侍従
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侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。
目次
1 沿革
1.1 律令官制の侍従
1.2 近代以降の侍従
2 歴代侍従長
2.1 明治以降大日本帝国憲法下
2.2 日本国憲法施行後
3 著名な侍従の一部(侍従長以外)
4 脚注
5 関連項目
沿革
律令官制の侍従
律令官制の侍従は、和名を「まへつきみ(まえつきみ)・おもとびと・おもとびとまちぎみ」、唐名は拾遺などという。
飛鳥浄御原令の段階では設置されていなかったとみられている[1]。大宝令によると、従五位下相当官で、中務省に属するとされた。定員8名であったが、時代と共に増員され、最大20名程まで増員された。うち3名は少納言を兼任した。侍衛官であるため帯剣した。平安時代に蔵人所が設置されてその役割が急速に縮小され、多くは大納言、中納言、参議が兼任するようになる。中世においては、侍従は専ら儀礼を担当することになり、天皇に側近奉仕する官としての色合いが薄れた。
定員が8名の頃、92名の次侍従が置かれ、侍従と併せて100名の定員とした。次侍従は四、五位で長年の勤務実績がある者が、八省、その他の役所から選抜され任命された。職掌は天皇の側で雑務を担当した。
近代以降の侍従
1869年 (明治2年)、宮内省に属することとなった。1871年にはその長として侍従長(じじゅうちょう)が置かれ、徳大寺実則・河瀬真孝・東久世通禧の3人が任命された。
宮内省官制(明治40年皇室令第3号)によると、「侍従長ハ親任又ハ勅任トス常侍奉仕シ侍従職ヲ統轄シ便宜事ヲ奏シ旨ヲ宣ス」・「侍従ハ……奏任トス側近ノ事ヲ分掌ス」とされていた。侍従武官長が慣例として陸軍から任用されていたのに対し、鈴木貫太郎以降の侍従長は海軍より続けて任用された。
第二次世界大戦後は、一時期の宮内府時代を経て宮内庁侍従職に属する。国家公務員法(昭和22年法律第120号)施行以降も、侍従は同法の適用を受けない特別職とされ、一級官・二級官などの区別が存続していた(官記に「二級に叙する」などと記載)が、中央省庁再編後は官記への級別記載はされなくなった。
なお、侍従は特別職であるため定年はないが、70歳を超えると自己申告したうえで退任する慣例がある[2]。
侍従長の職は認証官であり、その任免は天皇により認証される。認証官ではない宮内庁次長よりも格上であり、給与も僅かながら高い。
侍従長以外の侍従職に下記の職がある。
侍従次長(じじゅうじちょう)と侍従(じじゅう)
内舎人(うどねり)…天皇の身の回り全般の世話をする。
殿部(でんぶ)…御所の清掃作業などで仕人を指揮する。
仕人(つこうど)…殿部を補佐し、主に御所の表側や外回りの清掃、整備などを行う。
歴代侍従長
明治以降大日本帝国憲法下
徳大寺実則 1871年9月18日(旧暦: 明治4年8月4日) - 1877年(明治10年)8月29日
1884年(明治17年)に再任。
河瀬真孝 1871年11月2日(旧暦: 明治4年9月20日) - 1873年(明治6年)9月30日
東久世通禧 1871年11月27日(旧暦: 明治4年10月15日) - 1877年(明治10年)8月29日
山口正定 1878年(明治11年)12月24日 - 1884年(明治17年)3月22日
米田虎雄 1878年(明治11年)12月24日 - 1884年(明治17年)3月22日
- 徳大寺実則 1884年(明治17年)3月21日 - 1912年(大正元年)8月13日
桂太郎 1912年(大正元年)8月13日 - 12月21日
鷹司煕通 1912年(大正元年)12月21日 - 1918年(大正7年)5月15日
正親町実正 1918年(大正7年)5月27日 - 1922年(大正11年)3月22日
徳川達孝 1922年(大正11年)3月22日 - 1927年(昭和2年)3月3日
珍田捨巳 1927年(昭和2年)3月3日 - 1929年(昭和4年)1月16日
鈴木貫太郎 1929年(昭和4年)1月22日 - 1936年(昭和11年)11月20日
1929年(昭和4年)に予備役編入と同日に侍従(海軍大将)、1929年(昭和4年)1月22日に侍従長。
百武三郎 1936年(昭和11年)11月20日 - 1944年(昭和19年)8月29日
藤田尚徳 1944年(昭和19年)8月29日 - 1946年(昭和21年)5月3日
日本国憲法施行後
大金益次郎 1946年(昭和21年)5月3日 - 1948年(昭和23年)6月5日
三谷隆信 1948年(昭和23年)6月5日 - 1965年(昭和40年)3月30日
稲田周一 1965年(昭和40年)3月30日 - 1969年(昭和44年)9月16日
入江相政 1969年(昭和44年)9月16日 - 1985年(昭和60年)9月29日
徳川義寛 1985年(昭和60年)10月1日 - 1988年(昭和63年)4月13日
山本悟 1988年(昭和63年)4月13日 - 1996年(平成8年)12月12日
渡邉允 1996年(平成8年)12月12日 - 2007年(平成19年)6月15日
川島裕 2007年(平成19年)6月15日 -2015年(平成27年)5月1日
河相周夫 2015年(平成27年)5月1日-
著名な侍従の一部(侍従長以外)
- 律令制下
橘休蔭:天安元年侍従。
平野王:出雲守。
島江王:大舎人頭。
在原安貞:元慶2年次侍従。
在原善淵:貞観5年次侍従。
藤原長房:長久3年侍従。
久我通相:嘉暦4年侍従。太政大臣。
吉良義央:明暦3年 侍従兼上野介。
- 明治以降
山岡鉄太郎:幕臣出身。
加藤泰秋:子爵。元伊予大洲藩主。
島義勇:明治3年頃。秋田県権令・開拓使判官
藤波言忠:明治10年 - 明治12年侍従試補、明治12年 - 明治22年侍従。子爵、宮中顧問官。- 小倉庫次
河井弥八:侍従次長。後に参議院議長。「日記」がある。岩波書店全6巻
甘露寺受長:侍従次長・東宮侍従。伯爵、明治神宮宮司、掌典長
永積寅彦:侍従次長、掌典長。昭和天皇御学友。陸軍大将大迫尚道の三男。
穂積重道:穂積重遠の子。- 鈴木一:昭和22年4月から侍従次長。陸軍主計中尉、首相秘書官、入国管理庁長官。侍従長・首相鈴木貫太郎の長男。
木下道雄:「木下侍従日記」がある。文藝春秋
手塚英臣:侍従次長を2005年(平成17年)3月に退任する。
千沢治彦:1964年に学習院大学卒業。1993年(平成5年)に侍従に任じられる。2005年から侍従次長。
岡部長章:岡部長職の八男でのちに京都外国語大学教授となる。妻は岩崎輝弥の長女。
東園基文:東園基文の三男で、旧子爵東園家第3代当主。のち宮内庁掌典長、神社本庁統理、伊勢神宮崇敬会会長を歴任。
広幡忠朝:陸軍大尉侯爵
広幡忠隆:侯爵。皇太后宮大夫兼侍従次長
山縣有道:公爵、式部官。
卜部亮吾:「卜部亮吾侍従日記」がある。朝日新聞社全5巻
楠本祐一:外交官。平成元年 - 平成3年侍従。在ポーランド特命全権大使。
多賀敏行:外交官。平成5年 - 平成8年侍従。在チュニジア特命全権大使。
- 東宮侍従
小笠原長育:子爵。大正天皇の教育係。越前勝山藩第8代藩主・小笠原長守長男。
有馬純文:子爵。明治33年東宮侍従。
田内三吉:1902年に東宮侍従。後正三位勲一等陸軍少将。
穂積重遠:男爵。1945年8月から東宮大夫兼東宮侍従長。後に最高裁判所判事。
大嶋英一:外交官。平成8年 - 平成10年東宮侍従。在フィジー特命全権大使。
水谷章:外交官。平成10年 - 平成12年東宮侍従。在モザンビーク特命全権大使。
脚注
^ 柳雄太郎「中務省の成立について」(初出:『史聚』46号(2013年)/所収:柳『律令制と正倉院の研究』(吉川弘文館、2015年) ISBN 978-4-642-04617-6)
^ 「天皇陛下を支え48年、目黒侍従が退官」産経新聞 2014年2月2日配信
関連項目
宮内庁・宮内省・中務省
- 侍従武官
- 東宮侍従
- 内舎人
en:Chamberlain (office) - 日本以外の侍従、家令について。