酒井忠寧
凡例 酒井忠寧 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 寛政元年1月26日(1789年2月20日) |
死没 | 文化14年8月16日(1817年9月26日) |
改名 | 与八郎(幼名)→忠寧 |
戒名 | 智勝院殿劫外禅徹大居士 |
墓所 | 東京都葛飾区高砂町の崇福寺 |
官位 | 従五位下、信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 上野伊勢崎藩主 |
氏族 | 雅楽頭酒井家 |
父母 | 父:酒井忠哲、母:品(木下利忠の娘) |
兄弟 | 忠寧、於とり(細川利愛正室) |
妻 | 正室:多加(牧野宣成の四女) |
子 | 忠良、忠恒、鍈子(小笠原貞哲正室)、 於さだ(大久保忠豊正室)、 於澄(榊原昭砥室) |
酒井 忠寧(さかい ただよし)は、江戸時代後期の大名。上野伊勢崎藩の第5代藩主。雅楽頭系酒井家支流5代。
第4代藩主・酒井忠哲の長男。文化2年(1805年)7月5日、父の隠居により跡を継いで叙任する。祖父の忠温に倣って学問を奨励し、五惇堂や遜親堂、会輔堂、正誼堂、遜悌堂、正心堂など多くの学問所を創設した。文化14年(1817年)8月16日に死去。享年29。跡を長男の忠良が継いだ。
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