チリ・クーデター










爆破されるモネダ宮殿


チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターのこと。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、チリ軍が武力で覆した事件として有名である。




目次






  • 1 概要


  • 2 クーデターまでのいきさつ


    • 2.1 1970年選挙


    • 2.2 アジェンデ大統領の任期中


    • 2.3 クーデター




  • 3 クーデター後のチリ


    • 3.1 軍政評議会


    • 3.2 左翼狩り


    • 3.3 海外の反応


    • 3.4 混乱と崩壊




  • 4 チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品


    • 4.1 小説


    • 4.2 映画


    • 4.3 音楽


    • 4.4 その他




  • 5 脚註


  • 6 参考文献


  • 7 関連項目


  • 8 外部リンク





概要





サルバドール・アジェンデ




アジェンデ内閣


東西冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。なおこれは、南アメリカにおいて自由選挙で社会主義政党が選ばれた初めての例であった。


しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト将軍らの軍部が軍事クーデターを起こした。


首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。


モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011年5月23日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表[1]、これにより死亡の状況が明らかになると期待された[2]。同年7月19日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された[3][4][5][6]


このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、冷戦の終結によりアメリカにとっても利用価値がなくなった軍事政権は1989年の国民投票により崩壊した。


なお、一般に「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。



クーデターまでのいきさつ



1970年選挙




























候補者 得票数 %
アジェンデ 1,070,334 36.30%
アレッサンドリ 1,031,051 34.98%
トミッチ
0,821,000
27.84%
総計 2,922,385

1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領のホルヘ・アレッサンドリ、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチ(英語版、スペイン語版)をそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。


冷戦におけるラテンアメリカにおける社会主義勢力の影響力拡大を懸念したアメリカ政府はこの動きに危機感を抱き、政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。


しかし、陸軍総司令官のレネ・シュナイダー(スペイン語版、英語版)将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、アメリカの依頼を拒否した。決選投票直前の10月22日に、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー(スペイン語版、英語版)将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。



アジェンデ大統領の任期中





リチャード・ニクソン





ヘンリー・キッシンジャー


政権交代後しばらくは経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、
アメリカの支援を受けた反共主義を掲げる極右組織が次々に誕生し、CIAが右翼勢力に対する公然非公然の支援を行い政権打倒の動きを強めるなど次第に政情が不安定化する。


また、政権交代後にアジェンデが進めた性急な国有化政策や社会保障の拡大などの社会主義的な経済改革は、自由経済であるもののその規模が大きいわけではない当時のチリ経済の現状にそぐわないものであり、結果的にインフレと物不足を引き起こした。さらにアメリカのリチャード・ニクソン政権が経済制裁を行い、その中でも、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことがチリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。これらの結果、政権末期にはチリ経済は極度の混乱状態に陥った。


しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。


これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による国家転覆を狙うようになった。1973年6月29日には軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した(戦車クーデター(スペイン語版、英語版))。8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ(英語版、スペイン語版)陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれたことで、軍部のクーデターの動きに対する内堀が埋められた状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった。



クーデター





アウグスト・ピノチェト


1973年9月11日、ピノチェト将軍はCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こした。元々反アジェンデ派が優勢な軍部はほとんどがピノチェトに同調したために政府側は有効な対応をとることができず、それゆえクーデターに対する抵抗は労働者・学生らによる自発的で悲惨なものにならざるを得なかった。


アジェンデ大統領の周囲には大統領警備隊などごくわずかの味方しかいなかったが、それでも彼は辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否し、ホーカー ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで炎上するモネダ宮殿内で、自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデが自殺したことは2011年判明したが、その死因については不明である(自動小銃による自殺説が挙げられている)。



クーデター後のチリ



軍政評議会




ピノチェトと軍政評議会のメンバー




クーデター後の焚書


クーデター後ただちに、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ (José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・リー (Gustavo Leigh)、国家憲兵隊のセサル・メンドサ=ドゥラン (César Mendoza Durán) を構成員とする軍政評議会が発足し、その後ピノチェトと軍政評議会のメンバーがチリを支配することとなった。



左翼狩り


政権を握った軍部はすさまじい「左翼狩り」を行い、労働組合員を始めとして多くの市民が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレの歌い手ビクトル・ハラもいた。ハラが殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼系市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。


前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。


またクーデターにより多くの左派市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、クーデターの翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察「DINA(英語版)」の仕掛けた車爆弾によって妻とともに暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化され、75年10月には、キリスト教民主党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバの下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトン(英語版、スペイン語版)が、妻と共に亡命先のイタリアで襲撃され重傷を負った。


これら一連の非公然のテロ活動は、チリのDINA単独によるものではなく、ブラジルやアルゼンチン、ボリビア、バラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と非公然に連携し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していったコンドル作戦の一環だったことが今日では知られている。



海外の反応


ピノチェト率いるクーデターを支援したアメリカ政府はこれらの行動を事実上黙認したものの、1976年9月には、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエルが滞在先のアメリカのワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で暗殺された。この事件は、よりによってアメリカの首都でのテロ活動であったため、ジミー・カーター大統領が態度を硬化させ、一時ピノチェト政権との関係が悪化した。その後関係は一時は回復したが、元の状態にまでは戻らず、アメリカ国内にはピノチェト政権に対する不信感が残った。そして、冷戦の終結により、利用価値が無くなったとされてアメリカに見放される形で、ピノチェトは1990年に大統領を辞任するが、レテリエル暗殺はその伏線にもなっている。


日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共産主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデター後すぐに社会主義国のキューバとの国交を断絶。社会主義国側も対抗して、次々とチリとの断交に踏み切った。社会主義国を名目とする一党独裁国家の中では、ルーマニアと中華人民共和国だけがピノチェト政権との外交関係を維持した。



混乱と崩壊


国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を公表しなかった。


ピノチェトの独裁政権は1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィンが19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として影響力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。なお2005年9月にチリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられたが、結局ピノチェト自身の罪が裁かれることなく2006年に死去した。



チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品



小説



ラテンアメリカ




  • イサベル・アジェンデ/木村榮一訳『精霊たちの家』国書刊行会 1989年 ※下記の映画『愛と精霊の家』の原作


  • ガブリエル・ガルシア=マルケス/後藤政子訳『戒厳令下チリ潜入記~ある映画監督の冒険』岩波新書 1986年

  • アントニオ・スカルメタ/鈴木玲子訳『イル・ポスティーノ』徳間文庫 1985年 ※同名映画の原作。映画版はイタリアに舞台を移し、時代もパブロ・ネルーダの亡命時代に設定している。






アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国


  • トーマス・ハウザー/古藤晃訳『ミッシング』ダイナミック・セラーズ 1982年 ※下記映画の原作





日本の旗 日本




  • 五木寛之『戒厳令の夜(上・下)』新潮文庫(初版は新潮社、1976年)


  • 深田祐介『革命商人(上・下)』新潮文庫(初版新潮社、1979年。)


  • 大石直紀『サンチャゴに降る雨』光文社 2000年。





映画



  • 「サンチャゴに雨が降る」(1975年、フランス・ブルガリア合作、エルビオ・ソト監督、出演:ジャン=ルイ・トランティニャン他、音楽:アストル・ピアソラ)(ビデオソフト邦題「特攻要塞都市」)

  • 「ミッシング」(1982年、アメリカ作品、C.コスタ・ガヴラス監督、出演:ジャック・レモン、シシー・スペイセク他、音楽:ヴァンゲリス)

  • 「戒厳令下チリ潜入記」(原題:Acta General de Chile)(1986年、スペイン作品、ミゲル・リティン監督)(ドキュメンタリー映画)

  • 「愛と精霊の家」(1993年、ドイツ・デンマーク・ポルトガル合作、ビレ・アウグスト監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェレミー・アイアンズ、メリル・ストリープ、グレン・クローズ、アントニオ・バンデラス他)

  • 「愛の奴隷」(1994年、アメリカ・スペイン・アルゼンチン合作、ベティ・カプラン監督、原作:イサベル・アジェンデ、出演:ジェニファー・コネリー、アントニオ・バンデラス他)

  • 「死と処女」(1995年、アメリカ作品、ロマン・ポランスキー監督、出演:シガニー・ウィーバー、ベン・キングズレー、スチュアート・ウィルソン)

  • 「11'09''01/セプテンバー11」第6話(2002年、イギリス、ケン・ローチ監督、出演:ウラジミール・ヴェガ)

  • 「マチュカ〜僕らと革命〜」(2004年、チリ=スペイン=イギリス=フランス、アンドレス・ウッド監督、出演:マティアス・ケール、アリエル・マテルーナ、マヌエラ・マルテリィ、アリーン・クッペンハイム他)

  • 「ぜんぶ、フィデルのせい」(2006年、フランス、ジュリー・ガブラス監督、出演:ニナ・ケルヴェル、ジュリー・ドパルデュー、ステファノ・アコルシ、バンジャマン・フイエ他) - 1970年代フランスのブルジョワ知識人家庭が、アジェンデ政権の発足やフランコ政権のファシスト的状態に影響を受け、奮闘する様をブルジョワ生活に未練を抱く娘の視点から、アジェンデ政権崩壊までの時期を通して描く。

  • 「コロニア」(2015年、ドイツ、フランス、ルクセンブルク、フローリアン・ガレンベルガー監督、出演:エマ・ワトソン、ダニエル・ブリュール、ミカエル・ニクヴィスト) - ピノチェト独裁政権下でナチスの残党パウル・シェーファーと結びついた拷問施設「コロニア・ディグニダ」(尊厳のコロニー、後のビジャ・バビエラ)の実態を描いた。



音楽




  • キラパジュン El pueblo unido jamas sera vencido(邦題「不屈の民」)他多数


  • インティ・イリマニ Canto a los caidos(倒れたものに捧げる歌)ほか多数


  • シルビオ・ロドリゲス Santiago de Chile(「Días y flores(スペイン語版)」収録)ほか


  • スティング「孤独なダンス」They Dance Alone(1987年のLP『ナッシング・ライク・ザ・サン』に収録)


  • フレデリック・ジェフスキー 「不屈の民」変奏曲


など



その他



  • 『MASTERキートン』 - 第24話「14階段」にてピノチェト政権下のチリを扱っている。

  • 『プリンプリン物語』 - 劇中に登場する独裁国家「アクタ共和国」の国名は軍事政権下のチリと「塵芥」をかけたものとされる。

  • 『ドラえもん のび太の宇宙小戦争』 - 冒頭で民主選挙で選ばれた大統領が軍部のクーデターに遭遇し、大統領府に籠城して最後の抵抗を試みようとするくだりが描かれており、チリ・クーデターを意識した展開となっている。



脚註





  1. ^
    “Chile's buried secrets”. LAT. www.latimes.com (2011年5月23日). 2011年7月21日閲覧。



  2. ^ “Chilean leader's body exhumed”. LAT. www.latimes.com (2011年5月24日). 2011年7月21日閲覧。


  3. ^ “Allende’s Death Was a Suicide, an Autopsy Concludes”. NYT. www.nytimes.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。


  4. ^ “Informe del Servicio Médico Legal confirma la tesis del suicidio de ex Presidente Allende”. www.latercera.com (2011年7月19日). 2011年7月21日閲覧。


  5. ^ “チリ・故アジェンデ大統領は「自殺」 クーデターで死亡”. asahi.com (朝日新聞社). (2011年7月20日). オリジナルの2011年7月22日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110722021404/http://www.asahi.com/international/update/0720/TKY201107200454.html 2011年7月21日閲覧。 


  6. ^ “アジェンデ元大統領は自殺 遺体掘り起こし確認 頭撃ち抜いて チリ”. MSN産経ニュース (産経デジタル). (2011年7月20日). オリジナルの2011年8月28日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110828133259/http://sankei.jp.msn.com/world/news/110720/amr11072013380006-n1.htm 2011年7月21日閲覧。 




参考文献



  • 中川文雄、松下洋、遅野井茂雄『世界現代史34 ラテンアメリカ現代史II アンデス・ラプラタ地域』山川出版社、1985年。


  • 増田義郎編『新版各国史26 ラテンアメリカ史II 南アメリカ』山川出版社、2000年。

  • ロバート・モス/上智大学イベロ・アメリカ研究所訳『アジェンデの実験』時事通信社、1974年。


  • 朝日新聞社編『沈黙作戦 チリ・クーデターの内幕』朝日新聞社、1975年。

  • ジョアン・E・ガルセス/後藤政子訳『アジェンデと人民連合 チリの経験の再検討』時事通信社、1979年。


  • アウグスト・ピノチェト/G.ポンセ訳『チリの決断』サンケイ出版、1982年。

  • J.L.アンダーソン、S.アンダーソン/山川暁夫監修、近藤和子訳『インサイド・ザ・リーグ 世界を覆うテロ・ネットワーク』社会思想社、1987年。

  • 伊藤千尋『燃える中南米』岩波新書、1988年。

  • 高橋正明(文)、小松健一(写真)『チリ 嵐にざわめく民衆の木よ』大月書店、1990年。



関連項目



  • アウグスト・ピノチェト

  • ヘンリー・キッシンジャー

  • ビクトル・ハラ

  • 開発独裁

  • アメリカナイゼーション

  • 内政干渉

  • 白色テロ


  • アメリカ同時多発テロ事件(2001年の「9・11」)



外部リンク



  • Chile Documentation Project: 公開されたアメリカの外交文書



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