近江国


















































近江国

地図 令制国 近江国.svg
-近江国
-東山道
別称
江州(ごうしゅう)
所属
東山道
相当領域
滋賀県
諸元
国力
大国
距離
近国

郡・郷数

12郡93郷
国内主要施設
近江国府
滋賀県大津市(近江国庁跡)
近江国分寺
1.(推定)滋賀県甲賀市(紫香楽宮跡)
2.(推定)滋賀県大津市野郷原
3.(推定)滋賀県大津市光が丘町
近江国分尼寺
(未詳)
一宮
建部大社(滋賀県大津市)
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近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。




目次






  • 1 「近江」の名称と由来


  • 2 沿革


    • 2.1 近世以降の沿革




  • 3 国内の施設


    • 3.1


    • 3.2 国府


    • 3.3 国分寺・国分尼寺


    • 3.4 神社




  • 4 地域


    • 4.1


    • 4.2 江戸時代の藩




  • 5 人物


    • 5.1 国司


      • 5.1.1 近江守


      • 5.1.2 近江介


      • 5.1.3 近江掾




    • 5.2 守護


      • 5.2.1 鎌倉幕府


      • 5.2.2 室町幕府




    • 5.3 戦国大名


    • 5.4 武家官位としての近江守


      • 5.4.1 江戸時代以前


      • 5.4.2 江戸時代






  • 6 近江国の合戦


  • 7 その他


  • 8 関連氏族


  • 9 脚注


  • 10 参考文献


  • 11 関連項目





「近江」の名称と由来


近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される[1]。国名は、琵琶湖を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない[2]。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。



沿革




近世以降の沿革



  • 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(1,597村・858,618石7斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。


    • 滋賀郡(110村・46,138石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、門跡領、膳所藩、宮川藩、下野佐野藩、山城淀藩、河内狭山藩


    • 栗太郡(125村・70,472石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、膳所藩、三上藩、上野前橋藩、丹後宮津藩、河内狭山藩、伊勢菰野藩、和泉伯太藩


    • 野洲郡(99村・68,554石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、公家領、施薬院領、西大路藩、大溝藩、三上藩、宮川藩、山上藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩、上野前橋藩、和泉伯太藩、陸奥仙台藩[3]


    • 甲賀郡(140村・78,776石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、水口藩、山上藩、宮川藩、三上藩、膳所藩、山城淀藩、武蔵川越藩、丹後宮津藩、河内狭山藩


    • 蒲生郡(235村・139,733石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、公家領、門跡領、西大路藩、水口藩、宮川藩、山上藩、大和郡山藩、武蔵川越藩、陸奥仙台藩[3]、尾張名古屋藩、山城淀藩、丹後宮津藩、上野前橋藩、讃岐丸亀藩、和泉伯太藩、丹後峰山藩


    • 神崎郡(86村・48,583石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、山上藩、大和郡山藩


    • 愛知郡(117村・64,845石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、宮川藩


    • 犬上郡(122村・62,137石余) - 彦根藩


    • 坂田郡(178村・92,105石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、宮川藩、水口藩、山上藩、大和郡山藩、出羽山形藩、紀伊和歌山藩、讃岐丸亀藩


    • 浅井郡(148村・76,876石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、旗本領、彦根藩、膳所藩、山上藩、大和郡山藩、山城淀藩、三河吉田藩、出羽山形藩


    • 伊香郡(71村・36,243石余) - 幕府領(大津代官所・彦根藩預地)、彦根藩、膳所藩、山城淀藩、上総飯野藩、三河吉田藩


    • 高島郡(166村・74,151石余) - 幕府領(大津代官所)、旗本領、大溝藩、膳所藩、大和郡山藩、越前鞠山藩、武蔵川越藩、若狭小浜藩、和泉伯太藩、加賀藩、山城淀藩、三河吉田藩、丹波福知山藩




  • 慶応4年


    • 3月7日(1868年3月30日) - 大津代官所に大津裁判所が設置され、幕府領を管轄。


    • 4月28日(1868年5月20日) - 大津裁判所の管轄地域が大津県の管轄となる。


    • 6月4日(1868年7月23日) - 戊辰戦争の処分により仙台藩が減封となり、郡内の領地が大津県の管轄となる。



  • 明治元年12月22日(1869年2月3日) - 寺社領のうち滋賀郡の滋賀院領が大津県の管轄となる。

  • 明治2年


    • 6月17日(1869年7月25日) - 版籍奉還により、加賀藩(通称)の正式名称が金沢藩となる。


    • 6月19日(1869年7月27日) - 版籍奉還により、吉田藩が改称して豊橋藩となる。


    • 6月24日(1869年8月1日) - 版籍奉還により、鞠山藩(通称)の正式名称が敦賀藩となる。

    • 彦根藩が戊辰戦争の戦功によって加増され、彦根藩預地のうち坂田郡および愛知郡の一部が彦根藩領となる。



  • 明治3年

    • 2月 - 旗本領・狭山藩領[4]が大津県の管轄となる。


    • 3月23日(1870年4月23日) - 敦賀藩が改称して鞠山藩となる。


    • 4月14日(1870年5月14日) - 三上藩が藩庁の移転により和泉吉見藩となる。


    • 7月17日(1870年8月13日) - 山形藩が転封により近江朝日山藩となる。それにともない坂田郡・浅井郡で領地替えが行われ、坂田郡の山形藩領と浅井郡の山上藩領が消滅。浅井郡の膳所藩領が滋賀郡の大津県の管轄地域に転封。


    • 9月17日(1870年10月11日) - 鞠山藩が小浜藩に編入。

    • 10月 - 丸亀藩[5]領・飯野藩領が大津県の管轄となる。

    • このころ和歌山藩領が大津県の管轄となる。



  • 明治4年

    • 4月 - 彦根藩預地が大津県の管轄となる。


    • 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が膳所県宮川県水口県山上県西大路県彦根県朝日山県および佐野県、淀県、前橋県、宮津県、菰野県、伯太県、川越県、郡山県、名古屋県、豊橋県、峰山県、小浜県、金沢県、福知山県、吉見県の飛地となる。

    • 10月 - 大溝藩領[6]・公家領・門跡領・寺社領が大津県の管轄となる。


    • 10月28日(1871年12月10日) - 第1次府県統合により、前橋県の管轄地域が群馬県の管轄となる。


    • 11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により、宮津県・峰山県の管轄地域が豊岡県の管轄となる。


    • 11月14日(1871年12月25日) - 第1次府県統合により、佐野県の管轄地域が栃木県、川越県の管轄地域が入間県の管轄となる。


    • 11月15日(1871年12月26日) - 第1次府県統合により、豊橋県の管轄地域が額田県の管轄となる。


    • 11月22日(1872年1月2日) - 第1次府県統合により、滋賀郡・栗太郡・甲賀郡・野洲郡・蒲生郡が大津県、神崎郡・愛知郡・犬上郡・坂田郡・浅井郡・伊香郡・高島郡が長浜県の管轄となる。



  • 明治5年


    • 1月19日(1872年2月27日) - 大津県が改称して滋賀県となる。


    • 2月27日(1872年4月4日) - 長浜県が改称して犬上県となる。


    • 9月28日(1872年10月30日) - 全域が滋賀県の管轄となる。





国内の施設





近江国は畿内に隣接し、これまでに3度天皇の住居(宮)が構えられている。




  • 大津宮(大津京) - 天智天皇-弘文天皇


  • 紫香楽宮 - 聖武天皇

  • (伝)保良宮 - 淳仁天皇、陪都として


古事記,日本書紀には志賀高穴穂宮の存在が記述されており、景行天皇,成務天皇,仲哀天皇が都したとされている。



国府


栗太郡勢多に所在。1964年(昭和39年)に現在の大津市三大寺で遺跡が発見された。国府の遺跡が発見された最初の例である。



国分寺・国分尼寺


国分僧寺は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、紫香楽宮跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、820年(弘仁11年)に国昌寺跡(大津市国分)に移された。ここでは最澄が若き日に修学しているとされる。国分尼寺跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。



神社



延喜式内社

『延喜式神名帳』には、大社13座10社・小社142座132社の計155座142社が記されている(近江国の式内社一覧を参照)。大社10社は以下に示すもので、全て名神大社である。




  • 滋賀郡


    • 小野神社二座

    • 日吉神社 (現 日吉大社)




  • 栗太郡

    • 佐久奈度神社

    • 建部神社 (現 建部大社)




  • 甲賀郡

    • 川田神社二座



  • 野洲郡

    • 御上神社

    • 兵主神社 (現 兵主大社)




  • 蒲生郡
    • 奥津嶋神社 - 奥津嶋神社または大嶋神社奥津嶋神社に比定。



  • 伊香郡
    • 伊香具神社



  • 高嶋郡

    • 水尾神社二座




総社・一宮以下


  • 総社 不明

  • 一宮 建部大社

  • 二宮 日吉大社 - 比叡山延暦寺と関係が深く、一宮を凌ぐほどの力があったと見られている。

  • 三宮 多賀大社または御上神社



地域





Districts of Omi province.png


  • 滋賀郡

  • 栗太郡

  • 甲賀郡

  • 野洲郡

  • 蒲生郡

  • 神崎郡

  • 愛知郡

  • 犬上郡

  • 坂田郡

  • 浅井郡

  • 伊香郡

  • 高島郡



江戸時代の藩












































































近江国の藩の一覧
藩名 居城 藩主

彦根藩

佐和山城
(1600年~1606年)
彦根城
(1606年~1871年)
井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石)

膳所藩

膳所城

戸田家(1601年~1616年、3万石)

本多家(1616年~1621年、3万石)

菅沼家(1621年~1634年、3万1千石)

石川家(1634年~1651年、7万石→5万3千石)

本多家(1651年~1671年、7万石)



水口藩

水口城

加藤家(1682年~1695年、2万石)

鳥居家(1695年~1712年、2万石)

加藤家(1712年~1871年、2万5千石)



大溝藩

大溝陣屋

分部家(1619年~1871年、2万石)



仁正寺藩

仁正寺陣屋

市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石)



山上藩
山上陣屋

安藤家(1604年~1695年、1万石)

稲垣家(1698年~1871年、1万3千石)



近江宮川藩
宮川陣屋

堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石)



三上藩
三上陣屋

遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石)



堅田藩
堅田陣屋

堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石)

下野佐野藩に転封、堅田藩は廃藩



朽木藩
朽木陣屋

朽木稙綱(1636年~1648年、1万石)

朽木家は下野鹿沼藩に転封、朽木藩は廃藩



大森藩
大森陣屋

最上義俊(1622年~1632年、1万石)

嗣子・義智が幼年のため5千石の交代寄合とされ、大森藩は廃藩



近江高島藩


佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石)

信濃飯山藩に加増転封、近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、後に佐久間氏は無嗣改易となり近江高島は天領となった



近江小室藩
小室陣屋

小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石)

不正のため改易・廃藩




人物



国司



近江守


『続日本紀』




  • 多治比水守-和銅元年(708年)任官


  • 采女比良夫-和銅3年(710年)任官


  • 藤原武智麻呂-和銅5年(712年)任官[7]


  • 長田王-霊亀2年(716年)任官


  • 甘南備神前-天平13年(741年)任官


  • 藤原仲麻呂-天平17年(745年)任官


  • 藤原縄麻呂-天平神護2年(766年)任官


  • 藤原家依-宝亀2年(771年)任官


  • 高倉福信-宝亀7年(776年)任官


  • 藤原種継-天応元年(781年)任官


  • 多治比長野-延暦5年(786年)


『日本後紀』




  • 大中臣諸魚-延暦8年(789年)任官

  • 紀勝長


  • 巨勢野足-大同3年(808年)任官


  • 藤原貞嗣-弘仁元年(810年)任官

  • 藤原継業


  • 藤原緒嗣-弘仁3年(812年)任官

  • 秋篠安人


  • 良岑安世-弘仁7年(816年)


『続日本後紀』




  • 源信-承和2年(835年)任官


  • 源明-承和6年(839年)任官


  • 源融-承和9年(842年)任官,承和14年(847年)任官


  • 南淵永河-承和12年(845年)任官


  • 藤原岳守-承和15年(848年)任官


『日本文徳天皇実録』




  • 小野篁-仁寿元年(851年)


  • 藤原助-仁寿三年(853年)正月


  • 藤原氏宗-仁寿三年(853年)7月


  • 源冷-天安元年(857年)


『日本三代実録』



  • 源融-貞観2年(860年)


  • 春澄善縄-貞観6年(864年)

  • 源多


  • 在原善淵-貞観10年(868年)


  • 南淵年名-貞観12年(870年)

  • 源勤

  • 菅原是善

  • 在原行平

  • 忠貞王


  • 源是忠-仁和元年(885年)






  • 藤原有実 - 延喜11年(911年)任官

    • 藤原玄上 - 延喜16年(916年)、延喜20年(920年)任官(権守)



  • 藤原玄上 - 延長5年(927年)任官


  • 藤原師成 - 康平5年(1062年)任官


  • 源隆俊 - 康平5年(1062年)任官


  • 佐々木秀綱 - 延元3年/暦応元年(1338年)任官



近江介




  • 藤原有実 - 貞観15年(873年)任官


  • 藤原恒佐 - 延喜7年(907年)任官


  • 源隆俊 - 長久2年(1041年)任官

  • 源隆俊 - 永承3年(1048年)還任


  • 藤原顕家 - 永承7年(1052年)任官



近江掾



  • 藤原有相 - 承平2年(932年)任官


守護



鎌倉幕府



  • 1187年~1191年 - 佐々木定綱

  • 1193年~1205年 - 佐々木定綱

  • 1205年~1221年 - 佐々木広綱

  • 1221年~1233年 - 佐々木信綱

  • 1245年~1252年 - 佐々木泰綱

  • 1275年~1310年 - 佐々木頼綱

  • 1310年~1333年 - 佐々木時信



室町幕府



  • 1335年 - 1336年 - 六角氏頼

  • 1336年 - 1338年 - 京極高氏(佐々木道誉)

  • 1338年 - 1340年 - 京極秀綱(佐々木秀綱)

  • 1340年 - 1351年 - 六角氏頼

  • 1351年 - 山内信詮[8]

  • 1351年 - 六角直綱

  • 1352年 - 1353年 - 六角義信

  • 1354年 - 1370年 - 六角氏頼

  • 1370年 - 1377年 - 六角高経(後の京極高詮)[9]

  • 1377年 - 1411年 - 六角満高

  • 1411年 - ? - 青木持通

  • 1412年 - 1416年 - 六角満高

  • 1416年 - 1441年 - 六角満綱

  • 1441年 - 1445年 - 六角持綱

  • 1445年 - 1456年 - 六角久頼

  • 1456年 - 1458年 - 六角高頼(1度目)(六角政頼?)

  • 1458年 - 1460年 - 六角政堯(1度目)

  • 1460年 - 1468年 - 六角高頼(2度目)

  • 1468年 - 1469年 - 六角政堯(2度目)

  • 1469年 - 1470年 - 京極持清

  • 1470年 - 1471年 - 京極孫童子丸

  • 1471年 - 1471年 - 六角政堯(3度目)

  • 1471年 - 1473年 - 六角虎夜叉

  • 1473年 - 1478年 - 京極政高(京極政経)

  • 1478年 - 1487年 - 六角高頼(3度目)

  • 1488年 - 1489年 - 結城尚豊

  • 1489年 - 六角高頼

  • 1490年 - 1492年 - 細川政元

  • 1492年 - 1493年 - 六角虎千代

  • 1493年 - 1494年 - 山内就綱

  • 1495年 - ? - 六角高頼

  • 1507年 - ? - 六角氏綱

  • 1508年 - ? - 京極高清

  • 1511年 - 1518年 - 六角氏綱

  • 1518年 - 1552年 - 六角定頼

  • 1552年 - ? - 六角義賢



戦国大名




  • 六角氏(観音寺城):守護大名から近江南部の戦国大名へ。1568年、観音寺城の戦いで織田信長に敗れて以降衰退


  • 京極氏(上平寺城):近江北部の戦国大名。被官の浅井氏に実権を奪われ衰退、後豊臣秀吉に臣従して大名として復活


  • 浅井氏(小谷城):北近江の国人から主家の京極氏に代わり戦国大名へ。1573年、小谷城の戦いで織田信長に敗れて滅亡


  • 織田信長(安土城):近江平定後、1579年に岐阜城から安土に居城を移す

  • 織田政権の大名


    • 明智光秀(坂本城):1571年、比叡山焼き討ちの後、信長より光秀に近江国滋賀郡が与えられた


    • 羽柴秀吉(長浜城):1579年の浅井氏滅亡後、信長から浅井氏旧領を拝領


    • 丹羽長秀(佐和山城):浅井氏の旧領の一部と越前朝倉氏旧領南部を拝領


    • 津田信澄(大溝城):



  • 豊臣政権の大名


    • 八幡山城:豊臣秀次(43万石、秀次は20万石、宿老23万石)→京極高次(2万8,000石)→1594年廃城・高次は大津城に転封

    • 長浜城:山内一豊(2万石)→一豊は1591年遠江掛川城5万1,000石に転封・長浜城は江戸時代の1615年に廃城


    • 坂本城:丹羽長秀→杉原家次→浅野長政→1586年廃城・長政は大津城に転封


    • 大津城:浅野長政(2万石)→増田長盛→新庄直頼(1万2,000石)→京極高次(6万石)→1601年廃城・高次は若狭小浜城8万2,000石に転封


    • 佐和山城:堀秀政(9万石)→堀尾吉晴(4万石)→石田三成(19万4,000石)→江戸時代の1606年に廃城


    • 大溝城:丹羽長秀→加藤光泰→生駒親正→京極高次→高次は八幡山城に転封


    • 水口岡山城:中村一氏→増田長盛→長束正家





武家官位としての近江守



江戸時代以前



  • 浦上宗助

  • 織田寛定

  • 飯尾定宗


  • 相良長毎:肥後相良氏の第13代当主



江戸時代




  • 常陸下館藩石川家


    • 石川総茂:伊勢神戸藩の第3代藩主、常陸下館藩初代藩主


    • 石川総親:第6代藩主


    • 石川総貨:第8代藩主



  • その他


    • 浅野長員:安芸広島新田藩第3代藩主


    • 浅野長容:広島新田藩の第4代藩主


    • 加納久堅:伊勢八田藩第2代藩主





近江国の合戦




  • 672年:壬申の乱(瀬田橋の戦い)、大海人皇子軍(村国男依) x 大友皇子(弘文天皇)軍


  • 764年:藤原仲麻呂の乱、藤原仲麻呂×孝謙上皇


  • 1184年:粟津の戦い、源頼朝軍(源範頼) x 源義仲軍


  • 1468年:第一次観音寺城の戦い、京極持清・京極勝秀連合軍 x 六角高頼軍(伊庭行隆)

  • 1468年:第二次観音寺城の戦い、六角政堯・京極持清連合軍 x 六角高頼軍(山内政綱)


  • 1469年:第三次観音寺城の戦い、六角高頼軍 x 京極持清軍(多賀高忠、六角政堯)


  • 1487年 - 1491年:長享・延徳の乱、室町幕府軍 x 六角高頼軍


  • 1509年:如意ヶ嶽の戦い、細川高国・大内義興軍 x 細川澄元・三好之長軍


  • 1560年:野良田の戦い、浅井長政軍 x 六角義賢軍


  • 1568年:観音寺城の戦い、織田信長軍 x 六角義治・六角義賢軍


  • 1570年:野洲河原の戦い、織田信長軍(柴田勝家、佐久間信盛) x 六角軍(六角義賢・義治)

  • 1570年:姉川の戦い、織田信長・徳川家康軍 x 浅井・朝倉軍(浅井長政、朝倉景健)

  • 1570年:志賀の陣、織田信長軍 x 浅井・朝倉・延暦寺軍

  • 1570年:宇佐山城の戦い、織田信長軍(織田信治、森可成、青地茂綱、各務元正) x 浅井・朝倉・延暦寺・六角義賢軍


  • 1571年:比叡山焼き討ち、織田信長軍(明智光秀、池田恒興、柴田勝家、佐久間信盛、木下秀吉等) x 延暦寺軍


  • 1583年:賤ヶ岳の戦い、羽柴秀吉軍 x 柴田勝家軍


  • 1600年:大津城の戦い、西軍(毛利元康、立花宗茂、小早川秀包、筑紫広門) x 東軍(京極高次)

  • 1600年:佐和山城の戦い、東軍(小早川秀秋等) x 西軍(石田正継、石田正澄)



その他


2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある[10]



関連氏族



  • 六角氏

  • 京極氏

  • 塩津地頭熊谷氏



脚注


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  1. ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19-20頁。


  2. ^ 櫻井信也「「大津宮」の宮号とアフミの表記」、『近江地方史研究』第32号、1996年。

  3. ^ ab「旧高旧領取調帳」の記載は大津県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。


  4. ^ 狭山藩は明治2年12月26日(1870年1月27日)に廃藩。


  5. ^ 丸亀藩は明治4年4月10日(1871年5月28日)に廃藩。


  6. ^ 大溝藩は明治4年6月3日(1871年4月16日)に廃藩。


  7. ^ 『籐氏家伝』の「武智麻呂伝」にある。続日本紀には霊亀2年(716年)5月に在職であったことが分かる。


  8. ^ 六角氏頼が出家してしまい、嫡男の義信はまだ幼少だったため、氏頼の弟の定詮(後の山内信詮)が後見として守護に任じられたが、観応の擾乱で足利尊氏と敵対する足利直義方に離反したため、もう一人の弟である直綱に守護に交替させられた(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。


  9. ^ 佐々木氏宗家の氏頼嫡男の義信が先立ったため、佐々木氏傍家の京極氏から養嗣子として高経を迎えた。当初は六角氏の家督と近江守護を継ぐが、氏頼嗣子の満高が立ったため、内紛で実家の京極氏に戻された後に「京極高詮」として京極氏の家督と(近江ではなく)飛騨守護を継いだ。


  10. ^ 近江の人 木沢まさと: ブランド構築に向けて、木沢成人、2009年12月11日更新、2011年3月8日閲覧。




参考文献




  • 角川日本地名大辞典 25 滋賀県

  • 旧高旧領取調帳データベース



関連項目







  • 志賀清林

  • 伯太藩

  • 伊庭貞剛

  • 近江町

  • 近江八景

  • 江州音頭

  • 近江弁

  • 近江商人

  • 近江牛


  • 三上山(近江富士)






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