小笠原長秀
凡例 小笠原長秀 | |
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時代 | 室町時代 |
生誕 | 貞治5年/正平21年9月18日(1366年10月22日) |
死没 | 応永31年3月15日(1424年4月14日) |
改名 | 豊若丸→長秀 |
別名 | 小笠原又次郎(通称) |
官位 | 従四位下、従四位上[1]、兵庫助[1]、信濃守[1]、修理大夫[1] |
幕府 | 室町幕府 信濃守護 |
氏族 | 小笠原氏 |
父母 | 父:小笠原長基[1]、母:畠山基国の娘 |
兄弟 | 長将、長秀、政康[1] |
子 | 持長[要曖昧さ回避][1] |
小笠原 長秀(おがさわら ながひで)は、室町時代の武将、守護大名。信濃守護[1]。小笠原長基の次男。長将の弟、政康の兄。幼名は豊若丸。
初めは上洛して将軍足利義満に出仕した。明徳3年/元中9年(1392年)、相国寺の落慶供養では先陣随兵を務めている。応永6年(1399年)の応永の乱では畠山基国に従って堺を攻め、同年、信濃守護に補任された。入部に先立ち、将軍足利義持は水内郡太田荘領家職について、押領人を退けるよう御教書を発した。
応永7年(1400年)、京都から下向し、国衙の後庁のあった善光寺に入部したが、国人に対する排斥と守護権力の強化は大いに反感を買い、有力武将や大文字一揆勢との大塔合戦へと発展し、大敗して大井光矩の仲介によって京都に逐電した。応永8年(1401年)に信濃守護職を解任され、信濃は幕府の直轄領(料国)となった。応永12年(1405年)に弟政康に家督と小笠原氏の所領を譲渡した。
応永31年(1424年)筑摩郡で死去(『豊前豊津小笠原家譜』)。享年59。著書に「犬追物起源」がある。
脚注
- ^ abcdefgh今井尭 1984, p. 273.
参考文献
- 今井尭 「小笠原系図」『日本史総覧』3(中世 2)、新人物往来社、1984年。NCID BN00172373。
- 『松本市史 第2巻 歴史編1』1996年
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