北条氏隆
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凡例 北条 氏隆 | |
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
生誕 | 不詳[注釈 1]。 |
死没 | 慶長14年11月9日(1609年12月5日) |
改名 | 菊千代(幼名)→北条氏隆→鈞庵宗仙 |
別名 | 幼名:菊千代 輩行名:彦太郎 |
戒名 | 養靏院殿松壡仙公居士[2] |
主君 | 北条氏直→生駒近規 |
氏族 | 後北条氏 |
父母 | 父:氏信、母:西園寺公朝の娘[2] |
妻 | 東光院殿[注釈 2] |
北条 氏隆(ほうじょう うじたか)は、戦国時代の人物。号は筥根寄斎。相模国久野城(小田原市)城主[2]。
目次
1 生涯
2 脚注
2.1 注釈
2.2 出典
3 参考文献
生涯
永禄12年(1569年)に父・氏信が、武田氏の駿河侵攻で戦死したため、上杉謙信の養子となった北条三郎(上杉景虎)に代わり、幻庵の後を継ぐ。
天正10年(1582年)頃に元服し、翌年1月4日付けで西群底倉(神奈川県箱根町)での禁制が初見発給文書である[4]。
小田原征伐による後北条氏没落後は、北条氏直に従って高野山へ赴いた[2]。翌19年9月には、出家して鈞庵宗仙と称し、高松藩丸亀城の生駒氏に仕えた後、京都に在住していたことが、板部岡江雪斎らとの書状から判明している[2]。
慶長14年(1609年)に死去、法号は養靏院殿松壡仙公居士。氏隆の死去により久野北条氏も断絶となった[5]。
脚注
注釈
^ 氏信の婚姻が永禄6年(1563年)のことであるから、およそ永禄末年頃の生まれと推測される[1]
^ 出自は不明。慶長9年4月30日死去。法名:東光院殿嶺梅芳春大禅定尼[3]
出典
^ 北条早雲とその一族 2007, pp. 171.
- ^ abcde下山(2006)pp.559-560
^ 『北条家過去帳』
^ 北条早雲とその一族 2007, pp. 171-172.
^ 北条早雲とその一族 2007, pp. 173.
参考文献
- 下山治久 『後北条氏家臣団人名辞典』 東京堂出版、2006年。ISBN 4-490-10696-3。
- 黒田基樹 『北条早雲とその一族』 新人物往来社、2007年7月。ISBN 978-4-404-03458-8。
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