ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart | |
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バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年) モーツァルトの死後に想像で描かれた | |
基本情報 | |
出生名 | Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart |
別名 | 神童 |
生誕 | 1756年1月27日 神聖ローマ帝国・ザルツブルク |
死没 | (1791-12-05) 1791年12月5日(35歳没) 神聖ローマ帝国・ウィーン |
ジャンル | 古典派音楽 |
活動期間 | 1759年 - 1791年 |
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト[1](ドイツ語: Wolfgang Amadeus Mozart、洗礼名:ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]、1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリアの音楽家である[2]。古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長など。
目次
1 生涯
1.1 幼年期
1.2 巡業と音楽教育
1.3 マンハイム時代
1.4 ウィーン時代
1.5 晩年
1.6 妻子
1.7 年譜
1.8 死因
1.9 葬儀と墓
2 作品
3 作風
4 人物像
4.1 名前
4.2 容姿
4.3 人柄
4.4 ドイツ人論議
4.5 逸話
5 モーツァルトを扱った作品
6 その他
7 メディア
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク
11.1 音源 録音ファイル
11.2 楽譜
11.3 その他
生涯
幼年期
1756年1月27日、ザルツブルクに生まれる。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれていない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。
父・レオポルト・モーツァルトは元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。他の五人は幼児期に死亡し、唯一、五歳上の姉マリーア・アンナだけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった[3]。なお、祖先の姓はモッツハルト (Motzhardt)。
父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K. 1a)。11歳ごろの作曲譜も発見された[4]。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)に「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったと後に回想している[5]。
巡業と音楽教育
1769年から1771年にかけて、第1回目のイタリア旅行を行い、父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ (Gregorio Allegri) の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている[6]。イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた[7]。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。
1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった[8]。
マンハイム時代
1777年 にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中、アウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、この時、二人は互いにひかれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った[9]。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だったマンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた[10]。
モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画をたてるが[11]、父・レオポルトは猛然と反対し、1778年 2月にはパリ行きを命じる[12]。3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった[13]。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかった[14]。また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲する。7月3日、同行した母がパリで死去した。
ウィーン時代
1781年3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、5月9日、コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていた。
翌1782年、父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。
1783年、この頃『ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)』を作曲したといわれる(1778年説もある)。
1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンは「もし有力者が彼の才能を理解できるのなら、多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した[15]。
1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K. 492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪ねたとされるが記録は無い。5月には父・レオポルトが死去する。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K. 527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼を頻繁に行う。
1787年8月10日にウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』を作曲。
翌1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。
晩年
ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトの天才に怖れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする憶説もある。
1790年1月、オペラ 『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』 K. 588を初演する。2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K. 537「戴冠式」、同19番ヘ長調 K. 459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。
1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K. 595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルトの最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ 『皇帝ティートの慈悲』 K. 621を初演。
9月30日、シカネーダーの一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K. 620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。
体調は11月から悪化し、レクイエム K. 626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分にウィーンで死去した。35歳没。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。
この年、レオポルト・ホフマンの推挙でモーツァルトはシュテファン大聖堂の副楽長に任ぜられたが、無給であった。ホフマンは病床にあったため、彼が次期の楽長になる望みもあった。しかしモーツァルトの方が先に死去し、ホフマンが病から回復したため楽長に昇進することはなかった。ホフマンの死後に楽長を引き継いだのはアルブレヒツベルガーであった[18]。
死去する3年前の手紙に自分自身のことを語っている。「ヨーロッパ中の宮廷を周遊していた小さな男の子だった頃から、特別な才能の持ち主だと、同じことを言われ続けています。目隠しをされて演奏させられたこともありますし、ありとあらゆる試験をやらされました。こうしたことは、長い時間かけて練習すれば、簡単にできるようになります。ぼくが幸運に恵まれていることは認めますが、作曲はまるっきり別の問題です。長年にわたって、僕ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいません。有名な巨匠の作品はすべて念入りに研究しました。作曲家であるということは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力を意味するのです」
妻子
妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している[19]。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った[20]。成人した2人の男子はどちらも子供を残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいない。
年譜
1756年 (0歳) 1月27日、ザルツブルクに生まれる。
1761年 (5歳) 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K. 1a)。
1762年 (6歳) 10月マリア・テレジア御前演奏。
1763年 - 1766年 (7 - 10歳) パリ・ロンドン旅行。
1767年 - 1769年 (11 - 13歳) 第2回ウィーン旅行。オペラ『みてくれの馬鹿娘』K. 51上演。
1769年 - 1771年 (13 - 15歳) 第1回イタリア旅行。
1770年 (14歳) 黄金拍車勲章授与。12月26日 オペラ『ポントの王ミトリダーテ』K. 87初演。- 1771年 (15歳) 第2回イタリア旅行。セレナード『アルバのアスカニオ』K.111ミラノ上演。
1772年 - 1773年 (16 - 17歳) 第3回イタリア旅行。ミラノでオペラ『ルーチョ・シッラ』K. 135上演。- 1773年 (17歳) 第3回ウィーン旅行。
1774年 - 1775年 (18 - 19歳) 第4回ウィーン旅行。オペラ『偽の女庭師』K. 196上演。
1777年 (21歳) ザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、マンハイムへ移る。
1778年 (22歳) パリへ移り。7月、同行した母はパリで死去する。
1779年 (23歳) ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。
1780年 (24歳) オペラ『イドメネオ』K. 366準備のためにミュンヘンに赴く。マリア・テレジア崩御。
1781年 (25歳) ザルツブルク大司教コロレドと衝突、解雇。ウィーン定住を決意。
1782年 (26歳)
- 7月、オペラ『後宮からの誘拐』K. 384をウィーンで初演。
8月3日、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。
1783年 (27歳)
- ザルツブルクに帰郷。大ミサ曲ハ短調 K. 427を上演。
- 6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
1784年 (28歳)
- 第2子カール・トーマス・モーツァルト誕生。
フリーメイソンリーの慈善ロッジ(ウィーン)に入会(書類上では12月5日)。
1785年 (29歳) 弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。
1786年 (30歳) オペラ『フィガロの結婚』K. 492初演。
1787年 (31歳) 父・レオポルト死去。オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K. 527初演。
1788年 (32歳) いわゆる「3大交響曲」を作曲。
1789年 (33歳) ベルリン旅行。
1790年 (34歳) オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』K. 588初演。
1791年 (35歳) オペラ『皇帝ティートの慈悲』K. 621、オペラ『魔笛』K. 620初演。12月5日ウィーンにて死去。
死因
症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている[21]。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹ったとされている[22]。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。
モーツァルトは1791年7月に、自分がアクア・トファーナ(別名ナポリ水とも呼ばれた亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関するうわさが一気に広まった[23]。
また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされた[24]。
葬儀と墓
葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある[25]。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩馬車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である[26]。
没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである[27]。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。
現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行った[28]。検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったものの、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。
作品
作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、クラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。
作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる[29]。モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録を付けている。1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。
- 代表的な作品
- 5大オペラ:『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』、『魔笛』
- 宗教音楽:大ミサ曲、レクイエム、『アヴェ・ヴェルム・コルプス』
- 交響曲:第25番、第29番、第35番『ハフナー』、第36番『リンツ』、第38番『プラハ』、第39番、第40番、第41番『ジュピター』
- セレナード:『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、『セレナータ・ノットゥルナ』
- ピアノ協奏曲:第20番、第21番、第23番、第24番、第26番、第27番
- ヴァイオリン協奏曲:第3番、第5番『トルコ風』
- 管楽器のための協奏曲:クラリネット協奏曲、フルート協奏曲第1番、フルートとハープのための協奏曲、オーボエ協奏曲、ホルン協奏曲
- 弦楽四重奏曲:ハイドン・セット、ディヴェルティメント K. 136
- 弦楽五重奏曲:第3番、第4番
- その他室内楽曲:クラリネット五重奏曲、オーボエ四重奏曲
- ピアノソナタ:第11番『トルコ行進曲付き』
- ピアノのための変奏曲: きらきら星変奏曲(フランスの歌曲『ああ、お母さん、あなたに申しましょう』による12の変奏曲)ハ長調 K. 265
作風
最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、チェンバロ曲を中心に学んだ。その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンとヨハン・ゼバスティアン・バッハの影響が強い。
モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。聴衆にとっては、明るく、華やかに聞こえる作品が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。彼が主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた[30]。
晩年に向かうにつれて長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。
モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ.S.バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕があった。
「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが並外れた記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されている。人気の高いピアノ協奏曲23番については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はリンツ滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。
モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである[31]。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた[32]。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった[33]。従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制が無くなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれに当たる。
思想的には、フリーメイソンがパトロンであったこともあり、作品では特に魔笛、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている[34]。
人物像
名前
モーツァルトの洗礼名(ラテン語)は、ヨハンネス・クリュソストムス[36]・ウォルフガングス・テオフィルス[37]・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時はイタリアの音楽家がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。ただしモーツァルトは Amadeusではなくイタリア語風のアマデーオ(Amadeo)を主に使っていたともいわれ[38]、ほかフランス語風のアマデ(Amadé)、ドイツ語風のゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。
容姿
肖像画や銅像ではいずれも“神童”に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子どもの姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者ニーメチェクによれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何一つ、その大きな才能を示すものはなかった」という。有力なのは「21歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹ゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、未だに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小男である」「肥満が著しかった」という説がある。
検死による実際の身長は163センチメートルであった。左耳は奇形で対耳輪上脚と耳垂が欠けていた。この形の耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。また末子のフランツも同様の耳をしており、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。
信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)のヨーゼフ・ランゲによるスケッチである(右下)。
人柄
- 優秀な音楽家としての顔を持ちながら、その実は猥談を好み、妻のコンスタンツェに宛てた卑猥な内容の手紙が数多く残されている。
- 女性小説家であるカロリーネ・ピヒラー(Karoline Pichler)は「私がよく知っていたモーツァルトもハイドンも、高級な知能を全く示さない交友関係の人たちだった。凡庸な精神という素質、おもしろみのない冗談、そしてモーツァルトにおいては軽薄な生活が彼らとの交遊関係でみられたすべてであった。しかし、この取るに足らない殻の中には、素晴らしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情の世界が隠されていた!」と書いている。
- モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5ヶ国語を使い分けて書かれている。また友人などに宛てた手紙の中においては何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を唐突にかつ仔細に書き出したりしていた。
- モーツァルトは従姉妹に排泄にまつわる駄洒落にあふれた手紙を送ったことがある[40]。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるもので、「あなたの鼻に糞をします」、「ウンコで君のベッドを汚してやるぞ!僕のおしりが火事になった! どういうこと! 知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ? - ウンコが出たがってる? そう、そうだウンコだ。俺は変態だ!」などの記述がある[41]。従姉妹はマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトといい、父・レオポルトの弟の娘で、ヴォルフガングがこの女性と従姉妹以上の恋愛関係にあったともされる[42]。
- ベーズレ書簡はヴォルフガングの死後、息子たちによって破棄を望まれたが、現在6通が保管されており、これらの手紙は彼の男性的で激しい部分や、言葉による旺盛な想像力を示している。ベーズレの残された数少ない銅版画は、彼女の素晴らしい美貌を示しているが、この点は彼女の強みとはならず、彼女がかなり移り気な女性であったことがのちに証明されることとなった。
- 遠く離れた妻のコンスタンツェにあてた手紙では、そういった言葉づかいは見当たらず、繊細さや優しさを帯びた手紙となっている。ほかに『俺の尻をなめろ』(K. 231、K. 233)というカノンも作曲するなど、この類の話は彼にスカトロジーの傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者どうしでの尾籠な話は日常的なものでありタブーではなかったし[43]、またモーツァルトの両親も大便絡みの冗談をいっていた[44]。
19世紀の伝記作者はスカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。また、上掲の「俺の尻をなめろ」"Leck mir den Arsch"、"Leck mich im Arsch" は英語の"Kiss my ass"(「糞ったれ!」など)と同類の慣用表現であり、下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえない。- そのほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。
精神医学界には、こうした珍奇な行動がサヴァン症候群によるものであるという憶測もある[45]。
九柱戯(ボウリング)やビリヤードを好み[46]、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた[47]。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。賭博にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である[48]。
ドイツ人論議
2006年、ドイツのテレビ局ZDFが「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。
ザルツブルクに生まれ、後生はウィーン住まいであったことを現在の国家をあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」(これをドイツ帝国と略称することもある)が存続していたが、実態は統率の緩い国家連合と化しており、ナポレオン戦争以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とするドイツ連邦に衣替えしている。実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含むオーストリア大公領、バイエルン、プロイセン、ザクセンなどの大小のドイツ人諸邦が持っていた。そして、このオーストリア大公領が国号でなく、この称号も併せ持つ神聖ローマ皇帝ハプスブルク家の実質支配地域という曖昧な存在であったこと、つまり当時この地域に国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」しか存在しなかった、という点がZDFの論拠となっている。
モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」「ドイツ民族の栄光に寄与できればうれしい」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」という強烈なドイツオペラ宣言まで行っている[49]。また、ショパンの生前、その生国の新聞が「モーツァルトがドイツ人の誇りならショパンはポーランド人の誇りである」と絶賛したのも有名である。ただし、ここでいう「ドイツ人」とは、未だ確たる統一国家を持たない18 - 19世紀に掲げられた大ドイツ主義に基づく「ドイツ人」であり、現在の小ドイツ主義をもとにしたドイツ連邦共和国の国民とは異なるものであるとはいえる。また、書簡の中で自らをオーストリア人と述べる言葉がまったくない点も、上記のような国体情勢(大公領としてのエリア区分でしかなかった当時のオーストリアには国家とか国民とかいう概念は希薄だったうえに、モーツァルトは、その域外の出身者であり、域内のウィーンに在住したのは最後の十年にすぎない)からはやむをえない点である。同じ論法だとマリア・テレジアもハイドンもれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という問題があるにもかかわらず(これは、オーストリア人ヒトラーや伊仏露など周辺国だけでなく米国も含まれる海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)、結果としてモーツァルトだけがノミネートされたことは議論を呼ぶことになった。現在はザルツブルクやウィーンで、モーツァルトはオーストリア人の英雄として内外に伝えられている。
逸話
- モーツァルト一家の親しい友人であり、ザルツブルク大司教に仕えたトランペット奏者、ヴァイオリニスト、チェリストのシャハトナーは1763年のある日、わずか6歳のヴォルフガングがヴァイオリンを弾こうとしているところに出くわし、彼から「あなたのヴァイオリンは僕のよりも8分の1ピッチ高く調律されていますよ」と言われた。シャハトナーは最初それを聞いて笑ったが、ヴォルフガングの異常な感覚能力と音の記憶力を知っていた父がヴァイオリンを取ってきて「この子の言う通りか確かめてみてくれ」と言うので確かめてみると、ヴォルフガングの言うとおりだったという[50]。
- シャハトナーとの逸話は他にも残されていて、彼はマリアンネ・モーツァルトに向けた1792年4月の手紙にて、次のように書いている。
10歳ころまでの彼は、独奏のトランペットに常軌を逸した恐怖感を抱いていました。ある日あなたのお父さんがこの恐怖感を取り除くべく、近くでトランペットを吹いてやってくれ、と仰ったのでそうしてみたところ、あの甲高い音色を聞くとたちまち蒼白になり、気を失いそうになりました。あのまま続けていれば彼は引付を起こしていたでしょう…(中略)あなたは私がとても良いヴァイオリンを持っていたのをご存じのはずです。亡きヴォルフガングはそれの音色が柔らかくまろやかだというので、『バターみたいなヴァイオリン』と呼んでいました。[51]
音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの文献を探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は見つかっていないので、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。
- 姉ナンネルがウォルフガングのことをよく知っていた人から回想文を集めて出版された本には次のような証言がある。
彼は最も複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の夾雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった。[52]
1763年5月19日付の「アウクスブルガー・インテリゲンツ・ツェッテル」紙にもウォルフガングについての記事が載せられている。
…私は同じく、ある時は鍵盤の低音で、またあるときは高音で、そして可能なすべての楽器で演奏される音を別の部屋で聞かされて、たちどころに演奏された音符名を伝える彼を見聞きした。その通り、彼は鐘や大時計の音を聞き、懐中時計の音さえ聞きながら、聞き取った音をただちに口にすることができたのである…[53]
こういった彼の異常な感覚能力についての話は他にも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「あるロンドン王立協会への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶していて、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。#巡業と音楽教育の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。
モーツァルトを扱った作品
モーツァルトとサリエリ - 1830年、プーシキンの戯曲。
1897年、リムスキー=コルサコフがオペラ化。
哀しみのシンフォニー - シルヴィ・ヴァルタンの1972年のシングル曲。交響曲第40番にイタリア語の歌詞を乗せて歌唱。
旅の日のモーツァルト - メーリケの小説。
アマデウス - 1979年、ピーター・シェーファーの戯曲。
1984年、ミロス・フォアマン監督により映画化。
- モーツァルト - 1982年フランスのTVドラマ(全6回、540分)(マルセル・ブリュワル監督作品)。
くたばれアマデウス - 1985年西ドイツ映画 ウィーン警察と関係者が死因を探る推理ドラマ。
ピンクのモーツァルト - 松田聖子のシングル。- Rock me Amadeus - 1985年、オーストリアの歌手・ファルコの楽曲。
- モーツァルトは子守唄を歌わない - 1985年、森雅裕の小説。
マドモアゼル モーツァルト - 1989年、福山庸治の漫画。
1991年、音楽座がミュージカル化、2004年にも『21C:マドモアゼル・モーツァルト』として公演。
モーツァルト! - 1999年、ミュージカル作品。日本では2002年に初演。- Wolfango Amedeo(ヴォルフガング・アマデウス) - 2006年、G.ファザーノ作曲、V.セッサ=ヴィタリ作詞 同年の第49回ゼッキーノ・ドーロ(イタリア)優勝歌曲。
- モーツァルトの魔法の笛-2009年、メアリー・ポープ・オズボーン作 マジック・ツリーハウスシリーズの第27巻。
ロックオペラ モーツァルト - 2009年、Olivier Dahan演出 Dove Attia, Albert Cohen制作 ミュージカル作品。- プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード - 2016年の映画。
その他
- ユーロ導入前のオーストリアの最高額面の5000シリング紙幣、また現在のオーストリアの1ユーロ硬貨にも同じ肖像が採用されている。
- 彼を讃え、水星には「モーツァルト」という名のクレーターが存在する。
- モーツァルト没後200周年となる1991年に発見された鉱物に「モーツァルト石」(it:Mozartite)という名前がつけられている。
- モーツァルトの時代、ピアノ協奏曲の多くはピアノと明記されることは稀で、通常クラヴィーアと書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、通常有弦鍵盤楽器を指し、フォルテピアノ、チェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)、クラヴィコードのいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲などは編成からフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは1785年に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。
- 彼がフリーメイソンの会員であったことは比較的有名である。
メディア
フルートとハープのための協奏曲 ハ長調 K. 299 (297c)
- Performed by
- Alexander Murray (flute)
- Ann Yeung (harp)
- the Sinfonia da Camera of the University of Illinois
うまく聞けない場合は、サウンド再生のヒントをご覧ください。
脚注
^ 「モーツァルト」は舞台ドイツ語による発音であり、現在ドイツ語では「モーツァート」がより近く発音される。
^ 別記のように、国籍については議論が絶えないが、生地の現在版図と主要活躍地を併せ、現時点で「オーストリアの」と記す。広辞苑、大辞林、大辞泉のいずれもこの記載となっている。
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』4頁
^ 新発見のモーツァルトのピアノ曲演奏、オーストリア生家で
^ 『エッカーマンとの対話』岩波書店。またピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁
^ このことを詳細に語る父の手紙が残されている。
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』23頁
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』25頁
^ メイナード・ソロモン前掲書第10章。ピーター・ゲイ『モーツァルト』37 - 38頁
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』42頁
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』40頁
^ 父・レオポルトは唖然としてモーツァルトに「家族がお前に期待しているのは有名になり、お金を稼ぐことだ。」といった。同書。
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』42頁
^ 父への手紙で「通りは言葉にできないほどの糞だらけで」通行不能だったと記している。ピーター・ゲイ『モーツァルト』43頁。ただし当時の西欧では、このような状態はよくある光景であった。コルバン『においの歴史』藤原書店参照。
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁
^ 元来は頭部と首および肩の部分を描いた完成作だったが、後に新たなカンバスを貼って加筆した部分が未完となった。New Mozart Portrait - Stiftung Mozarteum Salzburg
^ MOSTLY CLASSIC 2012年2月号 P.132
^ レオポルト・ホフマンの項目に記事がある。
^ 当時は医学が発達した時代ではなかった。
^ フランツは弟子のジュースマイヤーの名であり、このためフランツ・クサーヴァーはモーツァルトの実子ではなく、妻・コンスタンツェとジュースマイヤーとの婚外子という説がある。
^ ピーター・J・デイヴィーズは、モーツァルトは以前にかかった伝染病の影響で慢性的な腎臓病を患っており11月に再び伝染病にかかったため、症状が急激に悪化して死に至ったとしている。ランドンの前掲書、268頁を参照。
^ 旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、道路の舗装が不完全であったがために馬車の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。罹患したリューマチに終生悩まされ、この持病のため体格が小柄になり、さらに直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。
^ これは現在証明は困難であるが、実際、当時の売れなかった二流の音楽家達は彼を非常に敵対視していたため、可能性が再浮上している。
^ この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られた。
^ 寺院に残された台帳によれば葬儀は6日に行われた。ヨーゼフ2世の勅令で、死人は死後48時間経たないと埋葬できない規定があったため、6日の深夜から7日の朝に埋葬されたと思われる。葬儀の日は嵐だったとする報告があり6日は穏やかな天候であったため、葬儀は7日に行われたとする説がある。しかし実際には7日にも降水はなく、強風が吹き始めたのは7日の深夜になってからであった。ソロモンの前掲書、749頁参照。
^ 葬儀の簡素化はヨーゼフ2世の合理主義的政策の1つであり、家族や知人が葬列に同行しないことは当時の慣習となっていた。ソロモンの前掲書、751頁参照。
^ もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。
^ 鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日に、オーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯とモーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。
^ ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。
^ 斎藤信哉著『ピアノはなぜ黒いのか』
^ このことは、当時の手紙や各種の資料で確認できる。作曲家が「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される。」という形態には至っていなかったようである[要出典]。
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』50頁
^ モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較され差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは2人が置かれていた社会的状況とヨーロッパを旅行してその歴史を知り尽くしていたかどうかの差であると言える[要出典]。
^ なかにし礼『三拍子の魔力』(毎日新聞社、ISBN 4620318426)を参照のこと。
^ "Award of the Papal Equestrian Order of the Golden Spur to Wolfgang Amadeus Mozart" Archived 2010年9月18日, at the Wayback Machine., Vatican Archives
^ 4世紀の教会博士で聖人のヨハネス・クリュソストモスにちなんでいる。
^ 「テオフィルス」はギリシア語で「神を愛する」または「神に愛された」の意のテオフィロス(Θεόφιλος, Theophilos)をラテン語形にしたもの。
^ 石井宏『反音楽史』127頁
^ MOSTLY CLASSIC 2012年2月号 P.132
^ 前掲『モーツァルトの手紙』上巻79頁。1777年の「ベーズレ書簡」。「あなたの鼻に糞をします」などの記述がある。このことから「才能は今の半分でいいから社会性が2倍ほしい」と言われたことがある。
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』39頁
^ メイナード・ソロモン前掲書第10章。ピーター・ゲイ『モーツァルト』37 - 38頁
^ アインシュタイン、前掲書、47頁
^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』33頁
^ Aidin Ashoori, Joseph Jankovic: "Mozart’s movements and behaviour: a case of Tourette’s syndrome?" Journal of Neurology, Neurosurgery, and Psychiatry 2007;78:1171-1175; PMID 17940168
^ 関連項目:P. D. Q. バッハ
^ CUE'S(2006年5月号114頁)
^ 礒山雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ、37 - 40頁
^ 海老沢敏・高橋英郎 編訳『モーツァルト書簡全集』白泉社
^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』78頁
^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』219頁
^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』79頁
^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』79頁
参考文献
NEUE MOZART-AUSGABE(新モーツァルト全集)
ベーレンライター社・パックスアーレン社のソフトカバー版が入手できる。
アルフレート・アインシュタイン 『モーツァルト-その人間と作品』 浅井真男訳、白水社、初版1961年(原著1945年) (新版1997年)ISBN 4-560-03732-9
- 著者アルフレート・アインシュタインは音楽史研究家で、物理学者アルベルト・アインシュタインの従弟。
- 『モーツァルトの手紙』 柴田治三郎編訳、岩波文庫(上下巻)、初版1980年 ISBN 4-00-335041-3 ISBN 4-00-335042-1
- H.C.ロビンズ・ランドン 『モーツァルト最後の年』 海老沢敏訳、中央公論社、2001年(原著1988年) ISBN 4-12-003114-4
- メイナード・ソロモン 『モーツァルト』 石井宏訳、新書館、1995年(原著1995年) ISBN 4-403-12006-7
- ピーター・ゲイ 『モーツァルト』 高橋百合子訳、岩波書店、2002年(原著1999年、PenguinPutnum Inc.)
石井宏 『反音楽史-さらば、ベートーヴェン』 新潮社、2004年 ISBN 4-10-390303-1
ノルベルト・エリアス 『モーツァルト ある天才の社会学』 青木隆嘉訳、法政大学出版局〈叢書ウニベルシタス〉、1991年 ISBN 4-588-00353-4
岡田暁生 『恋愛哲学者モーツァルト』 新潮社 2008年 ISBN 4106036002
なかにし礼 『三拍子の魔力』 毎日新聞社 2008年 ISBN 4620318426
真木洋三 『モーツァルトは誰に殺されたか』
三枝成彰 『名曲の履歴書』 朝日新聞出版 2013年 ISBN 978-4-02-251039-6
関連項目
- モーツァルト (曖昧さ回避)
- ウィーン古典派
- ケッヘル番号
- 国際モーツァルテウム財団
- ザルツブルク・モーツァルテウム大学
- モーツァルテウム管弦楽団
- モーツァルト国際コンクール
- モーツァルト管弦楽団
- モストリー・モーツァルト・フェスティバル
- ヴュルツブルク・モーツァルト音楽祭
- モーツァルト効果
ピョートル・チャイコフスキー - モーツァルトを敬愛し、組曲第4番「モーツァルティアーナ」という曲を書いている。
アルフレート・シュニトケ - モーツァルトの楽曲の主題や様式を取り入れた"Moz-Art"というタイトルの曲をいくつか書いている。
ジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュ - 「黒いモーツァルト」
ヨーゼフ・マルティン・クラウス - 「スウェーデンのモーツァルト」
フランソワ・ドヴィエンヌ - 「フランスのモーツァルト」
サミュエル・ウェズリー - 「イングランドのモーツァルト」
ホアン・クリソストモ・アリアーガ - 「スペインのモーツァルト」
キダ・タロー - 「浪花のモーツァルト」
外部リンク
音源 録音ファイル
- - the european archive : Seach Results page -
- Composer Wolfgang Amadeus Mozart - listen online, download mp3 - complete works
楽譜
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの楽譜 - 国際楽譜ライブラリープロジェクト。PDFとして無料で入手可能。
新モーツァルト全集・デジタル版 - 新モーツァルト全集の総譜すべてが網羅されており、PDFとして入手できる。
その他
- モーツァルトの楽曲一覧
Mozarthaus Vienna(日本語 - モーツァルトハウス・ウィーン)
Classic Manager - モーツァルトの楽曲無料鑑賞サイト