チェコ
- チェコ共和国
- Česká republika
(国旗)
(国章)
- 国の標語:Pravda vítězí
(チェコ語:真実は勝つ)
国歌:Kde domov můj(チェコ語)
我が家何処や
公用語
チェコ語
首都
プラハ
最大の都市
プラハ
- 政府
大統領
ミロシュ・ゼマン
首相
アンドレイ・バビシュ
- 面積
総計
78,866km2(114位)
水面積率
2.0%
- 人口
総計(2008年)
10,369,000人(79位)
人口密度
130人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年)
3兆7,058億[1]チェコ・コルナ
- GDP (MER)
合計(2008年)
2,170億[1]ドル(38位)
- GDP (PPP)
合計(2008年)
2,621億[1]ドル(36位)
1人あたり
25,395[1]ドル
独立
- 日付
チェコスロバキア解体
1993年1月1日
通貨
チェコ・コルナ (CZK)
時間帯
UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1
CZ / CZE
ccTLD
.cz
国際電話番号
420 1
註1: 1997年までは、スロバキアと共に42
チェコ共和国(チェコきょうわこく、チェコ語: Česká republika、英: Czech Republic)通称チェコは、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はプラハである。
歴史的には中欧の概念ができた時点から中欧の国であった。ソ連の侵攻後、政治的には東欧に分類されてきたが、ヨーロッパ共産圏が全滅した時点で再び中欧または中東欧に分類されている。国土は東西に細長い六角形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接する。
1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに分離し成立した。NATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員でもある。
目次
1 国名
2 歴史
2.1 古代〜中世
2.2 民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで
2.3 共産主義政権とその崩壊後
3 政治
4 軍事
5 地方行政区分
5.1 主要都市
5.2 都市・村の一覧
6 地理
7 経済
7.1 伝統産業
7.2 交通
8 国民
8.1 言語
8.2 宗教
8.3 婚姻
9 文化
9.1 食文化
9.2 文学
9.3 音楽
9.4 スポーツ
9.5 世界遺産
9.6 祝祭日
10 著名な出身者
11 脚注
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
国名
正式名称(チェコ語)は Česká republika [ˈtʃɛskaː ˈrɛpuˌblɪka] ( 音声ファイル)(チェスカー・レプブリカ:チェコ共和国)。通称は Česko [ˈt͡ʃɛsko](チェスコ)。
英語での公式名称は Czech Republic [ˈtʃɛk ɹɨˈpʌblɪk] ( 音声ファイル)(チェク・リパブリック)だった。チェコ外務省が1993年に提唱した通称に、ラテン語風の Czechia があり、チェコ政府は2016年4月14日に公式にこの略称を英語圏および国連に向けて使用することを発表したが[2][3][4]、現在一般的に使われているとは言い難く、“Czech Republic” をそのまま用いることが多い。
日本語ではチェコ共和国(外務省統一表記)。通称チェコ。かつての外務省書類等ではチェッコという表記が使用された。なお、「チェッコ」という場合は、日中戦争期のチェコスロバキア製軽機関銃を指すこともある(→ZB26軽機関銃)。
かつて一つの国家であった「チェコスロバキア」の英語での綴りは Czechoslovakia である。これは1918年の建国時にチェコ民族とスロバキア民族による一つの国家として建国されたものであるが、日本では「チェコスロバキア」の短縮形として単に「チェコ」を使う場面もみられた。
チェコ共和国の国境が現在のようになったのは1993年になってのことである。
プラハを中心とした “Čechy” [ˈt͡ʃɛxɪ](チェヒ、ラテン名「ボヘミア」)、ブルノを中心とした “Morava” [mɔˈrava](モラーヴァ、ラテン名「モラヴィア」)、さらにポーランド国境近くの “Slezsko” [ˈslɛsskɔ, ˈslɛskɔ](スレスコ、ラテン名「シレジア」)の3つの地方がチェコ共和国を形成している。
ボヘミア地方を示す “Čechy”(チェヒ)をチェコスロバキア建国の命名に採用しているが、もちろん国家にはモラヴィアもシレジアも入る。歴史的に、チェコ語における Čechy、および英語の Czech では、「ボヘミア地方」のみを指す文献もある。そのため、チェコ共和国という国家としての表現を必要とする場合、「チェコ共和国」、“Česká republika”、“Czech republic” を用いるのが正確であり、世界的には一般的な考え方である。
現在、チェコ共和国内のメディアなどで見かける “Česko” は、チェコスロバキア時代の通称 “Československo” から、形式上チェコにあたる部分を切り離した呼び名であり、チェコ共和国を指す。だが、新しい呼称のため、定着したといえるのは最近であり、公の場や正式な文章では用いられない。
歴史
古代〜中世
古代にはケルト人がこの地に居住し独自の文化を形成した。その後ゲルマン人が定住したが[5]、6世紀までにはスラヴ人が定住し、これが現在のチェコ人の直接の祖先となる。7世紀にフランク人サモの建設した王国がここを支配。つづいてアバール人が支配者となった。9世紀前半にようやく、スラヴ人は大モラヴィア王国を建設した。大モラヴィア王国はブルガリア帝国を通じて東ローマ帝国と交易を行い、ビザンツ文化を摂取した。
西部のボヘミア、モラヴィア地方ではプシェミスル家が西スラブ人の王国を建設した(チェヒ国)。907年にマジャル人が侵入し、大モラヴィア王国が崩壊すると、王国の東部スロバキアはハンガリーの支配をうけることになった。10世紀後半からカトリックが普及した。11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。12世紀のオタカル1世の時にボヘミア王の称号(DuchyからKingdomに昇格)と世襲が承認され、その後ヴァーツラフ1世が国王に即位した。
13世紀末には神聖ローマ帝国選帝侯の地位を獲得した。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世(カール4世)が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の主要都市の一つとなり、1348年にはプラハ大学が設立された。この時期のチェコは、民族的にはドイツ人の支配を受ける植民地でありながら、地域としてはドイツを支配するという王都でもあるという状況にあった。
15世紀にはヤン・フスがプラハ大学(カレル大学)学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱がおきた(フス戦争)。
その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。なお、チェコ史においてハプスブルク家の支配は長年「暗黒時代」とされてきたが、これには旧体制を否定しようとする新生の共和国・続く共産主義政権のプロパガンダが多分に含まれており、「暗黒時代」史観はもはや過去のものとなっている。
民族主義の目覚めからチェコスロバキア共和国建国まで
18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にヨーロッパに広がった1848年革命がチェコ革命を誘発し、パラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。
第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年に民族自決の理念のもとチェコスロバキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼ全てを支配し、スロバキア人と対立した。そのためスロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した(ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体)。
共産主義政権とその崩壊後
第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんど全てが財産を奪われた上チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン公国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2009年までチェコ・スロバキア両国を国家として承認するのを拒否してきた[6])。
1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民民主主義」を宣言した(二月事件)。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発し、ノヴォトニー政権に代わりスロバキア人のドゥプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれた。しかし、改革の行方に懸念を抱いたソ連を含むワルシャワ条約機構5カ国の軍が介入(チェコスロヴァキア侵攻)、スロバキア人のフサーク政権が樹立され、「正常化体制」路線を推し進めた。国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、当時の東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。
1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。
2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し(欧州洪水)、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。
2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。
政治
国家元首は議会によって選出される大統領である。任期は5年で3選は禁止され、2013年以降はミロシュ・ゼマンが務める。大統領は首相を任命し、その補佐を受けて17名の大臣も任命する。近年では、2010年5月28 - 29日に実施された総選挙の結果、中道左派のチェコ社会民主党が第1党となったものの議席の過半数には程遠く、また連立政権の樹立のめどが立たないため敗北を宣言した。このため、第2党の市民民主党と新党のTOP 09、公共の物との間で中道右派の連立政権を発足させることで合意し、その首班には市民民主党党首のペトル・ネチャスが任命された。しかし、ネチャスは2013年、自身の首席補佐官で愛人と噂されていたヤナ・ナジョヴァーが逮捕されるというスキャンダルで引責辞任し、後任に同党のイジー・ルスノクが就いた。
議会は元老院と代議院によって構成される。代議院は議席数200、任期は4年で、比例代表制による直接選挙で選出される。元老院は議席数81、任期は6年で、2年ごとに定数の3分の1ずつを改選する。チェコ共和国発足当初、元老院は選挙方法などが決まらず、代議院がその機能を代行してきたが、1996年11月に初の小選挙区制による元老院選挙が行われて両院制が整った。
軍事
この節の加筆が望まれています。 |
地方行政区分
チェコの地方行政区画は2000年に再編され、プラハ首都特別区および13のクライと呼ばれる行政区に区分されている。
主要都市
都市 | 州 | 人口 (2010) | |
---|---|---|---|
1 | プラハ | 1,249,026 | |
2 | ブルノ | 南モラヴィア州 | 371,399 |
3 | オストラバ | モラヴィア・スレスコ州 | 306,006 |
4 | プルゼニ | プルゼニ州 | 169,935 |
5 | リベレツ | リベレツ州 | 101,625 |
6 | オロモウツ | オロモウツ州 | 100,362 |
7 | チェスケー・ブジェヨヴィツェ | 南ボヘミア州 | 94,747 |
8 | フラデツ・クラーロヴェー | フラデツ・クラーロヴェー州 | 94,255 |
都市・村の一覧
地名 | チェコ語名 | ドイツ語名 | 備考 |
---|---|---|---|
ビーラー・ホラ(白山) | Bílá Hora | Weißenberg | ビーラー・ホラの戦い(1620年、三十年戦争) |
ブランディース・ナド・ラベム | Brandýs nad Labem | Brandeis an der Elbe | ユダヤ人街 |
ブルノ(ブリュン) | Brno | Brünn | モラヴィアの中心地 |
ブジェツラフ | Břeclav | Lundenburg | |
ブジェゾヴァー | Březová | Pirkenhammer | 陶器ブランド |
ツィーノヴェツ (ツィンヴァルト) | Cínovec | Zinnwald(-Georgenfeld) | チンワルド雲母の産地。 |
チェスケー・ブジェヨヴィツェ (ブトヴァイス) | České Budějovice | Budweis | バドワイザー(ブジェヨヴィツキー・ブドヴァル)。司教座。近郊にホラショヴィツェ、フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ(Hluboká nad Vltavou)、トシェボニ(Třeboň)などがある |
チェスキー・クルムロフ (ベーミッシュ・クルーマウ) | Český Krumlov | Krumau | 世界遺産。近郊にホルニー・プラナー(Horní Planá)がある |
ドマジュリツェ | Domažlice | Taus | ドマジュリツェの戦い(1631年、フス戦争) |
ドヴール・クラーロヴェー (ラベ河畔の) | Dvůr Králové nad Labem | Königinhof | |
フリードラント | Frýdlant | Fiedland | ヴァレンシュタイン(ヴァルトシュタイン)家 |
ホドニーン | Hodonín | Göding | |
ホラショヴィツェ | Holašovice | Hollschowitz | 歴史的集落が世界遺産 |
ホレショフ | Holešov | Holleschau | ユダヤ人街 |
フラデツ・クラーロヴェー (ケーニヒグレーツ) | Hradec Králové | Königgrätz | 司教座。サドワの戦い(ケーニヒグレーツの戦い) |
フラニツェ | Hranice | Mährisch-Weißkirchen | ユダヤ人街 |
ヘプ(エーガー) | Cheb | Eger | ヴァレンシュタイン暗殺 |
ホドフ(ホーダウ) | Chodov | Chodau | 陶器ブランド |
イヴァンチツェ | Ivančice | Eibenschütz, Eibenschitz | ユダヤ人街がある。グイード・アードラー、アルフォンス・ムハらの生地。 |
ヤーヒモフ (ザンクト・ヨアヒムスタール) | Jáchymov | Sankt Joachimsthal | トレル(ドルの語源)貨幣鋳造 |
ヤンコフ(ヤンカウ) | Jankov | Jankau | ヤンカウの戦い |
イフラヴァ(イグラウ) | Jihlava | Iglau | 銀鉱、マーラー |
カルロヴィ・ヴァリ (カールスバート) | Karlovy Vary | Karlsbad | 温泉町(鉱泉、鉱塩)、カールスバート決議 |
カルルシュテイン | Karlštejn | Karlstein | カルルシュテイン城 |
クラドノ | Kladno | 工業都市 | |
コリーン | Kolín | Kolin, Köln an der Elbe | コリーンの戦い(1757年、七年戦争) |
クルノフ (イェーゲルンドルフ) | Krnov | Jägerndorf | かつて一侯国。クルノフ・シナゴーグ(Krnovská synagoga)など。 |
クロムニェジーシュ | Kroměříž | Kremsier | 世界遺産 |
クトナー・ホラ (クッテンベルク) | Kutná Hora | Kuttenberg | 銀鉱、グロシュ 銀貨鋳造 |
レドニツェ | Lednice | Eisgrub | 世界遺産 |
リベレツ (ライヒェンベルク) | Liberec | Reichenberg | |
リディツェ (リジツェ,リヂツェ) | Lidice | Liditz | ナチス・ドイツによる虐殺 |
リトムニェジツェ | Litoměřice | Leitmeritz | |
リトミシュル | Litomyšl | Leitomischl | スメタナ出生地。リトミシュル城が世界遺産 |
ロヴォシツェ (ロボジッツ) | Lovosice | Lobositz, Lovositz | ロボジッツの戦い(1756年、七年戦争) |
マレショフ | Malešov | Maleschau | マレショフの戦い(1424年、フス戦争) |
マリアーンスケー・ラーズニェ (マリエンバート) | Mariánské Lázně | Marienbad | 温泉町、映画祭 |
ミクロフ (ニコルスブルク) | Mikulov | Nikolsburg | ニコルスブルク和約、ユダヤ人街。近郊に、レドニツェ&ヴァルチツェがある。 |
ムニホヴォ・フラジシチェ | Mnichovo Hradiště | Münchengrätz | |
ナーホト | Náchod | Nachod | ナーホトの戦い |
ヴルタヴァ川 (モルダウ川) | Vltava | Moldau | スメタナの交響詩集『わが祖国』(Ma Vlast)の第2曲で有名な川 |
地理
チェコの地形は非常に変化に富んでいる。国土は、西に隣接するドイツとの国境線から東のスロバキアまで広がるボヘミア高原にある。北西から北東にかけては山脈が高原を囲み、南西部ドイツとの国境地帯にはボヘミアの森が広がる。高原中央部はなだらかな起伏のある丘陵や農耕地、肥沃な河川流域からなる。主要河川は、エルベ川、ヴルタヴァ川、モラヴァ川、オーデル川。最高峰はズデーテン山地にあるスニェジカ山である。
経済
国際通貨基金(IMF)による統計ではチェコのGDPは1,985億ドル、一人あたりのGDP(為替レート)は18,857ドルでありEU平均の半分、世界水準の1.8倍である[いつ?]。
オーストリア=ハンガリー帝国時代に早くから産業革命が進み、1930年代には世界第7位の工業国であった。かつての共産党政権下での中央集権的な計画経済から、市場経済への移行を遂げている。もともとチェコスロバキアは旧東欧諸国の中でも工業化が進んでいたが、共産党政権の崩壊とともに民営化が推し進められた。1980年代から西側企業の進出が相次いでおり、ビロード革命等の混乱はあったが、1994年には成長率がプラスに転じ、旧東欧諸国の中ではスロベニアやハンガリー等と並んで高い水準を維持している。1995年にOECD、2004年にはEU加盟国となった。2009年の世界経済危機以降は成長率が鈍化している。
2004年にチェコがEUに加盟してから2007年末までの経済成長により、チェコの平均給与は40%以上も上昇した。このような状況で、チェコの労働者は高い給料を求めて次々と転職を繰り返し、一つの企業で長く働くことはなくなり、企業の教育もおぼつかない状態になった。「安くて良質な労働力」を期待してチェコに殺到した外資系メーカーは深刻な人手不足と納期不達に悩み、急上昇する人件費は企業の利益を急激に圧迫する要因となっている。
打開策として、国内のメーカーは製造ラインのロボット化を進める一方、ベトナムやモンゴルから安くて優秀な労働者を大量に雇いチェコへ労働移民として送り込む方向 [2]。チェコの工場を閉鎖して別の国に工場を新設することを検討している企業も多い。
主要輸出品目は機械、輸送機器、化学製品、金属などで、主要輸出相手国はドイツ、スロバキア、ポーランド、オーストリア、フランス、イギリス、イタリアである。一方、主要輸入品目は機械、輸送機器、鉱物性燃料、化学製品、農産物で、主要輸入相手国はドイツ、ロシア、中国、イタリア、フランス、オーストリア、オランダ、スロバキア、ポーランドである。
伝統産業
交通
国民
チェコ人が90.4%である。さらに、モラヴィア人が3.7%である。少数民族としては、スロバキア人が1.9%、ポーランド人が0.5%、ドイツ人が0.4%、シレジア人が0.1%、マジャル人が0.1%、ロマが0.1%である。
かつてズデーテン地方で多数派であったドイツ人は、第二次世界大戦後のドイツ人追放によりそのほとんどがドイツに追放された。又戦前に多かったユダヤ人のコミュニティも消滅している(詳細はチェコのユダヤ人を参照)。
言語
言語はチェコ語が公用語である。
宗教
前近代よりフス戦争などの熾烈な宗教戦争が戦われてきたチェコでは、その複雑な歴史的経緯から無宗教者が多く、60%がこのグループに属する。その他、カトリックが27.4%、プロテスタント1.2%、フス派が1%である。かわりに自民族至上主義を掲げる排他的な民族主義が非常に強いという特徴がある。
キリスト教圏ではあるが、1913年以来チェコのカトリック教会は火葬を容認しており、また、上述の通り無宗教者が多いこともあって、ヨーロッパ諸国のなかではイギリスと並んで火葬率が高い。
婚姻
婚姻時、夫婦同姓、夫婦別姓、結合姓が選択できる[7]。
文化
食文化
ビール - チェコはビールの国民一人当たりの年間消費量が世界一である。2005年統計では一人当たり161. 5Lで日本の3.3倍の消費量。ピルゼン地方を発祥の地とするピルスナータイプ(ラガービールの一種)は、チェコをはじめとした欧州諸国のみならず、日本のような非ビール文化圏も含めた世界中に広がりを見せている。
- ピルスナー・ウルケル
ブドヴァル(ブドヴァイゼル。英語読みはバドワイザー。ただし、バドワイザーは登録商標である)
クネドリーキ(クネーデル)- グラーシュ
- ブランボラーク
- スマジェニー・ジーゼック
- スマジェニー・スィール
- スヴィチュコヴァー
- クグロフ
- パーレック・フ・ロフリーク -「ロールの中のソーセージ」という意味で、パンロールにマスタード・ソーセージを入れたもの。
- トゥルデルニーク - 小麦粉に砂糖を混ぜて練りこみ、シナモンをかけて生地を鉄棒にらせん状に巻きつけて焼いたもの。
文学
- フランツ・カフカ
- アロイス・イラーセク
- ボジェナ・ニェムツォヴァー
- オタ・パヴェル
- カレル・チャペック
- ヤロスラフ・ハシェク
- ヤロスラフ・サイフェルト
- ミラン・クンデラ
- イヴァン・ヴィスコチル
- イヴァン・クリーマ
- ボフミル・フラバル
- ミハル・アイヴァス
- アニメーション作家
- イジー・トルンカ
- カレル・ゼマン
- ヤン・シュヴァンクマイエル
音楽
ベドルジハ・スメタナ(ベドジフ・スメタナ)
アントニン・ドヴォルザーク(アントニーン・ドヴォジャーク)
スポーツ
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チェコでもっとも人気のあるスポーツはアイスホッケーであり国技ともいわれる。NHLに多数の選手が所属し、国内リーグでも首都プラハに本拠を置く2つのクラブチームは100年の歴史を有する。ナショナルチームは1998年長野オリンピックではドミニク・ハシェックなどの活躍で同国冬季五輪初の金メダルを、トリノオリンピックでは銅メダルを獲得した強豪である。2004年にはこの長野五輪の活躍を描いたオペラ「NAGANO」が上演された。また同国出身で、長野五輪の金メダルの立役者でもあるNHLのトップ・プレーヤー、ヤロミール・ヤーガーは移籍を重ねても常に68(「プラハの春」の年)の背番号を付けている。フィギュアスケートでもトマシュ・ベルネルやミハル・ブジェジナなどオリンピック選手を輩出している。
また、他のヨーロッパ諸国同様にサッカーも人気があり、チェコスロバキア時代はワールドカップで2回準優勝(1934、1962年大会)している。チェコ代表はFIFAランキング最高2位まで上がったヨーロッパの強豪として知られ、ヨーロッパ選手権では1996年大会で準優勝するなど実績があるが、選手層が厚くないためかワールドカップではヨーロッパ予選をなかなか突破できず、1993年のスロバキアとの分離後は2006年大会以外出場できておらず、世代交代に失敗した2000年代後半からは低落傾向にある。代表的な選手にパベル・ネドベド(引退)、ヤン・コレル(引退)、トマーシュ・ロシツキー(アーセナル)、ペトル・チェフ(チェルシー)、ミラン・バロシュ(ガラタサライ)、マレク・ヤンクロフスキ(FCバニーク・オストラヴァ)などがいる。
日本では、ヘルシンキオリンピックでの男子マラソンのエミール・ザトペック、1964年東京オリンピックでのヴィェラ・チャースラフスカー(ベラ・チャスラフスカ)の女子体操が古くから広く知られている。
テニスでもマルチナ・ナブラチロワ、ハナ・マンドリコワ、ヤナ・ノボトナ、イワン・レンドル、ペトル・コルダなどの名選手を輩出している。近年では、ラデク・ステパネク、ニコル・バイディソバ、トマーシュ・ベルディハ、ペトラ・クビトバなどの若手の活躍もめざましい。
自転車競技ではロードレースにおいてヤン・スヴォラダがツール・ド・フランスなどの世界的レースで活躍したほか、オンドジェイ・ソセンカは
ツール・ド・ポローニュで二度の総合優勝を果し、UCIアワーレコード(一時間でどれだけの距離を走れるかの世界記録)を長らく保持していた。ロマン・クロイツィガーは2008年のツール・ド・スイスに22歳で総合優勝したのち、その後もアムステルゴールドレースで優勝するなど、世界の第一線で活躍している。また、ZVVZチームがジャパンカップに参戦するなどしている。
世界遺産
チェコ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件存在する。
祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Nový rok | |
変動祝日 | イースターマンデー | Velikonoční pondělí | |
5月1日 | メーデー | Svátek práce | |
5月8日 | 勝戦記念日 | Den osvobození | 1945年のヨーロッパでの第二次世界大戦の終結を記念 |
7月5日 | ツィリルとメトジェイの日 | Příchod Cyrila a Metoděje na Moravu | |
7月6日 | ヤン・フスの日 | Upálení Jana Husa | ヤン・フスの命日 |
9月28日 | チェコ国体記念日 | Den české státnosti | |
10月28日 | 独立記念日 | Vznik Československa | 1918年のチェコスロバキアの独立記念日 |
11月17日 | 自由と民主主義のための闘争の日 | Den boje za svobodu a demokracii | 1989年のビロード革命を記念 |
12月24日 | クリスマス・イヴ | Štědrý den | |
12月25日 | クリスマス | První svátek vánoční | |
12月26日 | ボクシング・デー | Druhý svátek vánoční |
著名な出身者
脚注
- ^ abcdIMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
^ “チェコ、英語略称を「チェキア」に 国連登録を申請へ”. CNN.co.jp. (2016年4月24日). http://www.cnn.co.jp/fringe/35081696.html 2016年4月27日閲覧。
^ “チェコの英語の略称は「チェキア」に ロシア南部の「チェチニア」に似ているとの声も”. 産経新聞. (2016年4月16日). http://www.sankei.com/world/news/160416/wor1604160030-n1.html 2016年4月27日閲覧。
^ “英語の国名は「チェキア」に、チェコ政府が声明”. フランス通信社. (2016年4月15日). http://www.afpbb.com/articles/-/3084108 2016年4月27日閲覧。
^ タキトゥス『ゲルマーニア』泉井久之助訳、岩波書店〈岩波文庫〉1979年、201- 203頁。
^ “Liechtenstein and the Czech Republic establish diplomatic relations (PDF)” (英語). tabsstelle für Kommunikation und Öffentlichkeitsarbeit (2009年7月12日). 2011年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。
^ What’s In a Name?, Expats, Aug 7, 2013.
参考文献
- 増田幸弘 『黒いチェコ』 彩流社、2015年。ISBN 978-4779170409。
関連項目
- チェコ関係記事の一覧
- チェコの交通
- ピルスナー
シュコダ - 自動車会社- タトラ
メオプタ - 光学会社- クルテク〜もぐらくんと森の仲間たち〜
- ヤン・フス
- 宗教改革
- フス派
- フス戦争
- モラヴィア兄弟団
- フッター派
- 三十年戦争
- ハプスブルク家
- ハイフン戦争
外部リンク
- 政府
チェコ共和国公式サイト (チェコ語)(英語)
チェコ共和国政府 (チェコ語)(英語)
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チェコ共和国大使館 (日本語)
- 日本政府
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- 観光
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- その他
JETRO - チェコ (日本語)
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