沖縄県立那覇高等学校
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沖縄県立那覇高等学校 | |
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過去の名称 | 沖縄県立中学校分校 沖縄県立第二中学校 那覇連合教育委員会立那覇高等学校 琉球政府立那覇高等学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 沖縄県 |
学区 | 那覇学区 |
校訓 | 和衷協同・積極進取 |
設立年月日 | 1910年 |
創立記念日 | 10月11日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
高校コード | 47103J |
所在地 | 〒900-8555 |
沖縄県那覇市松尾一丁目21番44号 北緯26度12分42.14秒 東経127度41分6.88秒 / 北緯26.2117056度 東経127.6852444度 / 26.2117056; 127.6852444座標: 北緯26度12分42.14秒 東経127度41分6.88秒 / 北緯26.2117056度 東経127.6852444度 / 26.2117056; 127.6852444 | |
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沖縄県立那覇高等学校(おきなわけんりつ なはこうとうがっこう, Okinawa Prefectural Naha High School)は、沖縄県那覇市松尾一丁目にある県立高等学校。
目次
1 概要
2 沿革
3 著名な卒業生
4 その他
5 関連項目
6 外部リンク
概要
- 歴史
1910年(明治43年)に開校した「沖縄県立中学校(現・沖縄県立首里高等学校)分校」を前身とする。2010年(平成22年)に創立100周年を迎えた。
- 設置課程・学科
全日制課程 普通科
- 校訓
和衷協同・積極進取
- 校章
校名の「那」の文字の隷書体と、2枚の葉(ハ)の絵を組み合わせ、中央に「高」の文字(旧字体)を置き、那覇高を表している。
- 校歌
5番まであり、4番に校名の「那覇高校」が登場する。作詞は真栄田義見。
- 同窓会
「城岳同窓会」と称している。
沿革
- 1910年(明治43年)4月1日 - 「沖縄県立中学校分校」として創立。
1911年(明治44年)4月1日 - 「沖縄県立第二中学校」として独立。北谷村嘉手納(現:嘉手納町)に移転。
1919年(大正8年)4月1日 - 那覇市二中前楚辺原1番地(現在地)に移転。
1944年(昭和19年)10月10日 - アメリカ軍の空襲(いわゆる「十・十空襲」)により、校舎を焼失。
1945年(昭和20年)
3月26日 - 沖縄戦勃発。二中生も鉄血勤皇隊に参加し多数の生徒が戦死。御魂は校舎を見下ろす「城岳公園」に奉られている。
6月23日 - 沖縄戦終結。沖縄は米軍占領下に置かれ、事実上の廃校となる。
1947年(昭和22年)
9月30日 - 首里高等学校那覇分校の設置が認可される。
10月1日 - 那覇市内天妃小学校跡地を仮校舎に「首里高等学校那覇分校」が復興。定員は1年~4年までの581名。
10月11日 - 開校式典を挙行し、この日を創立記念日とする。
1948年(昭和23年)2月27日 - 「那覇高等学校」として独立。
1949年(昭和24年)
- 4月1日 - 学制改革(6・3・3制実施)により、新制高等学校として発足。1年生の募集を停止し、2・3・4年生をそれぞれ新制高校の1・2・3年とする。
9月3日 - 旧沖縄県立第二中学校敷地(現在地)に移転。
1952年(昭和27年)10月1日 - 定時制課程を設置。
1953年(昭和28年)9月5日 - 旧沖縄県立第二中学校同窓会と合併し、「城岳会」となる。
1960年(昭和35年)
- 3月 - 第32回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)出場。
- 4月1日 - 那覇連合教育委員会立那覇高等学校から「琉球政府立那覇高等学校」に改称。
1966年(昭和41年)4月1日 - 衛生看護科を設置。
1972年(昭和47年)5月15日 - 沖縄県の日本復帰に伴い、「沖縄県立那覇高等学校」(現校名)と改称。
1973年(昭和48年)2月10日 - 総合体育館が完成。
1980年(昭和55年)3月31日 - 定時制課程を廃止。
1996年(平成8年)3月31日 - 家政科を廃止。
2000年(平成12年)8月 - 第82回全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場。左投げの捕手および三塁手や、複数いた変則フォームの打者が話題となる。
2004年(平成16年)3月31日 - 衛生看護科を廃止。
2007年(平成19年)12月 - 第86回全国高等学校サッカー選手権大会に出場。全国ベスト16。
著名な卒業生
小那覇舞天(T4卒) - 芸人、歯科医師
比嘉秀平(T8卒) - 琉球政府行政主席
池宮城秀意(T13卒) - 『琉球新報』社長
稲嶺一郎(T13卒) - 参議院議員 ※S27卒の稲嶺恵一は息子
瀬長亀次郎(T15卒) - 衆議院議員、那覇市長
山田実(S10卒) - 写真家
伊江朝雄(S14卒) - 参議院議員(沖縄県出身者初の国務大臣)、伊江御殿
西銘順治(S15卒) - 沖縄県知事、衆議院議員、那覇市長 ※S43卒の西銘順志郎、S48卒の西銘恒三郎は息子(長男と三男)
大城立裕(S18卒) - 作家
小渡三郎(S19卒) - 衆議院議員
大浜方栄(S20卒) - 参議院議員
伊佐千尋(S17入学) - 作家- (戦争により二中も無くなり、昭和17年~昭和19年入学者に卒業者はなし)
仲村正治(S24卒) - 衆議院議員
稲嶺恵一(S27卒) - 元沖縄県知事 ※T13卒の稲嶺一郎は父
安仁屋政昭(S28卒) - 学者、 沖縄国際大学名誉教授
仲井眞弘多(S32卒) - 前沖縄県知事 ※S2卒の仲井眞元楷は父
池宮正治(S34卒) - 学者、 琉球大学名誉教授 文学博士
来間泰男(S35卒) - 学者、 沖縄国際大学経済学部教授
上原正三(S 卒) - 脚本家
東門美津子(S36卒) - 衆議院議員、前沖縄市長
勝方恵子(日大二高に編入学) - 学者、早稲田大学国際教養学部教授
赤嶺政賢(S41卒) - 衆議院議員
西銘順志郎(S43卒) - 参議院議員 ※S15卒の西銘順治は父
翁長雄志(S45卒) -沖縄県知事、 元那覇市長
屋良朝助(S45卒) - かりゆしクラブ党首
南風原朝和(S47卒) - 東京大学大学院教育学研究科教授
我部政明(S48卒) - 学者、琉球大学法文学部教授 総合社会システム学科
多喜ひろみ(S48卒) - エフエム沖縄アナウンサー
西銘恒三郎(S48卒) - 衆議院議員 ※S15卒の西銘順治は父
喜屋武靖(S57卒) - 映画監督 脚本家
松島泰勝(S57卒) - 学者 、龍谷大学経済学部教授、琉球民族独立総合研究学会共同代表
阿佐慶涼子(S59卒) - 沖縄テレビ放送アナウンサー
屋嘉宗彦(S65卒) - 学者 、法政大学沖縄文化研究所所長
比屋定篤子(H2卒) - 歌手
平良いずみ(H7卒) - 沖縄テレビ放送アナウンサー
長浜之人(H7卒) - キャン×キャン お笑い芸人
尚玄(H9卒) - ファッションモデル、俳優
玉城俊幸(H9卒) - キャン×キャン お笑い芸人
大城良太(H19卒) - 沖縄テレビ放送アナウンサー
その他
- かつて県立第二中学校を略して「二中」と呼んでいたことから、当高校正門側(南側)に「二中前」という地名が存在する。
- 県立第二中学校時代、志喜屋孝信(後の沖縄諮詢会委員長・沖縄民政府知事)が校長(大正13年=1924年~昭和11年=1936年)を務めた。
- 県立第二中学校時代、比嘉秀平(後の琉球政府行政主席)が教鞭をとっていた。
- 県立第二中学校時代、許田重発(空手家)が唐手部初代師範をつとめた。
- 県立那覇高校の歴代校長に、真栄田義見がいる。
- 県立那覇高校の教員として、島田寛平(画家)が勤務していた(昭和22年=1947年)~昭和39年=1964年)。1948年(昭和23年)那覇高校絵画同好会「新緑会」を結成。那覇高校の校章は島田寛平のデザイン。
- 県立那覇高校の教員として、佐久本嗣男(空手家)が勤務していた。
- 県立那覇高校の教員として、嘉手納宗徳(学者)が勤務していた。
関連項目
- 沖縄県高等学校一覧
- 旧制中学校
- ナンバースクール
- 那覇高校前交差点
外部リンク
- 沖縄県立那覇高等学校
- 城岳同窓会
- 関東城岳同窓会