パキスタン





パキスタン・イスラム共和国

اسلامی جمہوریہ پاکِستان











パキスタンの国旗 パキスタンの国章
(国旗) (国章)


国の標語:ايمان اتحاد تنظيم
ラテン文字転写: īmān, ittihād, tanazeem
(ウルドゥー語: 信頼、統一、規律)


国歌:
قومی ترانہ
(ウルドゥー語)
神聖なる大地に祝福あれ


パキスタンの位置









































公用語

ウルドゥー語(国語)
英語(公用語)

首都

イスラマバード
最大の都市

カラチ

政府












大統領

アリフ・アルヴィ(英語版)

首相

イムラン・カーン[1]


面積











総計

796,000[2]km2(34位)
水面積率
3.1%


人口











総計(2017年)

207,770,000人(6位)

人口密度
224人/km2



GDP(自国通貨表示)





合計(2013年) 22兆9,091億[3]パキスタン・ルピー


GDP (MER)





合計(2013年) 2,387億[3]ドル(45位)


GDP (PPP)











合計(2016年)
2,277億[3]ドル(26位)
1人あたり 1,640[3]ドル



独立
 - 日付

イギリスより
1947年8月14日(2010年現在、イギリス連邦加盟)

通貨

パキスタン・ルピー (PKR)

時間帯

UTC +5(DST:なし)

ISO 3166-1
PK / PAK

ccTLD

.pk

国際電話番号
92



パキスタン・イスラム共和国(パキスタン・イスラムきょうわこく、ウルドゥー語: اسلامی جمہوریہ پاکِستان‎)、通称パキスタンは、南アジアの国家で、イギリス連邦加盟国である。首都はイスラマバード。最大の都市はカラチ。面積は80万km2で日本 (38万km2) の約2倍程。東はインド、北東は中華人民共和国、北西はアフガニスタン、西はイランと国境を接し、南はインド洋に面する。国土の中心部を流れるインダス川の流域に国民の75%以上が住み、人口の増加が著しい国の一つである。




目次






  • 1 国名


    • 1.1 国名の変遷




  • 2 歴史


    • 2.1 独立と印パ戦争


    • 2.2 アフガニスタン紛争と核開発


    • 2.3 ムシャラフ大統領時代


    • 2.4 ザルダーリー大統領時代




  • 3 政治・外交


    • 3.1 国内政治


    • 3.2 外交政策


      • 3.2.1 対日関係


      • 3.2.2 対印関係


      • 3.2.3 対米関係


      • 3.2.4 対アフガン関係


      • 3.2.5 対中関係


      • 3.2.6 対露関係






  • 4 軍事


  • 5 地方行政区分


    • 5.1 主要都市




  • 6 地理


  • 7 経済


    • 7.1 自動車産業




  • 8 国民


    • 8.1 人口


    • 8.2 人口密度


    • 8.3 民族構成


    • 8.4 宗教


    • 8.5 婚姻


    • 8.6 言語




  • 9 文化


    • 9.1 食文化


    • 9.2 世界遺産




  • 10 司法・人権侵害


  • 11 災害


  • 12 脚注


  • 13 関連項目


  • 14 外部リンク





国名


正式名称は、اسلامی جمہوریہ پاکِستان(ウルドゥー語;ラテン文字転写(一例)は、Islāmī Jumhūrī-ye Pākistān。イスラーミー・ジュムフーリーイェ・パーキスターン)。


公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan


日本語の表記はパキスタン・イスラム共和国。通称はパキスタン。漢字による当て字は巴基斯坦。かつてはパキスタン回教共和国という表記も見られた。


国名「パキスタン」は、ペルシア語起源の言葉で「清浄な国」を意味するパーキスターン(پاکستان Pākistān、「パーク」がペルシア語で「清浄な」を意味する。〜イスターンについてはスターン」を参照)に由来するとともに、パキスタンを構成する五大地域であるパンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANを表すともされる。パキスタンの名は、英領インドの独立運動の中でムハンマド・アリー・ジンナーらが提唱したムスリム(イスラム教徒)多数地域の分離独立要求において、将来樹立されるべき国家の名として採用され、1947年の独立とともに正式な国名となった。



国名の変遷




  • 1947年-1956年:パキスタン


  • 1956年-1958年:パキスタン・イスラム共和国


  • 1962年-1973年:パキスタン共和国


  • 1973年-現在:パキスタン・イスラム共和国



歴史





インド・パキスタン分離独立



19世紀には英領インドとしてインドと同一の政府の下に置かれており、独立運動も本来は同一のものであった。しかし、独立運動の中でイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させる構想が浮上した。これを避けるための努力は独立寸前までなされたものの、最終的にはヒンドゥー教徒地域がインド、イスラム教徒地域がパキスタンとして分離独立をすることとなった。しかしこのとき、インド東部がイスラム多数派地域の東ベンガル州(英語版)としてパキスタンに組み込まれ、1955年に東パキスタンとなったものの、遠く離れた両地域を宗教のみで統一しておくことは困難であり、やがて東パキスタンはバングラデシュとして分離独立の道を歩むこととなった。



独立と印パ戦争


1947年8月14日 イギリス領インド帝国から独立し、イギリス国王を元首に頂くドミニオン(英連邦王国パキスタン)となる。1947年 第一次印パ戦争(1947年10月21日 - 1948年12月31日)。1951年10月16日、en:Liaquat Ali Khan首相が暗殺される。1956年、共和制移行。1958年の軍事クーデタで(en:1958 Pakistani coup d'état)、アイユーブ・ハーン(Ayub Khan)の独裁政権が誕生。第二次印パ戦争(1965年8月 - 9月23日)。1970年11月、東パキスタンがボーラ・サイクロンによる被害を受け、被災地への政府対応に対する批判が高まり、第三次印パ戦争(1971年12月3日 - 12月16日)に発展して、東パキスタンがバングラデシュとして分離独立した。
1972年、イギリス連邦脱退。パキスタン人民党の初代党首だったズルフィカール・アリー・ブットーは大統領や首相を歴任した。1975年、バングラデシュ大統領のムジブル・ラフマンが暗殺される。
1977年7月5日にムハンマド・ズィヤー・ウル・ハクのクーデターによりズルフィカール・アリー・ブットーが職を追われ、後に処刑された。




アフガニスタン紛争と核開発


1978年4月28日、アフガニスタン共和国で四月革命(英語版)が起こって社会主義体制に移行し、アフガニスタン民主共和国が誕生したことをきっかけとして、ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)が蜂起し、アフガニスタン紛争が始まった。1979年2月にイラン革命が勃発し、11月にイランアメリカ大使館人質事件が起こると、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始した。アメリカ中央情報局 (CIA)はパキスタン経由でムジャーヒディーンを支援した為、アフガニスタンへのパキスタンの影響力が大きくなるきっかけを与えた。アメリカがスティンガーミサイルを非公式にムジャーヒディーンへ供与したことは、ソ連の対ゲリラ戦を効果的に苦しめ、後にソ連を撤退に追い込んだ。その一方で、戦後には武器が大量に残され、ムジャーヒディーンからタリバーン政権が誕生し、さらにはアルカーイダが誕生した。


1988年8月17日、ムハンマド・ズィヤー・ウル・ハク大統領が飛行機墜落事故で急死した。同年10月31日には国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッションが活動を開始し、12月2日にはズルフィカール・アリー・ブットーの娘であるベーナズィール・ブットーが、イスラム諸国初の女性首相に選出された。1989年にイギリス連邦に再加盟を果たしたが、1990年8月6日にクーデターでブットー首相が解任された。1993年、ベーナズィール・ブットーが首相に復帰したが、1996年11月5日に汚職や不正蓄財を理由に職を追われた。


1998年5月11日と13日、インドのヴァージペーイー政権がコードネーム『Shakti』を実施した。これに対抗して5月28日と5月30日にナワーズ・シャリーフ首相兼国防大臣がパキスタンによる初の核実験を実施・成功させた。これに対し、日米がインド・パキスタン両国へ経済制裁を課した。
1999年5月、インドとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争(英語版)に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された。



ムシャラフ大統領時代





パルヴェーズ・ムシャラフ


1999年10月12日の無血クーデター(英語版)でナワーズ・シャリーフ首相から実権を奪取したパルヴェーズ・ムシャラフは、2001年の民政移管でそのまま大統領に横滑りした。この際イギリス連邦の資格が停止されたが、2004年には復帰した。3月以来、連邦直轄部族地域に浸透したターリバーン勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)。2005年10月8日、パキスタン地震で大きな被害が発生したが、中央政府の弱さから救援体制がたてられず二次被害の拡大につながったとされる。


2007年7月、イスラム神学生によるパキスタン・モスク立てこもり事件が発生した。同年10月にはパキスタン大統領選挙(英語版)が行われたが、11月には軍参謀長でもあるムシャラフ大統領が、自身の地位を巡ってパキスタン最高裁判所(英語版)イフティカル・ムハンマド・チョードリー(英語版)と対立、軍を動員して全土に非常事態宣言と戒厳令を発令するという事実上のクーデターをおこなった(en:Pakistani state of emergency, 2007)。ムシャラフは、11月28日に陸軍参謀総長を辞職して、29日に文民として大統領に就任し、11月に発令した非常事態宣言を12月16日に解除するとテレビを通じて発表した。一方、米国の支援を受けて11月に元首相ベーナズィール・ブットーが帰国したが、12月27日に演説終了後会場にて暗殺された(ベーナズィール・ブットー暗殺事件(英語版))。2007年、またもイギリス連邦の参加資格を停止される。


2008年1月8日に、現憲法下で「自由で透明性のある方法」で総選挙を実施すると公約した。2月18日、パキスタン下院・4州議会議員選挙が行われた(2008年のパキスタン下院総選挙(英語版))。登録有権者は8091万人。下院定数342のうち、女性60、非イスラム教徒10が留保される。342から留保の70を除いた272議席が直接投票で選挙区制の一般選挙区で選出され、70の留保議席が各党に割りあたえられる。与党パキスタン・ムスリム連盟カーイデ・アーザム派(PML-Q)と野党パキスタン人民党(PPP)、パキスタン・ムスリム連盟ナワーズ・シャリーフ派(PML-N)の3党が中心となって議席が争われた。因みに、上院は100議席で、州議会議員等による間接選挙で選出される。総選挙の結果は、第1党はパキスタン人民党、第2党はムスリム連盟シャリーフ派、次は与党だったムスリム連盟である。他にムッタヒダ国民運動(MQM)、アワーミー国民党(ANP)などがある。3月24日、パキスタン国民議会は、議員投票でユースフ・ラザー・ギーラーニー(就任時55歳)を首相に選出した。ギーラーニーは264票の圧倒的な支持を得た。人民党と連立するムスリム連盟シャリーフ派などの反ムシャラフ派は、下院議員のほぼ三分の二を占めた。5月、イギリス連邦復帰。8月18日、それらの影響を受けムシャラフ大統領はついに辞意を表明した。



ザルダーリー大統領時代


2008年9月6日、パキスタン国民議会上下両院と4州議会の議員投票にてパキスタン大統領選挙(英語版)が行われ、パキスタン人民党総裁のアースィフ・アリー・ザルダーリーが新大統領に選出された。
2010年、パキスタン水害(en:2010 Pakistan floods)。
2011年1月2日、ムッタヒダ国民運動 (MQM) が連立から離脱を表明。ギーラーニー連立政権は下院(定数342)で過半数を割り込むことになった。MQM(下院25議席)は声明で「上下院とも野党席に座る決定をした」と表明。政府による石油製品の値上げなどを理由に挙げている。
5月2日、アボッターバードでウサーマ・ビン・ラーディンの殺害が確認された。
11月26日、国際治安支援部隊(ISAF、アフガニスタン駐留)の北大西洋条約機構 (NATO) 軍が北西部の検問所2カ所を越境攻撃し、兵士28人が死亡した。この事態に対してギーラーニー首相は内閣国防委員会を招集し、同委員会はNATO・ISAFの補給経路を遮断したほか、南西部バルチスタン州の米軍無人機攻撃の拠点シャムシ空軍基地から15日以内に立ち退くよう米国に求めた[4][5]
2012年2月13日、ザルダーリー大統領の汚職事件を巡って、パキスタン最高裁判所(英語版)がギーラーニー首相を法廷侮辱罪で起訴し[6]、6月19日にギーラーニー首相が退任し、後任の首相にラージャ・パルヴェーズ・アシュラフ(英語版)が就任した。


2013年5月13日のパキスタン下院総選挙(英語版)でパキスタン・ムスリム連盟シャリーフ派が勝利し、6月5日にナワーズ・シャリーフが首相に就任。



政治・外交




国会議事堂




首相官邸




パキスタン最高裁判所



国内政治



連邦共和制。4つの州と連邦首都イスラマバード及び連邦直轄地から成る連邦国家。インドとの対立関係のため伝統的に軍部の力が強く、対照的に政党の力は弱い。独立以来クーデターが繰り返され、政局は常に不安定である。地方においては部族制社会の伝統が根強く、特に連邦直轄部族地域にその傾向が著しい。また、南西部のバローチスターン州ではイギリス植民地時代からの独立運動が根強い。パキスタン憲法は、連邦直轄部族地域では大統領が指示しない限り、パキスタンの法律が適用されない旨規定しており、部族地域は強い自治権を有している[7]。法律に代わるものとしてパシュトゥン・ワリというパシュトゥン民族の慣習法が適用されている[8]



外交政策


独立以来、アメリカ合衆国と中華人民共和国との協力・同盟関係を維持しながら、カシミール問題で激しく争うインドに対抗するのがパキスタンの外交政策の全体的傾向とされる。東南アジア条約機構の存続期間等から読みとれる。



対日関係



日本との関係は1958年の外交関係樹立以来おおむね良好であったが、1998年のパキスタンの核実験を機に関係は悪化した。当時の橋本内閣は遺憾の意を表明したうえ、対パキスタン無償資金協力・新規円借款を停止し、その他の援助も見合わせるなどの制裁を行った[9]


2002年にはムシャラフ大統領が来日した。2005年4月には小泉純一郎首相が日本の首相として5年ぶりにパキスタンを訪問し、核実験以来停止されていた有償資金援助が開始された。


また、貿易収支は日本側の大幅な黒字であり、日本からの投資はインドと比較するとかなり少ない。これは不安定な政治とインフレ経済が嫌われたものである。



対印関係


独立の経緯以来、インドとの間では緊張関係が継続している。北東部のカシミール地方の所属を巡って1948年に勃発した第一次印パ戦争以来3度の全面戦争(印パ戦争)を経験し、特に1971年の第三次印パ戦争における大敗によって独立運動に呼応したインド軍の侵攻を受けた東パキスタンをバングラデシュとして失うことになった。その後もインドとの間では常に緊張関係が続き、軍事境界線で南北に分断されたカシミールでは両国軍の間で死者を伴う散発的な衝突が日常化していた。


1998年にはインドに対抗してカーン博士の指導のもと地下核実験やミサイル発射実験などを実施した。インドと共に核保有国の一つとなる。


2001年12月、イスラム過激派によるインド国会議事堂襲撃テロが起きると、インド政府はパキスタン軍情報機関の関与を疑って対立が激化。当時のムシャラフ大統領は「インドへの核攻撃も検討した」と回想している[10]


一方でムシャラフ前政権は南アジア地域協力連合を通じた緊張緩和に努めており、2004年から和平協議がもたれている等、その成果は徐々に現れてきていた。2008年11月のインド西部ムンバイでの同時爆破テロによって和平協議は一時中断したが、2010年4月、両国首脳がブータンで会談し、外相会談を開催することで合意。公式の対話を再開、維持することを決めた。6月には外務次官級協議と内相会談、7月15日にはインドのクリシュナ外相とパキスタンのクレシ外相会談が、パキスタンのイスラマバードで行われた。そして2011年2月に対話再開で合意している。



対米関係


パキスタンは独立以来、アメリカ合衆国の軍事支援を受け入れている。アメリカにとっては非同盟主義のインドと友好関係が深いソビエト連邦への対抗上、またイスラム革命を起こしてアメリカと激しく対立するイランの封じ込め策として、パキスタンは重要な支援対象国家である。パキスタン側もこの点は承知しており、クーデターなどで政権交代が起こっても親米路線は堅持されている。しかしながら、近年のテロとの闘いにおいて、米国はパキスタンの一部(特に、部族地域)がタリバンなどの武装勢力の聖域になっていること、パキスタンがそうした武装勢力に対し十分な戦闘や対策を取っておらず、むしろパキスタンの一部(特に、軍統合情報局ISI)はいまだにタリバンなどを非公式に支援していると見られていることに不満を持った。一方でパキスタンは、米国がパキスタン国内での無人機攻撃など主権侵害を継続していることに不満を持ち、両国関係は冷却化した。現在、両国の不信感は根深いものがある[11]


1990年、東西冷戦の終結が唱えられる中、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ政権はパキスタンによる核開発疑惑を理由に軍事援助を停止したが、1996年にはビル・クリントン政権によって再開されている。


2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、米国はパキスタンに対しアル・カーイダをかくまうターリバーンとの関係を断ち米国に協力することを迫った。パキスタンにとってターリバーンはインドとの対抗上重要であったが、ターリバーンを支援し続けることによる国際的孤立を恐れ、また、米国に協力することに伴う経済支援等の見返りを期待し、ムシャラフ大統領は米国への協力を決断した。これに対し、パキスタン国内では反米デモが起こるなどムシャラフ政権は苦しい立場に立たされた[12]



対アフガン関係


アフガニスタンに関しては、インドとの対抗上アフガニスタンに親パキスタン政権が存在することが望ましく、1979年に始まったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後、パキスタンは反政府武装勢力ムジャーヒディーンを支援した。ソ連軍撤退後の内戦では、パキスタン軍統合情報局は当初ヘクマティヤール派を支援。それがうまくいかなくなると厳格なイスラム原理主義のターリバーンを育て政権樹立まで強力に支援したといわれている[13]


しかし、ターリバーンがかくまうアルカーイダがアメリカ同時多発テロ事件を起こした事から始まった2001年のターリバーン政権への攻撃ではムシャラフ政権がアメリカと有志連合諸国支持を表明し、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権からF-16戦闘機供与を含む巨額の軍事・経済援助を受けた。これに対し、イスラム原理主義者をはじめイスラム教徒に対するキリスト教国の攻撃に反感を持つ多くの国民から不満が増大し、パキスタン国内では多くの抗議行動が起こった。また、アフガニスタンを追われたターリバーン勢力は連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン軍やアメリカ軍との戦闘が継続されている。


2010年8月31日、パキスタン軍機がアフガニスタン国境付近(パキスタン北部カイバル・パクトゥンクワ州ペシャーワルなど)の部族地域を空爆し、イスラム過激派が少なくとも30人死亡。過激派の隠れ家や訓練施設、自爆テロに使用する予定の車両8台も破壊したと同国治安当局者が語った。


2011年5月1日、首都イスラマバード郊外の住居でアルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンが米海軍特殊部隊SEALsに急襲された。ビンラーディンは頭部を撃たれ死亡、遺体は米軍により確保されたとオバマ米大統領より発表された。



対中関係


また、中華人民共和国との関係も深く、上海協力機構の加盟国でもある。中国とはインドへの対抗で利害が一致して印パ戦争で支援国だった他、パキスタンはミサイル技術供与などの軍事援助などを受け、パキスタン初の人工衛星バドルの打ち上げや原子力発電所の建設も支援された。このような両国の同盟関係を「全天候型戦略的パートナーシップ」関係(中国語:全天候战略合作伙伴关系)と呼ばれている。2011年5月にウサーマ・ビン・ラーディンがパキスタン国内で殺害されて以降米国との関係は悪化しており、中国との関係は近年さらに緊密なものとなっている。パキスタンの中国への急接近は南アジアでの中国の影響力拡大を懸念する米国への牽制との見方もある。2015年の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典では派遣されたパキスタン軍が天安門広場を行進した[14]


また、ギルギット・バルティスタン州と中国の新疆ウイグル自治区との間はカラコルム・ハイウェイで結ばれており、トラック輸送による国境貿易が行われている。中国とパキスタンの間では自由貿易協定が締結されており、パキスタンは安い中国製品を多く輸入し、多数の中国企業が進出している。逆にパキスタンの最大の輸出相手は中国である。両国は更に、カラコルム・ハイウェイからアラビア海に面するグワーダル港までの約3000kmで道路・鉄道、発電所などを整備する「中パ経済回廊」(CPEC)計画を進めている。事業費4600億ドルは大半を中国が融資する。CPECは過激派の活動地域も含むため、2016年にパキスタンの有力将軍である陸軍参謀長ラヒール・シャリフ(英語版)が指揮[15]するCPECプロジェクト警備専門の特別治安部隊(SSD)を創設した[16]。CPECは中国が進める「一帯一路」と、対インド包囲網「真珠の首飾り戦略」の一部でもある。


中国とのビジネスが拡大していることから、パキスタン国内では中国語ブームが起きている。イスラマバード市内の私立高校では中国語を必修科目に導入し、パキスタン企業の間でも中国語研修を行う企業が増えている。パキスタン政府も中国との関係強化と中国企業にパキスタン人を雇用させるというの観点からこうした動きを後押しし、アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領も出身地であるシンド州にある全ての小中学校で、2011年から2年以内に英語、ウルドゥー語、アラビア語、シンド語に次いで中国語も必修科目に義務づけると発表した。しかし、教育現場の混乱や生徒への負担、中国語を教える教師の数が不足していることなどを理由にシンド州教育省は中国語を必修では無く、選択科目として緩やかに導入していくことで計画を修正している。



対露関係


ソ連のアフガン侵攻で、パキスタンはアメリカとともに反ソ武装抵抗勢力を支援した(サイクロン作戦)。ソビエト連邦はアフガン撤退の直後に崩壊。ロシア連邦となってからは同じ上海協力機構の加盟国にもなったことから関係が改善している。2016年にはパキスタン領内でロシア連邦軍と初の合同軍事演習を実施した[17]



軍事




中国と共同開発のJF-17戦闘機



陸軍、海軍、空軍のほか、沿岸警備隊、さらに国境警備、治安維持用の準軍事組織を有する。印パ戦争・カシミール紛争が繰り返されたことからインドと軍事的な対立関係にある。


パキスタンは核拡散防止条約(NPT)に加盟しておらず、1998年の核実験以後は核兵器を保有している。



地方行政区分





パキスタンの州とその他の領土区域


4つの州と、2つの連邦直轄地区に分かれる。





  1. バローチスターン州

  2. カイバル・パクトゥンクワ州

  3. パンジャーブ州

  4. シンド州


連邦直轄地区



  1. イスラマバード首都圏

  2. 連邦直轄部族地域 (FATA)


その他、カシミール地方におけるパキスタンの実効支配領域は、2つの行政区に分かれる。



  1. アザド・カシミール

  2. ギルギット・バルティスタン州



主要都市




カラチはパキスタン最大の都市であり、都市圏人口が1000万人を超える世界有数のメガシティである。


人口100万人以上の都市が7都市ある。人口順では、カラチ(933万9000人、1998年)、ラホール(514万3000人)、ファイサラバード(200万9000人)、ラワルピンディ(141万人)、ムルターン(119万7000人)など。首都イスラマバード(52万9000人)は人口順では10番目に位置する。




  • イスラマバード(イスラマバード首都圏、首都)


  • カラチ(シンド州の州都)


  • ラーホール(パンジャーブ州の州都)


  • ファイサラーバード(パンジャーブ州)


  • ペシャーワル(カイバル・パクトゥンクワ州の州都)


  • ラーワルピンディー(イスラマバード首都圏)


  • クエッタ(バローチスターン州の州都)


  • ムルターン(パンジャーブ州ムルターン県の県都)



地理




標高図




K2(カラコルム山脈)


国土の北部には世界の屋根カラコルム山脈とヒンズークシ山脈が連なり、K2(標高8,611m)とナンガ・パルバット(標高8,126m)がそびえる。国の中央を南北に走るのはスライマン山脈である。アフガニスタン国境はカイバル峠、インドとの国境には大インド砂漠(タール砂漠)が広がり、その南にはカッチ大湿地が分布する。北部高地からアラビア海(インド洋)に流れ出すインダス川は流域に主要な平野(北のパンジャブ、南のシンド)を形成する。


パキスタンには四季があり、12月から2月が冷涼乾燥な冬、3月から5月が高温乾燥の春、6月から9月が高温多雨・モンスーンの夏、10月から11月が移行期の秋である。この時期は地域によって若干異なり、洪水と旱魃がしばしば生じる。


気候は、中南部が砂漠気候 (BW)、北部がステップ気候 (BS)、北部山岳地帯が温帯夏雨気候 (Cw) となっている。国花はジャスミンである。



経済




地域別の主要産業


IMFの統計によると、2013年のパキスタンのGDPは2,387億ドル。一人当たりのGDPは1,307ドルであり、世界平均のおよそ10%の水準である[3]2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は9710万人と推定されており、国民の半数を超えている[18]


パキスタン証券取引所のナディーム・ナクビ社長は、パキスタンはGDPの需要面が十分補足できておらず、「実際の1人当たりGDPは2200ドルはある」「人口2億人弱のうち4000万~4500万人を中間層が占める」と語っている[19]


主要産業は、農業や綿工業。特にパンジャーブ地方で小麦の生産が盛んで世界生産量第4位である。輸出品としては米がトップで輸出の11.2%を占め、ついで綿布、ニット、ベッドウェア、綿糸、既製服といった繊維製品が続く[20]。また中国が一帯一路政策の要として、パキスタン国内を鉄道・道路・港湾などで結ぶ中パ経済回廊(CPEC)建設を進めているため、セメントや鉄鋼の生産が増えている。


2011年に、パキスタン政府はインドとの交易関係を正常化し、インドへの貿易上の「最恵国待遇」付与を目指す方針を明らかにした。インドは1996年にパキスタンに同待遇を付与している。またインドが含まれるBRICsの次に経済の急成長が期待できるNEXT11のうちの一つでもある。IMFによる3年間の財政支援は2016年9月に終了した。国民の多くは貧しく、テロの頻発など治安も良くないが、人口増加率が高いため労働力や消費者となる若年層が多い。このため今後経済的に期待できる国といえ、コカ・コーラや味の素など飲食品・消費財メーカーが進出している。


通貨はパキスタン・ルピー(1ルピー=100パイサ、硬貨の種類は5パイサ、10パイサ、25パイサ、50パイサ、1ルピー、5ルピーの6種類、紙幣は、2ルピー、5ルピー、10ルピー、20ルピー、50ルピー、100ルピー、500ルピー、1000ルピー、5000ルピーの8種類)。




自動車産業


日本の自動車メーカーが複数進出して製造販売を行っている。スズキは、1975年に国営会社を通じて自動車の生産を開始した後、1982年、現地合弁会社パックスズキ社を立ち上げてパキスタンへの本格参入。スズキ・フロンテやキャリーなどの現地モデルの生産を始めた。2007年10月には、二輪車の現地代理店と合併する形で二輪車の生産販売も始めた。2009年には国内の自動車累計生産台数100万台を達成している[21]。トヨタ自動車は、現地合弁会社インダス・モーター社を1989年に設立。トヨタ・カローラやトヨタ・ハイラックスの生産を始め、2012年に生産累計50万台を達成した[22]。本田技研は、1992年より現地合弁会社をアトラスホンダ設立し二輪車の生産販売を開始。1994年には、四輪車生産を目的とした合弁会社ホンダアトラスカーズを立ち上げて、ホンダ・シビックなどの生産を行っている。2016年累計生産台数30万台を達成[23]
日産自動車は、カラチに現地工場を建設。1997年、現地法人ガンダーラ日産の手によりノックダウン生産によりサニーの生産を始めた。2010年代に一旦閉鎖されたが、2020年初頭を目途にピックアップトラックの生産を開始することが発表している[24]



国民




各地域の人口密度




人口


2005年に1億6千万人を超え、現在は約1億8800万人。2003年以降の人口増加が顕著なのは、戦闘が続く隣国アフガニスタン他からの移民が急増したためと見られる。その数は累計で約600万人と言われる。また、出生率も高く、国連の推計では2050年には約3億4000万人にまで増加し、インドネシア(2050年に約2億9000万人)とブラジル (2億3000万人)を抜き、中国・インド・米国に次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。



  • 2004年:1億5919万人(前年比1016万増)

  • 2003年:1億4903万人(前年比307万増)

  • 2002年:1億4596万人(前々年比1146万増)

  • 2000年:1億3450万人

  • 1991年:1億1552万人



人口密度


182人/平方キロメートル(2001年)、145人/平方キロメートル(1991年)



民族構成





































民族構成(パキスタン)

パンジャーブ人
  
56%
パシュトゥーン人
  
16%
シンド人(英語版)
  
13%
バローチ人(英語版)
  
4%
その他
  
11%


パンジャーブ人56%(60%とも)、パシュトゥーン人16%(13%とも)、シンド人(英語版)13%、バローチ人(英語版)4%、カラシュ人など



宗教



イスラム教97%(国教)、ヒンドゥー教1.5%、キリスト教1.3%、ゾロアスター教0.2%など、ほかにアニミストも存在している。


ゾロアスター教の信者は10万人くらいで、地方によってはカースト制度なども残っている。



婚姻


結婚時に妻は結婚前の姓をそのまま用いること(夫婦別姓)も、夫の姓に変えること(夫婦同姓)も可能。イスラム法では夫の姓に変えることを求めておらず、イスラム系住民は婚前の姓をそのまま用いることが多い[25]



言語


ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)に加え、パンジャーブ語、シンド語、カシミール語、コワール語といったインド語群のほか、イラン語群のパシュトー語およびバローチー語、ドラヴィダ語族のブラーフーイー語、孤立した言語ブルシャスキー語などがある。


現行の1973年憲法251条はパキスタンの国語をウルドゥー語としており、1988年までに英語に代えてウルドゥー語を公用語化することになっていたが、2004年現在も実現にいたっていない。同時にウルドゥー語が公用語化されるまでは英語を公用語とする旨規定している。憲法を始めとする全ての法令や、公文書は英語で書かれている。政府の公式ウェブサイトは英語でだけ書かれている。全ての高等教育機関が英語を教授言語としている。ただ、ほとんどの初等中等教育はウルドゥー語で行われているため、英語を自由に操るパキスタン国民はあまり多くない。母語を異にするもの同士が会話する時は、ウルドゥー語を用いることが多い。ウルドゥー語を母語にするパキスタン人は全人口の一割以下である。ウルドゥー語は北部諸語とはやや近いもののシンド語とは離れており、さらに南部でウルドゥー語を母語とするムハージル人(英語版)(パキスタン独立時にインドから逃れてきた難民の子孫)とシンド人との間に対立があるため、ウルドゥー語の公用語化には特に南部で反対が強い。






































































母語の割合

言語

2008年(推定)

1998年(国勢調査)

優勢地域
1

パンジャーブ語
76,367,360人
44.17%
58,433,431人
44.15%

パンジャーブ州
2

パシュトー語
26,692,890人
15.44%
20,408,621人
15.42%

カイバル・パクトゥンクワ州
3

シンディー語
24,410,910人
14.12%
18,661,571人
14.10%

シンド州
4

サライキ語
18,019,610人
10.42%
13,936,594人
10.53%
パンジャーブ州南西部
5

ウルドゥー語
13,120,540人
7.59%
10,019,576人
7.57%
パキスタン都市部
6

バローチー語
6,204,540人
3.59%
4,724,871人
3.57%

バローチスターン州


文化





モヘンジョダロ




ブロンズ製のチャリオットと運転手(紀元前2000年)
ハラッパー遺跡


著名な遺跡として世界遺産になっているモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの都市遺跡がある。ほかにインダス文明の遺跡として標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。


古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリーの大歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。

































































































祝祭日
日付
日本語表記
現地語表記
備考

3月23日
共和国記念日

یوم پاکستان

1940年3月23日、ムスリム連盟ラホール大会でのパキスタン決議を記念

5月1日
メーデー

یوم کاریگر


8月14日
独立記念日

یوم استقلال

1947年8月14日、パキスタンの英国からの独立を記念

9月6日
国防記念日

یوم دفاع
1965年9月6日、第二次印パ戦争開戦

9月11日

ムハンマド・アリー・ジンナーの命日

یوم وفات قائداعظم
1948年9月11日死去

11月9日
詩人・哲学者ムハンマド・イクバールの誕生日

یوم ولادت محمد اقبال
1877年11月9日誕生、1930年に初めてインドにおけるイスラム国家樹立を主張

12月25日
クリスマス、建国の父ジンナーの誕生日

عيد الميلاد المسيح
1876年12月25日誕生
以下はヒジュラ暦(イスラムの太陰暦)に従う祝祭日
ムハッラム10日

アーシューラー

عاشوراء
イマーム・フサインの殉教
ラビーウ=ル=アウワル12日

イーデ・ミラードゥンナビー

عيد ميلاد النبي
預言者ムハンマドの生誕祭
ラマダーン21日
イマーム・アリーの殉教

شهادت حضرت علی

ラマダーンの最後の金曜日


جمعة الودع

ラマダーン最終十夜
天命の夜

ليلةِ القَدر

シャウワール1日

イード・アル=フィトル

عيد الفطر
断食明けの祭り
ズー=ル=ヒッジャ10日

イード・アル=アドハー

عيد الأضحى
息子を進んで犠牲にしようとしたイブラーヒーム(アブラハム)を記念


食文化


詳細は「パキスタン料理」および「パンジャーブ料理」を参照


パキスタン国内にはアジア最初のビール醸造所があり、非ムスリム向けにマリービールが製造されている。フンザ地方においては、ワインがよく飲まれいる。



世界遺産



パキスタン国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件存在する。



司法・人権侵害


パキスタンは守旧的イスラームに基づく国家であり、憲法で公式にイスラームの理念にのっとった政治を行うことを宣言し、イスラム法の強い影響を受けた法を施行するという点でイスラム国家としての色彩が強い [要出典]


パキスタンではイスラム教徒・非イスラム教徒を問わず、イスラームやムハンマド、コーランに対する批判は禁止されており、言論の自由はない。違反した場合投獄や死刑に処される。またイスラム教徒が他の宗教に改宗することも国法で禁止されており、違反した場合死刑である。2008年6月にはコーランを焼却し、ムハンマドを批判したとしてイスラム教徒の男性に死刑が宣告された[26]


パキスタンは死刑存置国であり、2014年6月、スイス・ジュネーブで開催された国連人権理事会の会合において提出された「死刑制度のある国に死刑囚の権利保護を求める決議案」に日本、中国、インド、サウジアラビアなどとともに反対するなど死刑維持の姿勢を取っているが、一方で2009年以降、国法上の死刑の執行自体は凍結していた。しかし2014年12月、北西部のペシャワルで軍が運営する学校をイスラム過激派反政府武装勢力「パキスタン・タリバーン運動(TTP)」が襲撃し、教師・児童・生徒ら140名以上が殺害されるテロ事件が起こったことを受け、ナワーズ・シャリーフ首相は死刑執行凍結措置の解除を承認・指示し、過激派に対し厳しく対処する姿勢を打ち出した [要出典]


また、法律とは別に保守的な慣習が根強く存在しており、主に婚前交渉を行った女性を家族の名誉を汚したとして処刑する名誉の殺人は珍しくないとされる[27]。2011年度は、900人を超える女性が「家族に恥をもたらした」などの理由で殺されている[27]。「パキスタン人権委員会」の調査によると、2015年で987件の名誉の殺人が発生し、1000人以上が殺害されたという[28]。2016年に名誉の殺人を厳罰化する新法が制定された後も、2016年10月から2017年6月までの間に少なくとも280件の名誉殺人が発生するなど、大勢の若い女性が、家族に恥をもたらしたという理由で親族に殺害されている[29]。男性も対象となることはあるが、犠牲者は女性が圧倒的に多く[30]、中には婚前交渉など無くとも、単に「男性を見た」という理由だけで発生する殺人もある[27]



災害





パキスタン地震で崩壊したアパート


2005年10月8日、パキスタン北東部カシミール地方・インド国境付近を震源とするマグニチュード7.8の大地震(パキスタン地震)が発生し、死者9万人以上の大災害となった。カシミール地方を中心に被害が相次いだほか、首都イスラマバードでも高層アパートが崩壊した。


2010年7月末、カイバル・パクトゥンクワ州で大規模な洪水が起こり、パンジャブ州、シンド州にも広がった。被災者1400万人、死者1200人以上の大災害になっており、少なくとも200万人が家庭を失っている。国連人道問題調整事務所(OCHA)は、被災地の一部では下痢などの疾病が広がっているとしている。欧米メディアが2010年8月16日、大規模な洪水により飲料水が汚染され、伝染病の流行の可能性が高まり、約350万人の子どもが感染の危機にさらされていると国連人道問題調整事務所(OCHA) の報道官の話として報道した。


北澤俊美防衛大臣は8月20日夕方、国際緊急援助隊派遣法に基づく派遣命令を発出した。8月23日以降陸上自衛隊第4師団を主力とした部隊が派遣され、復興活動を行った。10月10日(現地時間)をもって活動終結。


7月の洪水で、国土(79.6万平方キロ)の約2割が被害を受け、死者約2千人、家屋174万軒損壊(国家災害管理庁)た。12月時点でも一部地域が冠水している。シンド州の約4200平方キロ(福井県に相当)が冠水[31]19万人が国内避難民[32]と成っている。



脚注


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  1. ^ イムラン・カーン氏(65)=パキスタンの新首相に指名された・毎日新聞


  2. ^ “パキスタン・イスラム共和国基礎データ”. 外務省. 2018年11月5日閲覧。

  3. ^ abcde“World Economic Outlook Database, April 2014”. IMF (2014年4月). 2014年9月27日閲覧。


  4. ^ NATO部隊ヘリが越境攻撃、パキスタン兵24人死亡 朝日新聞 2011年11月26日


  5. ^ パキスタン:NATO軍ヘリ越境誤爆 パキスタン対決姿勢 軍部が発言力強化 毎日新聞 2011年11月28日


  6. ^ パキスタン最高裁、首相を法廷侮辱罪で起訴 AFPBB News, 2012年2月13日


  7. ^ パキスタンのテロとの闘い (PDF) - 防衛省防衛研究所


  8. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、200頁、ISBN 9784763405302


  9. ^ “パキスタンによる地下核実験の実施(我が国の対応:クロノロジー)”. 日本外務省. 2013年1月13日閲覧。


  10. ^ “パキスタン ムシャラフ元大統領「インドに核使用を検討」/02年、両国関係緊張の事態受け「報復を恐れ断念」”. 毎日新聞ニュース. (2017年7月26日). https://mainichi.jp/articles/20170727/k00/00m/030/089000c 


  11. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、ISBN 9784763405302


  12. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、206-214頁、ISBN 9784763405302


  13. ^ 進藤雄介『タリバンの復活―火薬庫化するアフガニスタン』花伝社、2008年、210-211頁、ISBN 9784763405302


  14. ^ China marks 70th V-Day anniversary with spectacular parade


  15. ^ “Gen Raheel says army will turn CPEC dream into reality”. Pakistan Today. (2016年2月19日). https://www.pakistantoday.com.pk/2016/02/19/gen-raheel-says-army-will-turn-cpec-dream-into-reality/ 2018年8月21日閲覧。 


  16. ^ 『日本経済新聞』朝刊2016年11月20日「日曜に考えるグローバル/パキスタン 親中路線 不安の声も」


  17. ^ “ロシア軍がパキスタンの部族地域を訪問、米印接近で関係強化”. 産経新聞ニュース(2017年3月31日). 2017年8月18日閲覧。


  18. ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update Archived 2015年3月18日, at the Wayback Machine.


  19. ^ 「パキスタン中間層410万円 世帯所得伸び消費けん引/中国とのインフラ事業も追い風」『日経産業新聞』2017年1月11日(4面)


  20. ^ 2009-2010年度ジェトロ輸出統計


  21. ^ “スズキのパキスタン工場が四輪車生産累計100万台を達成”. スズキ (2009年8月3日). 2018年3月28日閲覧。


  22. ^ “トヨタ、パキスタンで生産累計50万台を達成”. トヨタ自動車 (2012年11月5日). 2018年3月28日閲覧。


  23. ^ “パキスタンで四輪車生産累計30万台を達成”. ホンダ (2016年). 2018年3月28日閲覧。


  24. ^ “日産、パキスタンで生産販売再開へ 「ダットサン」20年初め投入”. ロイター通信社 (2018年3月28日). 2018年3月28日閲覧。


  25. ^ Pakistani Culture


  26. ^ コーラン焼いたイスラム教徒男性に死刑判決 パキスタン

  27. ^ abc“「少年を見た」娘、母親が酸を浴びせて死なす パキスタン”. AFPBB News. (2012年11月6日). http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2910984/9767884 2018年4月29日閲覧。 


  28. ^ 婚前交渉疑い、電気ショックで殺害 パキスタンで横行する「名誉殺人」の恐怖 産経ニュース


  29. ^ パキスタンの「名誉殺人」、新法施行後も続く AFP通信


  30. ^ パキスタンの「名誉殺人」、新法施行後も続く 2ページ目 AFP通信


  31. ^ 途上国支援を行うアメリカ国際開発局報告書


  32. ^ 国連児童基金[ユニセフ]によると13万人が避難




関連項目



  • 在パキスタン日本国大使館

  • 世界四大文明



外部リンク


































  • 政府


    • パキスタン・イスラム共和国政府 (英語)


    • パキスタン政府 情報放送省 (英語)


    • パキスタン大統領府 (英語)


    • 在日パキスタン大使館 (英語)



  • 日本政府

    • 外務省 - パキスタン (日本語)


    • 在パキスタン日本国大使館 (英語)



  • 観光


    • パキスタン政府観光局 (英語)


    • ウィキトラベル旅行ガイド - パキスタン (日本語)



  • その他


    • JETRO - パキスタン (日本語)

    • イスラーム地域研究「中東の民主化と政治改革の展望」(大学共同利用機関法人 人間文化研究機構) - パキスタン (日本語)


    • 東京外国語大学(南・西アジア課程)ウルドゥー語専攻 (日本語)


    • 大阪大学(外国語学部外国語学科)ウルドゥー語専攻 (日本語)


    • パキスタン・プロフィール BBCニュース (英語)


    • NPO法人 JFSA(日本語)


    • "Pakistan". The World Factbook. Central Intelligence Agency.  (英語)


    • パキスタン - DMOZ (英語)


    • パキスタンのウィキメディア地図 (英語)











座標: 北緯30度40分 東経73度10分 / 北緯30.667度 東経73.167度 / 30.667; 73.167 (パキスタン)







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