多胡碑






多胡碑


多胡碑(たごひ)は、群馬県高崎市吉井町池字御門にある古碑(金石文)であり、国の特別史跡に指定されている。山ノ上碑、金井沢碑とともに「上野三碑」[1]と総称される。また、書道史の上から、日本三古碑の一つとされる。建碑は、その内容から8世紀後半とされる。




目次






  • 1 概要


  • 2 碑文


    • 2.1 現代語訳


    • 2.2 解釈




  • 3 歴史


  • 4 書道史上の価値


  • 5 周辺施設


  • 6 交通


  • 7 仁叟寺多胡碑


  • 8 脚注


  • 9 参考文献


  • 10 関連項目


  • 11 外部リンク





概要


碑身、笠石、台石からなり、材質は花崗岩質砂岩で、牛伏砂岩と呼ばれ、近隣で産出される。地元では多胡石、天引石などとも呼ばれている。碑身は高さ125cm、幅60cmの四角柱で前面に6行80文字の楷書が丸底彫り(薬研彫りとされてきたが、近年丸底彫りであることが判明した)で刻まれている。笠石は高さ25cm、軒幅88cmの方形造りである[2]。台石にのせられた碑身は下部が四角錐状になっており「國」の字が刻まれていると言われるが、現在はコンクリートにより固定されているため確認できない。



碑文




多胡碑 拓本


弁官符上野國片罡郡緑野郡甘


良郡并三郡内三百戸郡成給羊


成多胡郡和銅四年三月九日甲寅


宣左中弁正五位下多治比真人


太政官二品穂積親王左太臣正二


位石上尊右太臣正二位藤原尊



現代語訳


弁官局からの命令である。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任せる。郡の名前は多胡郡とせよ。これは和銅4年3月9日甲寅(711年4月1日)に宣べられた。左中弁・正五位下多治比真人。


知太政官事・二品穂積親王、左大臣・正二位石上麻呂、右大臣・正二位藤原不比等。



解釈


この碑文は、和銅4年3月9日(711年)に多胡郡が設置された[3]際の、諸国を管轄した事務局である弁官局からの命令を記述した内容となっている。多胡郡設置の記念碑とされるが、その一部解釈については、未だに意見が分かれている。


特に「給羊」の字は古くから注目され、その「羊」の字は方角説、人名説など長い間論争されてきた。現在では人名説が有力とされている。また人名説の中でも「羊」氏を渡来人であるする見解が多く、多胡も多くの胡人(中国北方の一族)を意味するものではないかとの見解もある。近隣には高麗神社も存在することから、この説を有力たらしめている。



歴史




覆堂


多胡碑は現在「御門」という地名に所在するが、この地名は政令を意味する事から郡衙(ぐんが、郡の役所)が置かれた場所と推定される。実際、平成28年(2016年)に多胡碑周辺において郡衙主要施設の正倉の遺構が発見されている[4]


8世紀後半に建碑されたと考えられる多胡碑だが、9世紀後半頃からの郡衙の衰退、その後の律令制の崩壊と共に、多胡碑も時代の闇の彼方に消え去った。再び所在が明らかになるのはおよそ700年後の永正6年(1509年)に連歌師 宗長によって執筆された「東路の津登」まで下る。この約700年間、多胡碑がどのような状態で存在したのかを知りえる資料は存在しない。しかしながら碑文の保存状態が良好な事から、碑文側を下にして倒れていた、土中に埋もれていた、覆堂の中で大切に保護されていた、などある程度良好な環境に存在したと推定される。その後約200年の間を空けた後、伊藤東涯により執筆された『盍簪録』『輶軒小録』の二書を皮切りに数多くの文化人を通し、多胡碑は全国に知れ渡っていく。


近代になると明治9年(1876年)に熊谷県改変に伴って群馬県が新設された。楫取素彦が初代県令として就任し、その足で多胡碑を訪れ保護の重要さをうったえ、結果多胡碑周辺の土地が政府買い上げとなった。その後の関東大震災、戦時中の空襲などの被害を受けることも無かったが、第二次世界大戦後の昭和20年(1945年)、文部省通達により多胡碑は付近の桑畑に一時埋められることになった。これは進駐軍による接収を免れるための隠匿であったとされる。


近年には福田赳夫、福田康夫元総理、日本人初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹など、多方面に渡る著名人の訪問を受け、昭和50年(1975年)には学習院高等科学生であった皇太子徳仁親王も訪問している。昭和29年(1954年)、国の特別史跡に指定され、平成8年(1996年)には市立の記念館が併設された。現在多胡碑はガラス張りの覆堂の中に保存されているが、覆堂のガラス越しからでも肉眼ではっきりと碑文が読め、非常に良い状態で保存されている。また毎年3月9日近辺の休日に「多胡碑まつり」が開催され、この日は覆堂の扉が開かれ一般公開される。また多胡碑記念館に事前に開扉申込みし、許可されれば扉を開けてくれる。



書道史上の価値


書道史の面から見ると、江戸時代に国学者高橋道斎によってその価値を全国に紹介され、その後多くの文人、墨客が多胡碑を訪れている。筆の運びはおおらかで力強く、字体は丸みを帯びた楷書体である。北魏の雄渾な六朝楷書に極めて近く、北魏時代に作成された碑の総称である北碑、特にその名手であった鄭道昭の書風に通ずると言われる。清代の中国の書家にも価値が認められ、楷書の辞典である『楷法溯源』に多胡碑から39字が手本として採用された。



周辺施設




多胡碑記念館



  • 併設の多胡碑記念館は、多胡碑の研究資料の他、考古資料や古代中国の拓本などを展示している。開館時間は午前9時30分 - 午後5時(入館は午後4時30分まで)。毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日 - 1月4日)休館。

  • 多胡碑と記念館を含めた一帯は「吉井いしぶみの里公園」として整備されている。公園内には、移築復元された古墳2基(南高原1号墳、片山1号墳)や古代ハスの池、歌碑などがある。また、多胡碑の碑文が公園内の石垣にあしらわれている。

  • 多胡碑の敷地内に群馬県初代県令の楫取素彦の歌碑「深草のうちに埋れし石文の 世にめつらるゝ時は来にけり」がある。

  • 吉井運動公園が隣接している。



交通




  • 上信電鉄上信線吉井駅・馬庭駅から徒歩25分(わかりやすい一本道ではないので吉井駅常駐のタクシー利用が望ましい)

  • よしいバス(自家用有償バス)南陽台・馬庭線多胡碑記念館前停留所から0分(便数極小)。



仁叟寺多胡碑


高崎市吉井町神保の仁叟寺(じんそうじ)境内にも六角形の覆屋に多胡碑が安置されている。これは時代が下ってから模刻されたものと推測される。



脚注




  1. ^ 「上毛三碑」とも。


  2. ^ 前橋市教育委員会 高崎市教育委員会『平成26年度 前橋・高崎連携事業文化財展 東国千年の都 石を使って3万年-削る・飾る・祈る-』前橋市教育委員会、2015年。


  3. ^ 『続日本紀』巻5では和銅4年3月6日「三月辛亥割上野國(中略)片岡郡(中略)別置多胡郡」とする


  4. ^ "多胡碑周辺に正倉院…遺構発見"(読売新聞、2016年1月29日記事)。
    "奈良期の巨大な倉庫跡 高崎・多胡碑周辺調査で発見"(東京新聞、2016年1月29日記事)。




参考文献




  • 尾崎喜左雄 『多胡碑』-上野三碑付那須国造碑-(中央公論美術出版・・美術文化シリーズ 1967年)


  • 吉田金彦 『草枕と旅の源流を求めて―万葉の多胡・田子浦の歌』(勉誠出版、2004年(平成16年)) ISBN 4585071172







関連項目



  • 関東の史跡一覧

  • 日本三古碑

  • 北碑

  • 多胡羊太夫



外部リンク



  • 多胡碑記念館(吉井いしぶみの里公園内)

  • 国指定文化財等データベース

  • 全国遺跡報告総覧


  • 上野三碑一般公開 上毛新聞動画


座標: 北緯36度15分54.0秒 東経138度59分46.8秒 / 北緯36.265000度 東経138.996333度 / 36.265000; 138.996333







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