「引退」を表明しても、市民ランナーとして走り続けることまでは否定しない例が多い。宗猛は第一線を退いていた時期にアジア大会代表選考レースで代表クラスの成績をあげてしまい、「代表に選ばれても辞退する」と表明したことがある。これらとは対照的なケースとして競泳選手の寺川綾は、「水泳は生涯スポーツ」と言う考えから競技活動から退く際、「引退」ではなく「卒業」と表現した。
また、芸能界においても、「グラビア引退」など、特定の活動を終えるために引退と表現することもある。この場合、その活動を終えても、他の芸能活動については継続する例も少なくない。
鉄道路線や、鉄道車両、名称がある列車が廃止される場合も引退と言われることがよくある(路線の場合は廃止・廃線のほうが一般的である)。また、飛行機や船の場合も同様である。これらに関してはさよなら運転も参照のこと。
ゲーム(オンラインゲーム、アーケードゲーム、パチンコなど)のプレイを止めること、スラングで「引退する」と言い、オンラインゲームでの場合はゲーム内で引退式を開く者もいる。しかし、オンラインゲームでIDを削除しない限り、そのゲームが存続している限り自分の意思で復帰は自由であり、(極端に言えば引退式を行った翌日に)ゲームに戻ってくる者もいる。ただし、ゲーム自体が廃止になり最終日にプレイをしていて終了を見届けて止めたとしても引退とは言わない。
また、長年親しまれた、愛着のあった道具や機械が新型と入れ替わる場合も引退と言うことがある。
会社を退職することを「引退」と呼ぶこともある[23]。
慣用句
「引退」という言葉を直接用いず、その分野にまつわる道具・器具・場所などを用いた慣用句で置き換えて表現する場合がある。
例を挙げると、「マウンドを去る」(プロ野球投手)、「バットを置く」(プロ野球野手)、「土俵を去る」(大相撲)、「グローブを吊るす」(プロボクサー)、「スパイクを脱ぐ」(サッカー選手)、「ターフを去る」「ダートを去る」(競走馬、騎手)、「マシンから降りる」(モータースポーツ)、「ラケットを置く」(プロテニスプレイヤー)、「永田町を去る」(国会議員)、「バッジを外す」(国会議員、弁護士、アメリカの警察官)、「白衣を脱ぐ」(医師、看護師)、「霞ヶ関を去る」(本省・本庁勤務の国家公務員)、「兜町を去る」「北浜を去る」(証券取引所関係者)、「マイクを置く」(歌手、アナウンサー)、「舞台から降りる」(俳優、お笑い芸人)、「筆を折る」(書道家、画家)、「ペンを折る」(小説家、漫画家、記者)、「文壇を去る」(小説家)、「メガホンを置く」(映画監督)、「教壇を去る」(教授、教師)、「包丁を置く」(調理師)、「火が消える」「火を消す」(鉄溶鉱炉、窯、火力発電所)など。
また、警察官・自衛官・鉄道員・工員・店員・倉庫作業員・航空従事者・船員など制服を着用する数多くの職業や野球・サッカーなどユニフォームを着用する数多くのスポーツで、「制服を脱ぐ」「ユニフォームを脱ぐ」という表現が引退・退職の慣用句として用いられている。
脚注
注釈
^ 名誉王座は、現役でも満60歳に達すると名乗ることができる。
^ 初段以上で奨励会を退会した者が指導棋士になる場合と、2級以上で奨励会を退会した女性会員が女流棋士に転身する場合を除く。
出典
^ 日本プロフェッショナル野球協約第59条
^ 2005年に育成選手制度として練習生が実質再解禁となった
^ 日本プロフェッショナル野球協約第67条第3項
^ 日本プロフェッショナル野球協約の原文による。ウエイバーとは権利放棄(waiver)の意であり、一般的にはウェーバーと表記される。
^ 構成員には選手の他に、監督、コーチその他の職、NPBがアマチュアの全日本野球協会と共同で運営する侍ジャパンおよびその関連職も含まれる。
^ この他に、新聞社専属の野球評論家、放送局専属の野球解説者についても、失格選手となった者は採用しないという紳士協定がある。田丸一男のことばエッセイ 無期失格・永久失格 - 毎日放送ホームページ、2015年11月10日更新。
^ 巨人賭博3選手追放 NPBが無期失格処分の厳罰 - 日刊スポーツ 2015年11月11日付け1面。
^ 例として清水川や福住
^ 高見山大五郎が引退を表明しつつ千秋楽まで現役を続けた例がある。またそれ以前に「10勝できなければ引退」とのコメントが場所前に新聞に載った横綱鏡里喜代治が、途中で6敗しながら千秋楽まで取り、勝ち越して引退した例もある。
^ 例外として、2011年の大相撲八百長問題で八百長行為に関わったとして解雇処分を受けた蒼国来栄吉が、裁判で勝訴して現役復帰を認められた事例が在る。
^ “37歳以上でもライセンス再交付、日本ランカーも対象に”. スポーツニッポン. (2015年12月22日). http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2015/12/22/kiji/K20151222011731300.html
^ “【ボクシング】亀田興毅vsポンサクレック、ライセンス無しでも決行へ”. イーファイト. (2018年4月5日). https://efight.jp/news-20180405_283096 2018年9月9日閲覧。
^ 網膜剥離完治は現役認める スポーツ報知 2013年4月4日
^ 例:2016年のホッコータルマエの競走馬登録抹消時のJRA公式サイトの記事
^ ただし、内藤自身は1968年の調教師転向まで騎手を務めていた
^ 猪木が選手発掘!ネット&K1戦士再生も 日刊スポーツ 2011年9月23日
^ 但し、C級2組を陥落した時点で満60歳を超えている場合は、フリークラス編入の過程を経ず、即座に引退となる。
^ 宝生舞だけじゃない!? “美しい一般人”になった「消えた女優たち」の行く末
^ ザ・タイガース完全復活!?──芸能人の政治的発言のタブー──沢田研二&たむらけんじ
^ 「ザ・タイガース」44年ぶり再結成!GSサウンド不滅
^ 金八先生の加藤役「直江 喜一」の現在
^ 作家の場合は生前最後の未完作品が「絶筆」になる
^ 特に転職などで異なる業種の職業に転じ、それまでの業種にはもう復帰する意思がないというニュアンスが強い場合など。貴乃花光司の「親方引退」発言は同様のニュアンスと言える。
関連項目
- デビュー
- 引退試合
- 断髪式
- 定年
- 勇退
退職・解雇・免職
- 移籍
解散(グループとしては活動を終了するが構成員は活動継続する場合。芸能界でいえばSMAPなど)- 世代交代
- 支配下登録
- 戦力外通告
- 自由契約
- 無償トレード
- フリーエージェント
失脚(独裁国家・社会主義国家の政治家の「引退」は実質的に失脚であることもある)- セカンドキャリア
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