ボブ・ディラン

























































ボブ・ディラン
Bob Dylan

Bob Dylan - Azkena Rock Festival 2010 2.jpg
「Azkena Rock Festival」に出演するディラン
(2010年6月26日)

基本情報
出生名
Robert Allen Zimmerman
別名
ブラインド・ボーイ・グラント
ラッキー・ウィルベリー/ブー・ウィルベリー
ジャック・フロスト
生誕
(1941-05-24) 1941年5月24日(77歳)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
Flag of Minnesota (1893–1957).svg ミネソタ州ダルース
出身地
ミネソタ州 ヒビング
学歴
ミネソタ大学中退
ジャンル
ロック
フォークロック
フォーク
ブルース
カントリー
ホワイト・ゴスペル
職業
ミュージシャン
シンガーソングライター
担当楽器
ボーカル
ギター
ベース
ハーモニカ
キーボード
ピアノ
活動期間
1959年 - 現在
レーベル
コロムビア(ソニー)
アサイラム
共同作業者
ザ・バンド
トラヴェリング・ウィルベリーズ
グレイトフル・デッド
トム・ペティ
ジョーン・バエズ
公式サイト
www.bobdylan.com








ノーベル賞受賞者ノーベル賞

受賞年:2016年

受賞部門:ノーベル文学賞

受賞理由:米国歌謡の伝統の中に新しい詩の表現を創造したこと


ボブ・ディラン(英語: Bob Dylan、1941年5月24日 - )は、アメリカ・ミネソタ州出身のミュージシャン。出生名は、ロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だが[1][2][3]、後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している[4][5]。“ボブ”はロバートの愛称、“ディラン”は詩人ディラン・トマスにちなむ。70年代末には保守派のビル・グレアムの影響を強く受け、福音派(新興宗教的キリスト教)に改宗(ボーン・アゲイン)し、コンサートでブーイングを浴びたが、ソニー・ミュージックなどによれば、83年以降はユダヤ教に回帰している[6]。2016年歌手として初めてノーベル文学賞を受賞。


「風に吹かれて」「時代は変る」「ミスター・タンブリン・マン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「見張塔からずっと」「天国への扉」他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍している。


グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしている。また長年の活動により、2012年に大統領自由勲章を受章している。そのほか、2008年にはピューリッツァー賞特別賞を、2016年10月には「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞を授与されることが決定[7]。発表からしばらく沈黙を守っていたが、同月28日に授賞を受け入れると発表した[8]


「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第18位[9]、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第7位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第2位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第1位を獲得している。




目次






  • 1 人物と宗教


  • 2 経歴


    • 2.1 生い立ち


    • 2.2 1960年代


      • 2.2.1 ニューヨークへの移住とレコードデビュー


      • 2.2.2 時代の代弁者とそれからの脱却


      • 2.2.3 エレクトリック・ギターの使用


      • 2.2.4 バイク事故と隠遁




    • 2.3 1970年代


      • 2.3.1 隠遁後からレコード会社移籍まで


      • 2.3.2 ツアーへの復帰


      • 2.3.3 福音派への改宗




    • 2.4 1980年代


      • 2.4.1 キリスト教三部作の終了


      • 2.4.2 アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加




    • 2.5 1990年代


      • 2.5.1 ネヴァー・エンディング・ツアー


      • 2.5.2 7年振りのオリジナル・アルバム




    • 2.6 2000年代


      • 2.6.1 新作のNo.1獲得






  • 3 影響・語録など


  • 4 日本への影響


  • 5 ディランに影響を受けたミュージシャン


  • 6 ディラン・ファンの著名人


  • 7 日本公演


  • 8 ディスコグラフィ


  • 9 受賞各賞


  • 10 関連項目


  • 11 脚注


    • 11.1 注釈


    • 11.2 出典




  • 12 参考文献


  • 13 外部リンク





人物と宗教


ディランは、よくメッセージソングやプロテストソングの旗手と評される。ジミ・ヘンドリックスはディランに心酔していたし、サム・クックは「風に吹かれて」を聴いて、曲が黒人ではなく白人によって書かれたことが信じられなかったと述懐した[10]。しかしながら、このようなことを本人は迷惑に感じており、同世代については「ほとんど共通するものも無いし、知らない」と述べ、自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われることに辟易していると明かす。自身の関心事は「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と述べている[11]。もともとユダヤ人、ユダヤ教徒として出生したが、70年代後半にキリスト教福音派に改宗し、コンサートでは激しいブーイングを浴びた。ジョン・レノンは、ディランのキリスト教をすすめる歌詞に反発し、反対の意味のアンサー・ソングを書いている。


英セント・アンドルーズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツやメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリー、ロバート・ジョンソンを聴くべし」と後進のアーティストに提言している。また、歌詞や自伝における引用・盗用(盗作)も数多く指摘されている。佐賀純一やジャック・ロンドン、アーネスト・ヘミングウェイ、ヘンリー・ティムロッド(英語版)や、旅行ガイドからの引用も突き止められてきた。絵画は映画「パリ、テキサス」「黒い罠」の場面からの盗用が発覚している。さらにエド・クック教授は、ディラン自伝での盗用を発見し、がっかりしたと述べている。ジョニ・ミッチェルは、LAタイムズ紙のインタビューの中で、「ディランは盗作野郎で、名前も声もインチキ、まがいもの。彼と私は昼と夜みたいなもの。彼は彼。私は私。」と厳しく批判している[12]


2012年10月発売の米誌ローリング・ストーン(フランス語版)のインタビューで米国の人種間関係について問われた際に、「奴隷主や(クー・クラックス・)クランの血が混じっている人がいれば黒人はそれを感じ取る。そういうことは今日にも残っている。ユダヤ人ならナチスの血を感じ取り、セルビア人ならクロアチア人の血を感じるように」などと応じ、クロアチア人に対する憎悪を煽情する発言として在仏クロアチア人協議会から告訴された。2013年11月中旬、これを受けたフランス司法当局により侮辱行為と憎悪扇動の罪で刑事訴追されたが[13][14][15]、2014年4月15日にパリの裁判所により訴えは棄却された[16]



経歴



生い立ち


1941年5月24日、ミネソタ州ダルースに生まれる[17][18][19][20]。ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)(イディッシュ語: שַׁבְּתַאי זיסל בֶּן אַבְרָהָם צימערמאַן‎Šabsay Zisl ben Avrohom Tsimerman。ジスルはイスロエルの愛称。祖父母はロシアのオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった[21][22]。1946年、弟デイヴィッド誕生[23]。1947年頃、一家はヒビングに転居する[24][25]


幼少時より家にあったピアノを独習[26][27]。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育つ[28]。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ[29][30][31]。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始める[32][33][34]。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている[35]。1959年夏、ノースダコタ州ファーゴでエルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験する[36][37]


1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる[38][39]。持っていたエレキ・ギターをアコースティック・ギターに交換[40]。ミネアポリスでフォーク・シンガーとしての活動を始め[41]、この時にボブ・ディランと名乗っていた[42]。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人のディラン・トーマスから取った[43]とも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている[44]。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ[45]、ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける[46]



1960年代



ニューヨークへの移住とレコードデビュー





ジョーン・バエズとディラン(1963年)




ニューヨーク・セントローレンス大学でのステージ(1963年)


1961年冬、大学を中退してニューヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていた[47][48]が、やがてハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験[49]。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや[50]、タイムズ紙で好意的に論評されたこと[51]をきっかけに[52]、コロムビア・レコードのジョン・ハモンドにその才能を見出され[53][54]、1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかしその年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスであった[55][56]


当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達[57]、絵画[58]、ミュージカル[59]、レコード[60]、ランボー[61]、ヴェルレーヌ、ブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの新しい歌を書くようになる[62][63]。「オンリー・ア・ホーボー〜トーキン・デビル」、「ジョン・ブラウン」、「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され[64]、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グラントBlind Boy Grunt)なる変名でクレジットされている[65][66]


アルバート・グロスマンがマネージメントに乗り出す[67]と、幅広い活動が可能になり、ディランの楽曲を他のアーティストに提供することが考え出される[68]。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立[69]。2枚目のアルバムのレコーディング途中で、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代する。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収された[注釈 23]



時代の代弁者とそれからの脱却


1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート (Madhouse on Castle Street)」に出演し[70]、ロンドンのクラブで演奏[71]。4月12日、タウンホールでソロ・コンサート[72]。5月12日、初の全米中継であるテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演が決まるが、リハーサル後、極右政治団体のジョン・バーチ・ソサエティを揶揄した曲「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」を省くよう指示されると、検閲的行為に怒ってスタジオを出てしまった[73]。同月、モンタレー・フォーク・フェスティバルに出演。タイム誌は「新たなるヒーロー」と紹介した[74]。共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなる。


1963年5月、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』リリース。6月、ミシシッピー州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」[75]がビルボード2位のヒットを記録する。同月、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演[注釈 24]。8月28日、ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてディランは次第に「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていった。10月26日、カーネギー・ホールでソロ・コンサート[注釈 25]。1964年1月、アルバム『時代は変る』リリース。しかし、急進化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(1964年)では、プロテストソングと呼べる曲はなくなっている。10月31日、フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート」(『アット・フィルハーモニック・ホール(ブートレッグ・シリーズ第6集)』(2004年)収録)。


またこのころから、ディランの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」はビルボードで1位を獲得している。「悲しきベイブ」、「はげしい雨が降る」、「くよくよするなよ」、「イフ・ノット・フォー・ユー ("If Not For You") 」、「はじまりの日 ("Forever Young") 」などもよくカバーされている。



エレクトリック・ギターの使用


1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響が、コンサートやレコーディングでも見られた。ビートルズやローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期である。ただしビートルズのメンバーはハンブルク時代からドラッグ[76]、セックス、ロックンロールを享受しており、ディランがビートルズにドラッグを教えたというのは謬説(あやまり)である。中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにした曲を多く残した。中でも60年代半ばのジョン・レノンはディランに傾倒し、作風から精神面、スタイルなどの面でディランに触発された(例:[1]、[2])。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。


一方、ディラン自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』、『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表した[注釈 26]


従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ、賛否両論を巻き起こした。なかでも1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはバック・バンドをしたがえて数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けた。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を涙ながらに歌いあげた[77]、という逸話が有名である(しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説である。ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったことに対するものであり、実際には歓声もあがっていたという[78]。また、バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコースティック・ギターで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する)。


このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。


中でもアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、キャッシュボックス誌ではじめて(そして唯一の)シングルチャートNo.1となった(ビルボードでは2位。1位はビートルズの「ヘルプ!」)。その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 (Single Edit.) 」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位、[注釈 27]。"「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録した。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、さらに多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえる。


1965年から1966年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスをしたがえてワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるディランの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)[注釈 28]、映画『イート・ザ・ドキュメント(Eat the Document)』などに収録されている[注釈 29]。『ロイヤル・アルバート・ホール』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、更には逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められている。その中でディランは「I don't believe you... You're a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめた。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ディランはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにした[注釈 30]


またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にディランは声が大きく変化した。


この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 ("From a Buick 6") 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』(1985年)に収録された公式バージョンはザ・ホークスとの再録音)などがある。「イート・ザ・ドキュメント」の中でジョン・レノンと彼のリムジンの中で会話をし収録しょうとしたがなぜか酔っていたボブはまともな会話が出来ず呆れ失望したジョンは酷いイヤミを言うようになってしまい、最後ボブはみっともない醜態を見せ、それまでボブに傾倒していたジョンに決別を決意させてしまう結果になった。その映像はカットされたがビートルズの海賊盤のCDやビデオやDVDに収録されている。



バイク事故と隠遁


こうして最初の絶頂期を迎えていた[79]1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊で[80]オートバイ事故を起こす[81]。重傷が報じられ[82][注釈 32]、すべてのスケジュールをキャンセルして[83]隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した[84]。しかし当時、ドラッグ[85]とコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」[86]ディランにとってはかえってよい休養となった[87][88]。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたディラン[89]の大きな転機である[90][91]


翌1967年からは、ウッドストックにこもってザ・ホークスのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布され、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo (The Mighty Quinn)") 」がキャッシュ・ボックスで10位、全英シングル・チャートで1位を獲得するなど、様々なミュージシャンにカバーされて紹介された。ザ・ホークスは、ザ・バンドと名を改め、このセッションから生まれた「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「火の車 (This Wheel's on Fire) 」等の楽曲を収録し、ディランが描いた絵をジャケットにしたアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968年)で単独デビューする。やがてディランとザ・バンドによる膨大な未発表のデモテープがディラン宅の地下室に眠っているという噂が口コミで広がったが、その後大きな問題が生じた。副産物として『グレート・ホワイト・ワンダー (Great White Wonder) 』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。なお、このデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』の題で公式発表された。


1967年にはベネルックス三国にて、地元のバンドによるコーラスをオーバーダビングした「出ていくのなら ("If You Gotta Go, Go Now") 」がシングルリリースされた。1991年リリースの『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集』に収録されたバージョンとは全く違う、ハーモニカなしのバージョンであった。


1967年12月、前作に引き続き、ナッシュビル録音による『ジョン・ウェズリー・ハーディング』を発表。「見張塔からずっと」は、ジミ・ヘンドリックスがカバーしてヒットする。


1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ ("Lay Lady Lay") 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ディランにとって、最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル・スカイライン』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてディランは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっている。12月には後に自身と同じくミュージシャンとなる息子、ジェイコブ・ディランを授かっている。



1970年代



隠遁後からレコード会社移籍まで


1970年6月、『セルフ・ポートレイト』を発表。カントリー、MOR、インストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあった[92]がセールスは好調であった。その直後、レコーディング拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、10月『新しい夜明け』を発表する。


その後、ディランはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスン[93]、レオン・ラッセル[94][95]、ハッピー・トラウム[96][97]、アール・スクラッグス[98]、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン[99]、ダグ・サム[100]等とセッションしたこと以外は沈黙を守る。


1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』にはディラン自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く ("Tomorrow Is A Long Time") 」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大であった。


1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉」はディランの曲の中でもカバーするアーティストが多い一曲となった[101]


この頃CBSソニーから日本独自企画盤として『Mr. D's Collections #1』が特典として配布された。ソニーは以降も#2、#3、『傑作』(1978年)、『武道館』(1978年)、『Dylan Alive!』、『Bob Dylan Live 1961-2000』(2001年)、『ディランがROCK!』(2010年 / 当初は1993年に制作されたが、この時はディランの許可が下りず未発売だった)といった企画盤を企画している。なお、『The Never Ending Tour』という企画盤については、ディランの許可が下りていない。


またこの年、ディランはアサイラム・レコードへの移籍を決断。CBSコロムビアは報復手段として所有する膨大な過去の音源をリリースすることにし、まずは『セルフ・ポートレイト』のアウトテイク集である『ディラン』を発売する。ディランはアサイラムで2枚のアルバムを発表した後、コロムビアへ戻るが、その要因には過去の音源の権利関係があったためともいわれる。『ディラン』は一度CD化されたが、廃盤(アメリカのiTunes Music Storeではダウンロード可能)。アサイラムの二枚のアルバム『プラネット・ウェイヴス』(1974年)、『偉大なる復活』(1974年)も1977年にコロムビアから再発売となった。



ツアーへの復帰





ザ・バンドとのツアーにおける、シカゴでのステージ(1974年)


1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従えてレコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初のビルボードNo.1アルバムとなる。引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼等との共演は1968年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島音楽祭、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目である(最後は1976年の『ラスト・ワルツ』だった)。しかし、今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながら、ディラン自身は退屈さをも漏らしていたようである。このツアーの模様はライブ盤『偉大なる復活』に収録された。


翌1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロムビア復帰作『血の轍』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これもNo.1を獲得。ディランは当時、マリー・トラヴァース(ピーター・ポール&マリー)のラジオ番組で「なぜ、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べている。この作品は、当初ニューヨークで録音されてプレス盤も出回ったが、ディラン本人がリリース直前にストップをかけ、ミネアポリスで半数を取り直した。録音にはミック・ジャガーが立ち会った。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。ニューヨーク音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック ("Lily, Rosemary and the Jack of Hearts") 」だけが日の目を見ていない。




「ローリング・サンダー・レヴュー」のバックステージ。アレン・ギンズバーグと(1975年)


また1975年10月 - 12月と1976年4月 - 5月の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったツアーを行なった。これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行なうというもので、かつてのフーテナニーのリバイバルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示した。このツアーでは、ディラン自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われた。このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー(ブートレッグ・シリーズ第5集)』(2002年)、『激しい雨』(1976年)、映画『レナルド&クララ』、テレビ番組『Hard Rain』などに収録されている。このツアーメンバーを主として、ツアー開始直前に録音されたアルバム『欲望』が1976年初頭に発表され、No.1を獲得するとともに自身最大のセールスを記録した。


1978年には映画『レナルド&クララ ("Renaldo and Clara")』が公開されるが、内容が難解すぎると不評を買い、興行的には失敗。はじめは4時間弱だったが、後に2時間の短縮版が編集され再度公開。だが結局評価は変わらずじまいであった。封切りに先立ち『4 Songs From "Renald & Clara"』というプロモEPが業界内に配布された。サウンドトラック盤からの抜粋であるが、オリジナル盤は公式発表されていない。





オランダ・ロッテルダムでのステージ(1978年)


この年は12年ぶりにワールド・ツアーを開始し、2月から3月にかけては初の来日公演を行ない、東京公演の模様が『武道館』に収録、リリースされた。1971年のレオン・ラッセル・セッション以来の女性コーラス、ホーンセクションを含むビッグバンド編成である(ディランは1987年のツアーまで女性コーラスを導入していた)。また、ツアー中には、ツアーメンバーとともに『ストリート・リーガル』を制作。日本滞在時に作曲したという「イズ・ユア・ラヴ・イン・ヴェイン ("Is Your Love in Vain?") 」も収録されており、イギリスなどでマイナー・ヒットとなった。


なお、来日記念盤として日本限定で発売された『傑作』には、アルバム未収録の「親指トムのブルースのように ("Just Like Tom Thumb's Blues", Live at Liverpool) 」、「スペイン語は愛の言葉 "Spanish Is The Loving Tongue" (Piano Solo Version) 」、「 ジョージ・ジャクソン (Big Band Version) 」、「リタ・メイ」などが収録された。後にオーストラリアとニュージーランドでCD化されたが、入手困難となっている。



福音派への改宗


ワールド・ツアー終了後、ボーン・アゲイン・クリスチャン (Born again Christianity) の洗礼を受けたことが明らかになった。


1979年発表の『スロー・トレイン・カミング』はディラン流のゴスペルで占められていた。このアルバムはマッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手により制作された[102]、ディラン初の“プロフェッショナル”なアルバムである。このアルバムは旧来のファン離れを招いた[注釈 34]ものの、売れに売れてグラミー賞も獲得した。本作収録曲の「ガッタ・サーヴ・サムバディ(Single Edit.)」はディラン最後のトップ40シングルである。シングルB面の "Trouble in Mind" はアルバム未収録。また、未発表の "Ain't No Man Righteous, No Not One" もレゲエ・グループのJah Mallaにカバーされるなど、この時期の曲は比較的人気が高くトリビュート・アルバムも作られている。



1980年代



キリスト教三部作の終了





カナダ・トロントでのステージ(1980年)


前述の『スロー・トレイン・カミング』と1980年発表の『セイヴド』、1981年発表の『ショット・オブ・ラブ』は「ゴスペル三部作」と呼ばれる。この時期のコンサートでは当初、これらの作品群からの曲しか演奏せず、批判を浴び動員も伸び悩んだ。その結果を考慮して後期のツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた折衷版として妥協の姿勢も見せた。ディランはこの当時のサウンドにはかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロムビアに拒絶された。『ショット・オブ・ラブ』のアルバム未収録曲としては "Let It Be Me" 、「デッド・マン、デッド・マン ("Dead Man, Dead Man", Live Version) 」がある。後者は1989年「ポリティカル・ワールド ("Political World") 」のカップリングで発表された後、『Live 1961-2000』に再録。1981年にはそれまでの代表曲、未発表曲を網羅したコンピレーションアルバム『バイオグラフ』の企画が持ち上がる。発売には4年を要したため、1982年以降の曲は収録されていない。


ソニー・ミュージックとクリスチャン・トゥディ(2016/10月)が伝えたところによれば、ディランは83年の「インフィデル」からユダヤ教に回帰している[103]。確かにダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーをプロデューサーに迎えて製作した『インフィデル』(1983)はキリスト教色は薄れている。ディランが21世紀に入ってからも福音派(新興宗教的キリスト教)を信仰しているという誤りは、アル・カシャというキリスト教関係者による希望的憶測に過ぎなかった。ノップラーは制作途中で自身のワールドツアーに出てしまい[104]、残されたテープをディラン自身がミックスしたこのアルバムにはノップラーも含め、選曲、アレンジなどに不満の声もある[注釈 35]。このアルバムからのシングル「スウィートハート ("Sweetheart Like You") 」はビルボード55位だった。





スペイン・バルセロナでのステージ(1984年)


この頃から時代は多重録音の手法がメインとなり、即興性を重んじるディランもまた時代性との狭間で試行錯誤を繰り返すことになる。そして、1985年、アーサー・ベイカーの手を借り、R&B、ヒップホップを彼流に取り入れた『エンパイア・バーレスク』を発表する。しかし、このアルバムは「エモーショナリー・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」といった曲を含みながらセールス、評価ともに、同年発売のコンピレーション・アルバム『バイオグラフ』の陰に隠れて見過ごされる事態となった。この結果により、ディランはスタジオ・レコーディングに精力を傾けて商業的成功作を作ろうという気持ちを半ば諦めたともいわれる。その後の『ノックト・アウト・ローデッド』(1986年)、『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』(1988年)は消極的なアウトテイク集にすぎないとの批判も一部から寄せられた。『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』には、南米のいくつかの国で "Important Words" が収録されている。



アルバム「サン・シティ」、エイドへの参加


1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分でリード・ボーカルをとった。また同年には大規模チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」に、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズ、ロン・ウッドとともにトリで出演。しかしながら「風に吹かれて」の途中でギターの弦が切れロン・ウッドのギターと交換せざるをえなくなるアクシデントが発生(ロン・ウッドはエア・ギターとなった)。さらに、モニタースピーカーを取り払われ、ステージ裏では他の出演者が大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習しはじめるなど最悪のコンディションで、キースやロンともなかなかかみ合わないなど、彼自身にとってもマスコミの評価の上でも最悪の結果に終わった。またデイランは85年に、南アフリカのアパルトヘイトに抗議するレコード「サン・シティ」にも参加している。同作にはキース・リチャード、リンゴ・スター、ジョージ・クリントン、ボビー・ウーマック、グランドマスター・フラッシュ、マイルス・ディヴィスらも参加していた。


ディランは、次なるチャリティー・コンサート「ファーム・エイド」でトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズにバックを依頼する。このステージを縁として、翌1986年 - 1987年の共演ツアーが実現し、後に大きな話題となるトラヴェリング・ウィルベリーズ結成にもつながってゆく。ハートブレイカーズとの公式音源はビデオ "Hard To Handle" に収録。また "Bob Dylan with The Heartbreakers" 名義で「バンド・オブ・ザ・ハンド」が発表された。助力を仰いだ理由としては、1980年代はセールスも下降気味で、ディラン単独では大きなアリーナやスタジアムでの公演が難しく、サンタナやグレイトフル・デッド等とパッケージを組むしかなくなっていた当時の窮状、という側面もある。しかし、『リアル・ライヴ』(1984年)、『ディラン&ザ・デッド』(1989年)の2枚のライブアルバムは最低の評価を受けた。ディランとジェリー・ガルシアは何年にも渡って、お互いに敬意を払っており、デッドのメンバーもディランの作品を聴いていることを秘密にはしなかった[105]。ディラン流のやり方[注釈 36]は指示を出さず、キーやリズムの指定もないというもので、即興演奏を得意とするデッドには合っていた。


ディランは、トム・ペティつながりでユーリズミックスのデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」 "When The Night Comes Falling From The Sky" のミュージック・ビデオ制作を依頼する。ディランは数年後にジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャンに映像制作を依頼する理由は謎である。


また、1987年に公開された出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評と、この時期のディランの活動はことごとく不調であった。なお、『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサントラにはディランの曲が3曲収録されたが、廃盤となっている。他に、ディズニーの企画盤では "This Old Man" が、ウディ・ガスリーの追悼アルバムには "Pretty Boy Floyd" が収録された。


1987年に、ダニエル・ラノワプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー』を発表していたU2の、ワールド・ツアーのロサンゼルス公演に飛び入り参加。ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌った。ボノは当時、スタジオ録音に悩んでいたディランに「ラノワならディランを上手くプロデュースできるのでは」と発言している。


1988年にはロイ・オービソン、ジョージ・ハリスン、ジェフ・リン、トム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成し、アルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1』をリリース。ツアーも予定されていたが、12月6日にロイ・オービソンが心臓発作で死去したため、ツアーは幻に終わった。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年2月8日に拳銃自殺してしまう。この時期のバンドに関しては未だに詳細不明である。結局、残された4人で2枚目のアルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3』(1990年)をリリースし、バンドは自然消滅した。


1989年には、ボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる『オー・マーシー』を発表。ディラン自身の性来持っている南部志向を存分に引き出したが、セールスは全盛期には遠く及ばなかった。2005年に発売された自伝には当時のレコーディングのことが詳細に記述されている。収録曲「モスト・オブ・ザ・タイム "Most of the Time" 」のミュージック・ビデオには別バージョンが使われており、その音源はプロモーションCDにのみ収録された。



1990年代



ネヴァー・エンディング・ツアー





スウェーデン・ストックホルムでのステージ(1996年)


一連のスタジアムコンサートツアーを終えたディランは、1988年6月7日[106]より小さなホールにおいて最小限のメンバーで即興性を全面に押し出したショウをはじめることにした。このツアーは「ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour) 」と題され、1991年にG・E・スミスのサポートメンバー脱退を以てひとまず完結となった。これ以降のディランのツアーは、それぞれ別のタイトルがつけられているのだが、いつしかファンの間では、以降のディランのステージはおしなべて「ネヴァー・エンディング・ツアー」という名称で呼ばれるようになった。


当初はパンキッシュなアプローチも見せたが、次第にアコギとハーモニカという従来のスタイルを捨て、メロディーラインもアンサンブルもかなぐり捨て、ひたすらリードギターを弾きまくるスタイルになり、そのグルーヴ感を全面に押し出すスタイルを一部の評論家(特に小倉エージら旧来のウォッチャー)は「ボディ・ミュージック」とも形容した。ツアーメンバーには、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」も手がけたG・E・スミス(後述の30周年コンサートでもハウスバンドのギタリストとして、事実上のコンサートマスターであった)、ウィンストン・ワトソン(ジョン・ボーナムばりのパワフルなドラミングで、1990年代半ばのディランサウンドを象徴した)、チャーリー・セクストン(元ソロ歌手)などが入れ替わり立ち代わり参加している。


1990年に『アンダー・ザ・レッド・スカイ』を発表後、ディランはその後7年間自作曲のスタジオ・アルバムを作らなくなった[107]。そのことに関してインタビューで「過去にいっぱい曲を作ったので新曲を作る必要を感じない」と発言している。


その後、1997年までに発表されたものは、2枚のトラディショナル・ソングのカバー・アルバム『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー』と『奇妙な世界に』、未発表曲のコンピレーション、ベスト数枚、MTVライブであった。またウィリー・ネルソンのアルバムへのゲスト参加、映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』への楽曲提供(ポール・アンカのカバー「ユー・ビロング・トゥ・ミー」)、マイケル・ボルトンとの共作「Time, Love And Tenderness」などもあった。


1991年2月、グラミー賞生涯功労賞(Lifetime Achievement)を受賞[108]。授賞式では湾岸戦争開始直後の好戦気分溢れる時期でありながら、「戦争の親玉」をハードロックアレンジで歌い、聴衆の度肝を抜いた。


同年には、それまでの過去の音源からの未発表曲を網羅した『ブートレッグ・シリーズ第1〜3集』を発表した。「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ブラインド・ウィーリー・マクテル ("Blind Willie McTell") 」、「夢のつづき ("Series Of Dreams") 」などの曲でディラン再評価の兆しになった。


1992年10月16日にはレコードデビュー30周年を祝って、マディソン・スクエア・ガーデンで記念コンサートが開催され、多くのアーティストが一堂に会してディランの代表曲を歌った。ディランは当時、過去の人扱いにも似たこの「ボブ・フェスト(ニール・ヤング命名)」にはあまり嬉しそうではなく、ステージ上でも時折ナーバスな表情を見せていた。また、出演者が勢ぞろいして歌った「マイ・バック・ページ」はCDでディランのボーカルが差し替えられていたりと、編集の形跡がみられる。 "Song to Woody" はPAの不備によりアルバム収録はならなかったが、アコギ一本で鬼気迫るリードを弾く「イッツ・オールライト・マ ("It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)") 」は満場の観客を捉えるに充分の一撃であった。


1994年、2月に8年振りに訪日コンサートを行なう。4月には奈良市東大寺境内で行なわれたユネスコ主催の音楽祭『THE GREAT MUSIC EXPERIENCE '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』のため再訪日。東京ニューフィルハーモニック管弦楽団をバックに3曲(鐘をならせ("Ring Them Bells")、アイ・シャル・ビー・リリースド("I Shall Be Released")、激しい雨が降る("A Hard Rain's A-Gonna Fall"))を披露した。そのうちの1曲「はげしい雨が降る」のシンフォニックバージョンがヨーロッパ、オセアニア等でシングルCD「ディグニティ」のカップリング曲として収録されている(国によっては「悲しきベイブ (Renaldo & Clara Version)」に差し替えられている)。


夏には「ウッドストック1994 ("Woodstock '94") 」にも出演。公式アルバムには、ディランの曲からは「追憶のハイウェイ61 ("Highway 61 Revisited") 」だけが収録された。年末にはMTVの公開番組『MTVアンプラグド』に出演。1960年代の曲を中心とした選曲で、評判となる(ディランは当初古いフォーク・ソングをやることに決めていたが、ソニー側が反対した[109])。翌年『MTVアンプラグド』(1995年)のCD・ビデオがリリース。同時期、自身が設立したとされるレーベルから、ジミー・ロジャースのトリビュートアルバムを発表。 "My Blue Eyed Jane" はエミルウ・ハリス、ダニエル・ラノワとの久々の仕事であった。



7年振りのオリジナル・アルバム


1997年、2月に再び訪日。5月に心臓発作で倒れ、一時は危ぶまれたものの快癒し、復帰。この時ディランは「もうすぐエルヴィスに会うのかと本気で思った。」[110][111]と発言している。その直後、三度ラノワと組み、7年ぶりにオリジナル・アルバムを発表することが明らかになり、新曲はもう聴けないと思っていたファンを狂喜させた。これに関し、自分のライブに若いファンが訪れているのを知ったディランが、彼らの為にアルバムを作ろうと思った、と述べている。このアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』は18年振りに全米トップ10に入り、グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞した。同年には、息子であり、アメリカのロック・バンド、ザ・ウォールフラワーズ(The Wallflowers) のフロントマンでもあるジェイコブ・ディランもグラミー賞を受賞しており、親子揃っての受賞となった。


1997年9月、イタリア・ボローニャでおこなわれたカトリック教会のイベント、世界聖体大会で教皇ヨハネ・パウロ2世の前で演奏。教皇は2万人の会衆に対して「風に吹かれて」の歌詞をモチーフとした説教を行った[112]。12月、ホワイトハウスにてケネディ・センター名誉賞を受賞。当時の米国大統領ビル・クリントンは、「ボブほどの衝撃を与えた同世代のクリエイティヴ・アーティストはおそらくほかにいない。」[113][114]と献辞を贈った。1999年6月から10月、ポール・サイモンとアメリカ国内ツアー。ビッグ・ネームふたりの共演に、チケットは高騰した[115]



2000年代



新作のNo.1獲得




イタリア・ボローニャでのステージ(2005年)





ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルで演奏するディラン(2006年)


ディランは2000年代には「霊感がなくなった」と発言した。また彼はワイン・ビジネスにも熱中するようになった。コンサートではかつての名曲は一切歌わず、新曲が歌われた。日本での来日コンサートも数多く開催され、世界での顕彰も増えた。2000年には、映画『ワンダー・ボーイズ』に新曲「シングズ・ハヴ・チェンジド」を提供。2001年に、ゴールデングローブ賞主題歌賞[116]とアカデミー歌曲賞を受賞した[117]


2001年2月から3月にかけて、5度目の訪日公演を行う。直後の9月11日には43枚目となるアルバム『ラヴ・アンド・セフト』を発表。奇しくもアメリカ同時多発テロの発生と同日のリリースであった。21年振りのトップ5アルバムである。


2002年ツアーより、ディランはほとんどギターを弾かなくなり、もっぱらキーボードに専念するようになった。このことに関してディランは、2004年のニューズウィーク誌のインタビューで、ギターでは彼の望んでいるサウンドを形にしきれないこと、専門のキーボードプレイヤーを頼むことも考えたが、結局自分で弾くことにした、と答えている。また、ディランはソロモン・バークが2002年7月に発表したアルバム『ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー』に、自身の未発表曲「ステップチャイルド」を提供した[118]


2004年3月17日にデトロイトで行われた公演で、ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトと共演し、ストライプスの曲をデュエット。また、この年の「Bonnaroo Festival」に出演。「入り江にそって ("Down Along The Cove") 」が、同ライブCDに収録された。


2004年10月には、ディラン自身が筆をとった自伝第1弾『ボブ・ディラン自伝(Chronicles: Volume One)』が出版された[注釈 37]。ショーン・ペンによる朗読CDも発売されている。また、「ディグニティ」のデモバージョン等が収録された同名の2枚組CDも仏Sony BMGよりリリースされた。


2005年7月16日に、オンライン書店アマゾン(Amazon.com)の創立10周年を記念したイベントで、ノラ・ジョーンズと「アイ・シャル・ビー・リリースト」をデュエット、この模様はインターネットでストリーミング配信された。また同年9月から10月はじめには、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム(No Direction Home: Bob Dylan)』がテレビで放映された[119][注釈 38]。ディラン本人の他、デイヴ・ヴァン・ロンク、スーズ・ロトロ、ジョーン・バエズ、アレン・ギンズバーグ、ピート・シーガーら関係の深い人達がインタビューに出演、サウンドトラックは未発表曲で構成され、『ノー・ディレクション・ホーム:ザ・サウンドトラック(ブートレッグ・シリーズ第7集)』としてリリースされた。この作品は、後に劇場公開されて翌年にはDVD化、2006年4月にはピーボディ賞[120]、2007年1月にはコロンビア大学デュ・ポン・アワード[121]を受賞している。


2006年3月からは、ラジオ番組『Theme Time Radio Hour』で、初めてDJを務めている(アメリカの衛星ラジオ局、MX・サテライト・ラジオの「ディープ・アルバム・ロック・チャンネル」にて放送)。この番組は、インターネットでも配信されているため、日本での聴取も可能である。5月、生まれ故郷のダルースでは、ディランゆかりの地を巡る全長1.8マイルの道路に標識が設置され、「ボブ・ディラン・ウェイ」と名付けられた。毎年5月には、誕生日を祝うイベントも開催されている[122]


同年8月29日には、5年ぶりのアルバム『モダン・タイムズ』を発表。このアルバムは、9月16日付ビルボードアルバムチャートで『欲望』以来、30年半ぶりのNo.1を獲得[123]。しかも自身初の初登場No.1を遂げた。また、このアルバムにも収録されている「サムデイ・ベイビー("Someday Baby")」は、ビルボードで98位と23年振りのTop100シングル曲となった。米ローリング・ストーン誌や英Uncut誌は、このアルバムを2006年の年間ベスト・アルバム1位に挙げ[124][125]、2007年2月のグラミー賞では、『モダン・タイムズ』と「サムデイ・ベイビー」で2冠を獲得した。





ノルウェー・オスロでのステージ。右側2番目でキーボードを弾いているのがディラン(2007年)


2007年、2008年の2年間をデビュー45周年とし、「DYLAN ICON」キャンペーンを実施。全キャリアを総括するベスト盤『DYLAN』発売を皮切りに、「我が道を行く("Most Likely You Go Your Way (And I'll Go Mine)") 」のリミックスの発表、「ニューポート・フォーク・フェスティバル」完全版DVD化、『オー・マーシー』から『モダン・タイムス』のアウトテイクやライブ音源等を収録した『テル・テイル・サインズ(ブートレッグ・シリーズ第8集)』のリリース等、ディラン再評価ムーブメントを象徴する動きが見られた。


2007年10月には初の個展となる「The Drawn Blank Series」が、ドイツのケムニッツにて開催された。これは、1989年 - 1992年の間に描いたスケッチ(1994年に画集 "Drawn Blank" として発刊された)をもとに、ディラン自身が新たに手を加えて制作された絵画の展覧会である。2008年にはロンドンでも開催され、以後世界各地で展開されている。日本でも、2010年11月に東京・六本木で開催された。


2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」としてピューリッツァー賞特別賞を受賞した[126]。2009年4月、スタジオ・アルバム33作目となる『トゥゲザー・スルー・ライフ』をリリース。ビルボード200と全英アルバム・チャートの両チャートで初登場1位を記録した[127][128]。10月、売上印税を国際的な慈善機関に寄付するクリスマス・アルバム『クリスマス・イン・ザ・ハート』をリリース[129]。2010年3月には、9年振り6度目の来日公演で、Zepp OsakaとZepp Nagoya、Zepp Tokyoの3か所で行われた[130]


レコードデビュー50周年を迎えた2012年には、アメリカ大統領のバラク・オバマより大統領自由勲章(文民に贈られる最高位の勲章)が授与された。9月には、35作目となる『テンペスト』をリリースした。


2016年10月13日、ノーベル文学賞授与が決定[7]。同月29日に授賞を受け入れると発表した[8]。2週間も沈黙し続けた理由について、「あまりの事に、言うべき言葉が見つからなかった」と答えている[131]



影響・語録など



  • ディランは最高だった」 - ジョン・レノン

  • 自分達が難解な歌詞を曲にできるようになったのは、ボブ・ディランが売れた前例のおかげ」 - スティーリー・ダン

  • ボブ・ディランのような歌詞を、フィル・スペクターのようなサウンドに乗せて、ロイ・オービソンのように歌いたかった」 - ブルース・スプリングスティーン



日本への影響


ボブ・ディラン・ファンのフォーク歌手は60年代から岡林信康、高田渡、加川良などかなりの人数がいた。だが、レコードの売り上げは伸びなかった。レコードの売り上げが伸びるようになった切っ掛けとなったのは、ボブ・ディランの影響を強く受けた吉田拓郎が[132][133]、1970年代初頭にラジオの深夜放送や音楽誌のインタビューなどでボブ・ディランを熱心に語ったことが一つの原因であるといわれている[134][135][136]。それまでボブ・ディランは知名度はあっても、レコードは売れなかったが[134][135]、この影響でCBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたといわれる[137]。1973年には吉田拓郎の選曲でソニーからボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』が発売された[138]。みうらじゅんや浦沢直樹は、吉田拓郎を通してボブ・ディランを知ったと語っている[134][136][139][140]。ガロの「学生街の喫茶店」の歌詞にも「ボブ・ディラン」が登場していた。また村上春樹の世界の終りとハードボイルド・ワンダーランドなどの文学作品にも登場する。



ディランに影響を受けたミュージシャン



  • ブルース・スプリングスティーン

  • マーク・ノップラー

  • トム・ペティ

  • ジミ・ヘンドリックス

  • パティ・スミス

  • 岡林信康

  • 吉田拓郎

  • 井上陽水

  • 桑田佳祐


ほか多数。



ディラン・ファンの著名人



  • ピーター・バラカン

  • 湯浅学

  • みうらじゅん



日本公演




  • 1978年
    2月20日・21日・23日・28日・3月1日・2日・3日・4日:日本武道館、24日・25日・26日:大阪・松下電器体育館



  • 1986年
    3月5日・10日:日本武道館、6日:大阪城ホール、8日:愛知県体育館、



  • 1994年
    2月5日:仙台サンプラザ、7日:横浜文化体育館、8日・9日:日本武道館、11日:名古屋センチュリーホール、12日:大阪城ホール、14日・15日:九州厚生年金会館、16日:広島厚生年金会館、18日:浦和市文化センター、20日:NHKホール




  • 5月20日・21日・22日:奈良・東大寺


  • 1997年
    2月9日・10日・11日:東京国際フォーラムホールA、13日:倉敷市民会館、14日:福岡サンパレス、16日:名古屋センチュリーホール、17日:大阪・フェスティバルホール、18日:大阪厚生年金会館、20日:仙台サンプラザ、22日:秋田県民会館、24日:北海道厚生年金会館



  • 2001年
    2月25日:大宮ソニックシティ、27日:仙台サンプラザ、28日:秋田県民会館、3月2日:パシフィコ横浜国立大ホール、3日・4日:東京国際フォーラムホールA、6日・7日:大阪厚生年金会館、9日:福岡サンパレス、10日:広島厚生年金会館、12日:名古屋市公会堂、13日:アクトシティ浜松大ホール、14日:日本武道館



  • 2010年
    3月11日・12日・13日・15日・16日:Zepp Osaka、18日・19日:Zepp Nagoya、21日・23日・24日・25日・26日・28日・29日:Zepp Tokyo



  • 2014年
    3月31日・4月1日・3日・4日・5日・7日・8日・9日・10日:Zepp DiverCity Tokyo、4月13日・14日:Zepp Sapporo、4月17日・18日:Zepp Nagoya、4月19日:Zepp Fukuoka、4月21日・22日・23日:Zepp Namba、



  • 2016年
    4月4日・5日・6日:Bunkamuraオーチャードホール (東京都)、4月9日:東京エレクトロンホール宮城(宮城県)、4月11日・12日:フェスティバルホール(大阪府)、4月13日:フェスティバルホール(大阪府)(追加公演)、4月15日:名古屋センチュリーホール(名古屋国際会議場 センチュリーホール)(愛知県)、4月18日・19日:Bunkamuraオーチャードホール (東京都)、4月21日・22日:Bunkamuraオーチャードホール(東京都)(再追加公演)、4月23日:東京ドームシティホール(東京都)(再々追加公演)、4月25日・26日:Bunkamuraオーチャードホール (東京都)、4月28日:パシフィコ横浜 国立大ホール(神奈川県)[注釈 39]



  • 2018年
    7月29日:FUJI ROCK FESTIVAL 苗場スキー場(新潟県)[注釈 40]




ディスコグラフィ




受賞各賞




関連項目




  • 学生街の喫茶店(ガロのシングル)

  • ジェイコブ・ディラン



脚注


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注釈





  1. ^ 「家を出たそのときは、ロバート・アレンという名を使うつもりでいた。わたしの感覚では、それがわたしの名前だった―それがわたしに両親から与えられた名前だった。」


  2. ^ 「出生証明に記載された名前はロバート・ジンマーマン」


  3. ^ 「彼の本名がロバート・アレン・ジマーマンとわかったのは、徴兵カードを見たときだ。」


  4. ^ 「一九六二年に彼は法律的な手続きを取って自分の姓をジンマーマンからディランに変えたのである。」


  5. ^ 「ボブは、マンハッタンのダウンタウンにある最高裁判所へ出かけて行った。そこで、自分の名前を、合法的にボブ・ディラン、と変えたのだった。」


  6. ^ 「ボブ・ディランは、1941年5月24日、ミネソタ州デュルースに生まれた。」


  7. ^ 「出生証明はスペリオル湖の岸にある港町ドゥルースで発行されている。」


  8. ^ 「わたしはその地帯にあるヒビングで育ったが、生まれたのはそこから東に七十五マイル行ったインディアンがギッチェ・グミーと呼ぶ大きな湖、スペリオル湖のほとりにあるデュルースだった。」


  9. ^ 「五月二一日」と記述。


  10. ^ 「祖母はロシア南部の港町、オデッサからアメリカにやってきた。(中略)もともと祖母はトルコの出身で、対岸にあるトラブゾンから黒海(中略)をわたってオデッサにやって来た。」


  11. ^ 「一九四六年の二月、ボブの弟、デイヴィッド・ベンジャミン・ジママンが誕生した。」


  12. ^ 「六歳の時、一家はカナダ国境近くの、メサービ・アイアン・レンジにある、ヒビングに移った。」


  13. ^ 「しかし(父が)ポリオにかかって体が不自由になり、やむなくデュルースを離れた―仕事をやめて母の家族が住んでいたヒビングに引っ越したのには、そういう理由があった。」


  14. ^ 「八歳か九歳になった時、この少年はもうピアノを弾いていた―正規のレッスンを受けたわけではなく、家にあったピアノを、ただ叩きまくっていただけで、独習なのだった。」


  15. ^ 「ジママン家がガルブランソンの小型ピアノを買い、ボブが音楽を演奏するようになったのもこのころだ。(中略)そして独学でピアノを学び、譜面の読み方を学ぶこともなかった。」


  16. ^ 「わたしの宇宙を支配するのはウディ・ガスリーだったが、その前はハンク・ウィリアムズが好きだった。」


  17. ^ 「わたしはヒッチハイクでファーゴに行って話をし、シャドウズと呼ばれていたヴィーのバンドにピアノ弾きとして入れてもらい、教会の地下室などでおこなわれた地元のショーで演奏した。」


  18. ^ 「大学の公式記録によれば、ロバート・アレン・ツィンマーマンは一九五九年の九月から、一九六〇年の秋までの三学期間、授業に出席したことになっている。しかし、実際には、最初の六ヶ月通うのも苦痛で、そのあとはほとんど完全に、授業に出席するのを止めてしまった。」


  19. ^ 「最初にしたのは、持っていても意味のないエレクトリックギターをアコースティックのマーティン00-17に替えることだった。店員が同額でギターを引き取ってくれたので、わたしはケース入りのマーティンを持って店を出た。」


  20. ^ 「ツインシティーズで最初に名前を訊かれたとき、わたしは考える前に本能的、自動的に「ボブ・ディラン」と言っていた。」


  21. ^ 「そんなとき、偶然、ディラン・トーマスの詩を読んだ。ディランとアレンは音が似ている。ロバート・ディラン。ロバート・アレン。どちらにも決めかねた-(中略)わたしはふだん、ロバートかボビーと呼ばれていたが、ボビー・ディランでは響きが陽気すぎるように思えたし、すでに(中略)ほかにも大勢のボビーがいた。ボブ・ディランならば、ボブ・アレンよりも見てくれも響きもいい。」


  22. ^ 「実際には、彼の親戚にディリオンはいない。」


  23. ^ このシングルは1967年にベネルックス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)で公式リリースされたのみであったが後に『バイオグラフ』が1997年に再編集された際に初回盤に収録されていたAlternate Versionに代わりSingle Versionのステレオミックスが収録された。c/wの「コリーナ、コリーナ (Corrina, Corrina)」もアルバム未収録の別バージョンである。


  24. ^ 『ニューポート・ブロードサイド』(1964年)では「Ye Playboys And Ye Playgirls」が発表された。日本では中川五郎がカバー。


  25. ^ タウン・ホールとカーネギー・ホールでのコンサートは、ライブ・アルバム Bob Dylan In Concert としてリリースされる予定だったが見送りとなった。音源の一部は、後に新譜の特典 Live at Carnegie Hall 1963(2005年)として配布された。


  26. ^ 『ブロンド・オン・ブロンド』の日本版LPはキーボードがフィーチュアされた幻の「定本」ミックスとする説もある。


  27. ^ これはドラッグソング(もしくは放送倫理規定に抵触するおそれのある曲)のNo.1を避けるための意図的な順位操作と言われている。他の例としてはドノヴァンの「メロー・イエロー (Mellow Yellow)」、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンの「ファイアー (Fire)」、ナポレオン14世の「狂ったナポレオン、ヒヒ、ハハ… (They're Coming To Take Me Away, Ha-Haaa!)」などがいずれも2位止まりである。


  28. ^ 1998年に発売された『ロイヤル・アルバート・ホール』は、実際にはマンチェスター、フリー・トレード・ホールの公演が収録されている。この公演は、会場の表記を間違えたブートレグが発売されて有名になっていたため、正規盤としてリリースされた際にも、引用符を付けて "The "Royal Albert Hall" Concert のタイトルであえて名残を残したのである。なお、実際のロイヤル・アルバート・ホール公演の客席にはビートルズ、ローリング・ストーンズ、チャールズ皇太子がいたということから、当時の関心の高さが伺える。なお、会場側の機材の不備により、ミュージシャン側がPAシステムを持ち込むようになったのはこのツアーが初めてである。


  29. ^ なお、あまりのブーイングの激しさに、途中からレヴォンはツアーメンバーを抜け、ドラムはミッキー・ジョーンズに代わっている。


  30. ^ ツアーの終盤にはその「ライク・ア・ローリング・ストーン」はより攻撃的な歌詞を持つ「淋しき四番街」に差し替えられた。


  31. ^ 「人気の面でも創作性の面でも絶頂期にいた」


  32. ^ ウィリアムズ 『ボブ・ディラン〜瞬間の轍 1』、p. 263。「実際は、怪我は軽いものだった。」


  33. ^ 「いったい何が起きたのか正確なことは謎につつまれたままだ。」


  34. ^ ジョン・レノンは "Serve Yourself" というアンサーソングを録音。ストーンズらとも非難の応酬になった。


  35. ^ ノップラーはミキシングが一段落した段階で自分の仕事に戻ったのであり、仕事を途中で投げ出したわけではない。そのノップラーミキシングによるバージョンの、ブートレグはあり程度評価された。後日、ノップラーは「あのアルバムは、自分が最後まで手掛けることができれば、もっといい出来になるはずだった」ということをインタビューで述懐している。このことにより二人の不仲も心配されたが、数年後、再度同じステージに立つ機会があった。


  36. ^ エミルー・ハリス、エリック・クラプトンなど彼のレコーディング、リハーサルに参加した者は同じ感想を漏らす。「ディランはメンバーに指示を与えない。楽譜もリードシートもなければ、キーやリズムの指定もない。私達は彼の口と手の動きに最大限の注意を払わなくてはいけない。それが一度きりのセッションだからだ」。


  37. ^ 日本語版は 『ボブ・ディラン自伝』 菅野ヘッケル訳、ソフトバンククリエイティブ、2005年7月19日。ISBN 4-7973-3070-8。


  38. ^ 日本でのテレビ初公開は2005年11月23日。


  39. ^ 来日100公演目。


  40. ^ 最終日7月29日に、ヘッドライナーとして登場。




出典





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外部リンク








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  • Sony Music Online Japan : ボブ・ディラン - ソニーミュージック公式サイト


  • 映画『ノー・ディレクション・ホーム』 - 公式サイト


  • BOB DYLAN - 2010来日記念スペシャル・サイト













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