武蔵野合戦




武蔵野合戦(むさしのかっせん)は、南北朝時代の観応の擾乱における合戦の一つ。1352年(正平7年/文和元年)閏2月から3月にかけて、武蔵国・相模国(現、東京都・埼玉県・神奈川県)の各地において、足利尊氏ら北朝方の軍勢と、新田義興・新田義宗、ら南朝方の軍勢との間で行われた一連の合戦である。




目次






  • 1 背景


  • 2 経過


  • 3 影響


  • 4 参加人物


  • 5 脚注


  • 6 関連項目





背景


1351年(正平6年/観応2年)観応の擾乱により北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂し、激しい戦いを繰り返した。尊氏は南朝と和睦し、鎌倉の足利直義を攻撃する。年末に駿河で行われた両軍による薩埵峠の戦いに勝利した尊氏は翌1352年直義を降伏させ、鎌倉に入った。直義は2月に急死したが、『太平記』では、この急死に関して「毒物を口にして亡くなったという変死(もしくは毒殺)のうわさ話」があった、と記している。


1352年(正平7年/文和元年)、南朝方の北畠親房は、北朝方の不和をつき、東西で呼応して京都と鎌倉の同時奪還を企てる。閏2月15日、新田義貞の遺児新田義興・義宗は、鎌倉奪還を目指し、従兄弟の脇屋義治や南朝に降伏していた北条時行らとともに、上野国で挙兵した。また同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵した。



経過


新田義興ら南朝勢は、鎌倉街道を南下した。南朝勢には、尊氏に反発する直義派の武将も多く参加したと言われる。尊氏は鎌倉を出て武蔵国狩野川に布陣し、南朝勢を迎え撃つ構えを見せた。南朝勢は閏2月18日に鎌倉を占領したが、閏2月20日金井原(東京都小金井市)および人見原(東京都府中市)にて足利勢と合戦(人見ヶ原の合戦)を行った。双方とも相当の損害を出したと言われる。


尊氏は、武蔵国石浜(東京都台東区。場所には諸説あり)に撤退し、勢力の回復を図る。新田義宗は笛吹峠(埼玉県鳩山町嵐山町境)に陣を敷き、宗良親王ら信濃勢や直義派であった上杉憲顕と合流した。閏2月28日、足利勢と新田勢は、高麗原(埼玉県日高市)・入間河原(埼玉県狭山市)・小手指原(埼玉県所沢市)で合戦となったが、足利勢が勝利した。敗れた義宗は越後方面、宗良親王は信濃方面に落ち延びた。


一方、新田義興・脇屋義治・北条時行は三浦氏の支援を受けて、足利基氏の軍を破って鎌倉を占領したが[1]、義宗勢の敗北を知り持ちこたえられないと判断したため、3月2日鎌倉を脱出し、相模国河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もった。3月12日、尊氏は鎌倉を奪還した。敗れた義興と義治は越後に逃亡するが、北条時行は鎌倉付近で足利基氏の手の者に捕らえられ、翌1353年に龍ノ口にて処刑された。



影響


一時は南朝方が京都・鎌倉の両方を占領したが、一連の合戦により南朝方の関東での挙兵は短期間で鎮圧された。その結果、関東における南朝方および直義派の勢力は衰退し、以後それらの勢力に鎌倉が渡ることはなかった。


上方での南朝方の動きは続いたものの、尊氏は翌年7月まで鎌倉に滞在し、関東の情勢を鎮めることに注力した。鎌倉公方基氏を補佐する執事職は空白となっていたが、畠山国清が任命され、以後足利基氏・畠山国清の体制で鎌倉府が運営されていくこととなる。



参加人物


北朝勢、足利勢

足利尊氏、足利基氏、畠山国清、仁木頼章、結城直光、宇都宮氏綱、河越直重、江戸長門


南朝勢、新田勢(旧足利直義派を含む)

宗良親王、新田義興、新田義宗、脇屋義治、北条時行、上杉憲顕、石塔義房、三浦高通、祢津宗貞



脚注





  1. ^ 「北条時行」『朝日日本歴史人物事典』




関連項目



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